か) 鏡

 胎児のように体を丸めて、葵と二人、じっと向かい合っているのが好きだった。
 ねぇ茜、あたし達に鏡なんて必要なのかなぁと、彼女はわたしそっくりの笑顔を浮かべる。お互いを映す瞳の色も、にっとした口から覗く犬歯も、同じくらい伸ばした黒髪も、体の中を流れる血液だって遺伝子だって、わたしとあたしは何もかもがそっくりなのだ。
「わたしは、葵だからね」
「あたしは、茜だからね」
 単純なごっこ遊びだった。お互いの名前を入れ替えて、わたしは葵に、葵はわたしになりきって、鏡のようにお互いの真似をする。
 例えば相手が右手を動かせば左手を、左の瞼を閉じれば右の瞼を閉じる、といった具合に。いつも最後には額をくっつけてくすくすと笑った。
「わたしは、葵とずっと一緒にいるよ」
「あたしも、茜とずっと一緒にいるよ」
 同じ声で囁きながらぎゅっと手を握り合う。
 ねぇ、わたしの世界にはあなたしかいないんだよ。


き) 気付いて。

 葵が髪の毛を切った。
 わたし達はいつの間にか成長してしまっていて、胎児のように体を丸めて向かい合う事も、単純なごっこ遊びをする事もなくなった。わたしが映っていたはずの葵の瞳は眼鏡という冷たく透明な板で遮られていて、犬歯と一緒にあまり笑っているところも見なくなって、そして同じくらい伸ばしていた黒髪が、今日ついに彼女だけ短くなってしまった。
 血液だけが、遺伝子だけが、わたしとあたしを繋いでいる。
「葵」
「何? 姉さん」
 名前も呼んでくれなくなった。まるで茜と葵は別物だからとでも言いたそうに。わたしには、それが酷く辛い。わたしは葵で、葵はわたしであったはずなのに。
「わたしも――」
 わたしも髪を、あなたと同じくらい切ってみようか。
 そう言おうとしたけれど、喉の辺りが引きつるような感じがして声が出せなかった。不思議そうな顔をする葵に、なんでもないよと首を横に振る。そう、と特に気にする様子もなく、葵は久しぶりに犬歯を覗かせて笑った。
「これで、もう姉さんと間違われる事もなくなるね」
 ああ。


く) 鎖

 双子である事はわたしと彼女の絆だと思っていた。
 だって、自分がもう一人いるなんてとても素敵なこと。わたしは自分が葵でもあるのだと信じて疑っていなかったから、誰かが同じ容姿をしたわたしとあたしを間違えてしまうことに喜びさえ感じていた。
 葵と呼ばれたなら、それを否定せずに葵であるように振舞った。昔話に出てくる靴屋の小人になった気分で、彼女の手助けをしているのだと。
「いい加減にしてよ、茜!」
 だから、なぜ葵に怒られているのか理解できなかった。あの日わたしはあたしに告白してきた男の子を振ったばかりで、葵はあんなの好みじゃないよねぇと話してあげただけであるのに。
 彼女は涙でくしゃくしゃになった顔でわたしの襟首を掴んでいる。息が上手にできなくて少し苦しかった。
「なんであたしのふりなんてするの!?」
 だって葵ならああすると思ったからと答えた瞬間、ぱしんと乾いた音がして頬が熱くなった。叩かれるなんて、初めてだった。
「……あたしは、茜じゃないんだよ?」
 嗚咽と共に紡がれた言葉でやっと分かった。
 わたしの彼女への絆は、重たい鎖であったのだ。


け) 激痛

 いつから間違っていたんだろうとこの頃よく考えるのだけれど、結局のところ全て間違っていたのかもしれない。
 そっくりということはつまり、似ているというだけで同じというわけではないのだ。わたしは茜であって、葵ではなかった。
 湯船から身を乗り出して、浴室の壁に貼り付けられた鏡を絶望的な気分で覗き込む。鏡に映っているのは髪の毛の長い茜だけで、髪の毛の短い葵が映ることはもうないのだ。
 仕方なく手を頭の後ろにまわして髪の毛を束ねる。なんとか、葵のようにはなれた。
「ごめんねぇ」
 ほろほろと涙が零れてくる。葵に直接言えばいいのに、それはまだ、自分と彼女が別物である事を認めてしまうようで怖い。半身だと思っていたものが剥がれていくのがこんなにも痛いとは想像もつかなかった。わたしとあたしはずっと一緒にいるものだと思っていたから。
「ごめんねぇ」
 鏡を覗き込むのをやめて、ゆらゆらと揺れる温かな液体の中で一人、胎児のように体を丸める。
 母の子宮の中では二人だったけれど、今はもう離れ離れで。
 わたしは、茜だ。――葵では、なかった。


こ) このままで。

 お風呂からあがるとのぼせてしまったのか気分が悪くなって、体を引きずるようにしながらベッドに倒れこんだ。そういえば昔は同じ部屋で過ごしていたのになぁとぼんやり思い返す。わたしがあんなことをしなければ、葵はまだこの場所に居たのだろうか。
「姉さん?」
 開いたままの扉からうつぶせになっているわたしが見えたのか、葵が声をかけながら部屋に入ってくる。枕に顔を埋めたまま、んん、と力無く呻いて返事をした。
「具合が悪いの? 水持ってこようか――」
「葵」
 離れていこうとする葵の手のひらを握って引き止めた。どうしたの、と彼女は戸惑ったように顔をあげたわたしを見つめる。きぃんと耳鳴りがして、頭がくらくらした。
「葵は、わたしが嫌いになった?」
 そうだよ、とでも言われたら死んでしまおうかなと思いながら尋ねる。半分であるわたしにとって、生きていくことは苦痛でしかないように感じた。
 葵は困ったような顔をしてわたしの頭を撫でる。まだ少し湿っていた長い髪の毛を指で梳いた。
「嫌いになったわけじゃないよ」
 でもあたしは葵でいたいから、離れてしまうのは仕方がないんだよ、茜。
 そう名前を呼んでくれる。もう少しこのままでいてよと我侭を言うと、葵もベッドの中にもぐりこんでくれた。胎児のように体を丸めて、背中合わせになる。
 ねぇ、わたしの世界にはあなたしかいなかったんだよ。


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