【年下の女の子】

 昔から優柔不断で煮え切らない性格をしていたし、特に夢があるわけでもなかったので、両親もそうだったように自分もなんとなく教師になった。
 赴任先の女子高校では数学を教えていて、今年からは2年生の担任も受け持っている。人気があるわけでも嫌われているわけでもない宙ぶらりんな地位を獲得して、ぬるま湯のような生活を送っていた。
 このままでいいのかと思いながらも、どうせ残りの人生もなんとなく過ぎていくんだろうなと半ば絶望にも似た感情を日々抱いている。
「先生はいつも、死んだ魚のような目をしているね」
 昼食を摂るために入ったファミリーレストランでどのメニューを選ぶのか延々と考えていると、向かいにいる自分より十は離れた教え子がそんな失礼な事を言いながらトマトサラダをフォークでつついた。彼女が頼んだエビグラタンはもう半分近く無くなっていて、湯気も殆どたっていない。いい加減自分も何か頼まなくてはと思ったけれど、ハンバーグにするかパスタにするかとうろうろと視線は彷徨ったままだ。
「まあね。未来も希望も見えないわよ」
 自分が誰か適当な男と結婚して家庭に落ち着く姿なんて想像もつかないし、仕事に情熱を燃やして生きていく自信もない。なんとなくしわしわのお婆さんになって、なんとなく一人でお墓に入ってしまいそうだ。
 同じ死んだ魚でも食べられるものとそうでないものがあるから、自分は美味しい刺身や煮付けになる事もなく、ただ腐っていくだけではないかと話しながら注文用のボタンを押す。何故生徒にこんな話をしているんだろうと少し思った。
「エビグラタン、一つ下さい」
 やってきたウエイトレスに結局はそう告げる。しばらくすると一般のレストランではありえない早さでそれはテーブルに並んで、適当に冷ましながら口に運んだ。彼女が手を伸ばして堂々と熱が通った赤い甲殻類をさらっていこうとするのを防衛する。
「この後どうするの?」
「先生はどうしたい?」
「私に聞かれてもね」
 今こうしているのだって彼女の要望であるので、自分には決め辛い。それにしてもこんなつまらない人間と休日を過ごしたいだなんて変わっている。特定の生徒と親しくするのは教師としてあまり良くないとは思うのだけれど、プライベートなら関係ないかと誘いを断りきれなかった。
 それに彼女――佐伯蓮は大変美しい少女である。肩の辺りで切り揃えた色素の薄い髪の毛も、角度や曲線が見事な形をした耳の軟骨も、ぽってりとした色艶の良い唇も、長く濃い睫毛に飾られた丸い瞳と二重瞼も、彼女を作り出すパーツの全てがまるで天使から写し取られたように素晴らしいのだ。
 自分は無趣味で何事にも無感動な人間だけれど、綺麗なものは一般と同じかそれ以上に好きだった。用事が無いなら明日一緒にどこかへ出かけないかという突然の申し出を受けたのも、蓮の容貌が強く影響しているかもしれない。
「それなら、一緒に散歩をしようよ。湖のあるこの先の公園まで手を繋いで歩いて、ベンチに腰掛けながら鳩に餌をあげて、ソフトクリームも食べて、最後にはアヒルのボートを漕ぐんだよ」
「……そのコースは、なんだかおかしいんじゃない?」
 映画や小説で仲睦まじい男女がそうしている光景を思い描きながら首を傾げる。そこに女教師と女子高生を当てはめるのは不自然な気がした。しかし彼女は、そんな事はないよと首を横に振る。
「一番正しいコースだよ。先生が他にやりたい事があるなら変更するけれど」
「……別にないわ」
 なら問題はないねと蓮はこちらの器から再び甲殻類をさらおうとする。
 今度はそのまま、おとなしくエビを献上した。


「なかなか上手くいかないものだね、先生」
 指を交互に絡ませるようにこちらの手を繋いだ彼女は、さくさくと乾いた音を立てる枯葉を踏みながら溜め息をついた。冷たい風が後ろ側から吹いてきたので、二人揃ってきゅっと身を縮ませる。
「鳩はいないし、ボートは修理中だよ。秋になると、ソフトクリームは売っていないのかな」
「アイスならコンビニでも売ってるわよ」
「あのソフトクリームじゃないと意味がないんだよ」
 先生は分かっていないねと、蓮は呆れたようにまた溜め息をついた。今日の支払いは彼女ではなく自分が全て受け持っているのだからソフトクリームより幾分安い市販のアイスの方が嬉しいのだけれど、どうも蓮はこだわりを捨てきれないらしい。
 高校生に奢ってもらうほど貧窮しているわけではないが、こういう時は先生が奢ってくれるものだよと美しい笑顔で言ってくる蓮には若干の不満を拭いきれない。
 それなりに整備された公園の広場で木製のベンチを見つけて、とりあえずあそこに座らないかと蓮に尋ねた。
「ねぇ先生、ハンカチは持ってる?」
「持ってるけど」
 それを貸してよと言われたので、何に使うのかよく分からないままポケットから丁寧に畳んだ白いハンカチを取り出して手渡した。意外に几帳面なんだねと軽く驚いたような顔をしながら、蓮も手に提げていた鞄の底から愛らしいひよこがプリントされたハンカチを取り出した。角の合わないまま畳まれていて、皺が寄っている。
「あ」
 それを二つともベンチに敷いて、蓮は白いハンカチの上に腰掛けた。
「うん、先生は紳士だね」
「……それはどうも」
 満足そうに微笑む彼女に、自分でやったくせにとも言えずに愛らしいひよこの上に腰掛ける。皺一つ無いハンカチは自分の唯一のこだわりだったのだけれど、蓮には蓮のこだわりがあるらしいので諦めてしまった。
 蓮が地面を靴で蹴るように足をぶらぶらと揺らしながらこちらの肩に頭を擦り寄せてくるので、誰かとじゃれあうのが好きな子供なんだろうかとぼんやりと考える。学校で見る限り彼女は皆に大変愛されていて、その美しい容貌に嫉妬されることもなく、ただただ暖かな光ばかりを浴びて育っているようだった。人心を惑わすような何かが、佐伯蓮にはあるのかもしれない。
「楽しい?」
 何がどうというわけでもなく、ただ漠然と聞いてみる。
 人を楽しませるという意識に欠けているので、冗談を言ったりするのは苦手なたちなのだ。黙って座っているだけで満足してくれるような相手は今まで見た事がなかった。
「楽しいよ。せっかくのデートだからね」
「それなら……んん」
 それならいいわと言おうとしたけれど、何か妙な単語が聞こえた気がして咳払いをする。蓮は不思議そうにこちらを見上げて、デートだよ、ともう一度繰り返した。
「私は最初からそのつもりで誘っていたよ」
 だから公園まで手を繋いだり、ボートを漕いだりするのが一番正しいコースだったのだと、ようやく納得がいく。
 しかし自分にはまるでそんな気が無かったので、多少混乱しながら首の後ろを掻いた。とても困った時はこの辺りが痒くなるような錯覚を覚える。
「いや、でも。佐伯さんは生徒だし、女の子でしょう」
「それは些細な事だよ。好きな人とするのがデートなんだから」
「好きって」
 益々首の後ろが痒くなる。そういう話を聞いた事はあっても、いざ自分がその対象になってしまうとどうしていいか分からなかった。
「佐伯蓮が先生を――今井結花さんを、愛しているという意味だよ」
 吸い込まれそうな双眸が、じっとこちらを見つめている。雰囲気に流されてしまいそうになって慌てて首を横に振った。
 こればかりは、なんとなくでは駄目なのだ。過去に告白を受けて流されるままに付き合った男達とは上手くいった試しがなかったし、ましてや目の前の彼女は同性である。それも高校生で、教え子なのだ。
「急に言われても、困る……」
 跳ね上がった心臓を無理やりに押さえ付けるように声を絞り出した。一度瞼を閉じて蓮と目を合わせないようにしなければ、返事を急かされているようで焦燥感が募る。
 だってとかそのとか、ああとかんんとか、次に繋がらない言葉ばかり繰り返して、いつまで経っても答えを返す事が出来なかった。
「急じゃなければ付き合ってくれる?」
「だから、ええと」
 とにかく答えようにも考える時間が圧倒的に足りないのだという事をしどろもどろに伝えてみせる。
 自分とは正反対な、あまりにも真っ直ぐな視線に耐え切れなくなって、それに、とつい余計な事を付け加えてしまった。
「こういうのって、普通じゃ、ないし」
 ぴくりと蓮の美しい顔が悲しげに歪む。日向に咲いている花が、急に影に覆われたような。
 もっとましな言い訳があっただろうと内心で自分を叱咤した時にはもう遅くて、透明に光る水滴が彼女の目からつぅと零れた。
 ああ、泣かせてしまったのだ。
「……今日は、もう帰るね」
 また言い訳を始めようとする間もなく彼女は立ち上がると、すぐにこちらに背を向けて走りさってしまう。
 置き去りにされた白いハンカチが乾いた風に吹かれてレンガの敷き詰められた地面にぱさりと落ちるのを、情けなく眺めた。

  □ □ □

 昨晩は数学の問題集をただひたすらにガリガリと解いていたので、今朝は寝不足の、見るからに思考力に欠けた顔で職場に出た。ふらふらと教務室のデスクに座る自分に同僚の男性教諭が、眠たそうですねとつるりとした禿頭を撫でながら笑う。何がおかしい。
 問題集を解いていたのは仕事でも宿題でも何でもなく、ただの趣味だ。昔から綺麗なものと同じくらい数学が好きだった。ただ数字を足して引いて掛けて割るだけの簡単な問題も、生徒が見るだけで嫌そうな顔をする難しい問題も、最後には必ず答えがあるのだと思うと安心する。紙の上に整然と並べられた数字と記号の羅列も、とても美しいと感じた。
 数式の答えは、分かる。
 自分が目下直面している問題の答えは、全然見つからなかった。同性の、とても美しい容姿をした教え子から愛の告白を受けたという問題である。
「ああー……」
 顔を両手で覆って死にそうな声で呻く。分からない数式の問題を解くにはマニュアルがある。大抵、書店なんかで売っている。
 では、この場合どこに行けばマニュアルが売っているんだろうか。普通の人なら一体どんな対応を――まで考えて、いや昨日はその普通という言葉で蓮を傷つけたのではないかと余計に死にそうになった。
 朝の会議を途中で放棄したくなるような気分で済ませ、遅刻しそうになってばたばたと忙しなくかけていく生徒に追い抜かれながら担任している2年3組に向かう。6クラスある中の、宙ぶらりんな位置にある教室だった。
「先生、おはよう」
「おは……おはよう」
 教室のドアのすぐ手前で声をかけられたので反射的に挨拶を返そうとしたのだけれど、それが蓮だと気付いて一度息を飲んでからまた声を吐き出す。まるでタイミングを合わせたように、きんこんかんこん、間延びしたチャイムが響いた。
 彼女はいつも通りの美しい笑みを浮かべていて、一見すると何か問題を背負っているようにはとても見えない。
 ひょっとすると昨日自分が見ていたのは、妄想が多分に含まれた夢だったような気がしてくる。スーツのポケットに丁寧に折り畳まれて入っている愛らしいひよこのハンカチが、そうではないと主張しているけれど。
 とりあえずまずはこれを返さなければともたつきながらハンカチを取り出して、人通りは無くとも一応廊下の隅に呼び寄せる。自分より少し背の低い彼女と向き合いながら首の後ろを掻いた。
「あの、佐伯さん。昨日は――」
「別に気にしていないよ」
「でも」
「気にしていないよ」
 遮るように蓮は繰り返す。目に見えない透明な壁のようなものを感じて、言葉を続ける事が出来なかった。拒絶されている?
「だから、先生も忘れていいよ」
 すっと手の中のハンカチが抜き取られる。丁寧に畳んでいた角が解けて、彼女の制服のポケットにしわくちゃに詰め込まれた。
 蓮はそのまま教室の中へ入っていったのだけれど、追いかけて引き止める決断力を持ち合わせていないのでまた情けなく立ち尽くす。答えを出す事が出来なかった問題を布切れと一緒に取り上げられてしまって、ほっとするような寂しいような、ひどくもやもやとした心地の悪いものが胸の中に渦を巻いた。
 首の後ろを掻いてから一度閉じられたドアを開けて教室に入る。いつものように出席を取って、いつものように連絡事項を伝える。
 また死んだ魚のような目をして、ぬるま湯の中でゆっくりと腐っていくのだ。



 ―――――
 続かない。
 名前が全然違うのは毎回毎回わりと適当に変えてみてるからです。
 基本は同じはずだから一応原型というかなんというか。