【嘘つきミルクティー】
変わった後輩が一人いて、私にとてもよく懐いている。
彼女は小柄で愛らしい顔立ちをしており、少し短いポニーテールがよく似合う。呼んでみると嬉しそうな顔をしてこちらを見上げるのだけれど、その度に髪の毛がぴょこぴょことまさに犬の尻尾のように揺れるものだから、私はそこに何かギミックでも仕掛けられているのではないかと手に持ってしげしげと調べる事が多かった。私が急に触れてくるものだから最初は何事かと驚いておとなしくしていた彼女も、今ではからかわれているのだと気付いたらしく怒ってくる。
実を言えば私と彼女が出会ってからまだ日が浅い。今から3日ほど前の、入学式の翌日だっただろうか。私は高校3年生になっていて、昼休みに学校の屋上にある貯水タンクに背を預けながら焼きそばパンを食べていたのを覚えている。
屋上は本来立ち入り禁止区域なので、私以外の人間は誰一人としていない。何故私がそんな場所に出入りできるのかというと答えは簡単で、以前この場所の鍵を職員室からちょろまかした時にこっそりと合鍵を作っていたからだ。
1年生のうちからそんな事をして屋上に入り浸っていた私は周囲から変わり者と思われていたので当然友達も少なく、教師達からは問題児として見られていた。
焼きそばパンを食べ終えて、紙パックのミルクティーを啜っていた時の事だ。私はこのメーカーの製品は味が甘すぎるようであまり好きではないのだけれど、いつも決まってこのメーカーのミルクティーを買う。
ふと横を見るといつの間にか誰かが私と同じように貯水タンクに寄り掛かっていたのでぎょっとした。手に持っていたパックを強く握ってしまったせいで中身がストローから勢い良く噴き出して、盛大に噎せてしまう。
背中を丸めてげほげほやり始める私に隣りの誰かも驚いてしまったようで、おろおろと背中をさすってきた。
「だ、大丈夫ですか?」
「う、あ、ああ」
危うく陸で溺れ死ぬ所だったと、私は本当にほっとしていた。そのせいなのかどうか分からないけれど、頭の中は相当ぐちゃぐちゃになっていたように思う。あの時私は心配そうにこちらを覗き込む彼女の顔を見ても驚く事が無く、代わりにただ何とも言い表せない複雑な気分を抱える事になった。
丸めた背中を元に戻しながらぽかんとしている私を見て、彼女もはっと表情を切り換える。必死に縋り付くような顔で見上げてきて、ポニーテールが揺れた。
「あの、私の事、見えるんですか?」
よく分からない事を聞いてくる彼女は、少々変わった出立ちをしている。
私と同じ、この学校の制服である赤いタイのついた黒いセーラー服を着ているけれど、体の至る所に真っ白な包帯が巻かれているのだ。
まるで重傷患者のように見えるけれど不思議と痛々しくはなくて、転がっていた毛糸玉で遊んでいたら体中に毛糸が絡まってしまった小動物のような印象を受けた。
「本当に、見えてるんですよね?」
もう一度聞かれてこくりと頷く。
何故こんなわけの分からない質問をしてきたのか、彼女を眺めていると分かった気がした。
「よかった……!」
心底安心して泣き出しそうになっている彼女の体は、向こう側の景色が少し透けて見えていたから。
□ □ □
私は心霊現象を扱うテレビ番組だとか映画だとかが大抵嫌いで、生き物が死ねばみんな消えてなくなるだけなのさと考えていた。
だって幽霊なんて見たことがなかったし、見たことがないものを信じろと言われてもなかなか難しい。
それでも教室の真ん中辺りにある机に座っている私と一緒に、前にいる教師の禿頭を眺めている彼女の事を考えるとそういうわけにもいかなかった。
3年生の教室の中に、見るからに新入生である包帯でぐるぐる巻きになった少女が突っ立っていたら普通は騒ぎになりそうなものだけれど、みんなは特に気にする様子もなく授業を続けている。何故なら私以外には誰一人として彼女を見る事の出来る人間がいないからだ。
これはよく聞く一般的な幽霊の特長であるので、やはり信じた方がいいのかも知れない。
ちらりと彼女を見上げると、視線に気付いた彼女はにっこりと笑う。授業中は喋る事が出来ないから話しかけてきても無駄だと言ってあるので、あと5分足らずで始まる昼休みが待ち遠しいんだろう。
チャイムが鳴って教師が出て行くと、それに少し遅れて私と彼女も教室から出ていく。私を引き止めて一緒に昼食を取ろうとする人間はもういないので、手には昼食用に朝買ってきたコンビニの袋をさげていた。中身はいつも通りのパンとミルクティーだ。
「ねぇ先輩。たまには早起きしてお弁当作りましょうよ。私が起こしてあげますから」
屋上の鍵をがちゃがちゃまわしていると彼女がそう提案してきたけれど、朝は眠たいから駄目だと却下した。
驚いた事に、あの日彼女は私の家にまでついてきてしまった。以来朝から晩まで毎日を共に生活するようになってしまったのだけれど、私もそれに慣れつつあるから驚きだ。学校の幽霊というのは敷地から出てこないものだと思っていたのだけれど、そうでもないらしい。
他にも彼女には幽霊らしくない所が多々あって、例えば私は彼女に普通に触れる事が出来る。感触だってまるで普通で、冷たくもなければ手が突き抜けたりもしなかった。空でも飛べるのかと思えば普通に歩くし、壁を通り抜けられるわけでもない。
ただ私以外の物には一切触れる事が出来ないようで、ドアノブすらも開ける事が出来なかった。壁を通り抜けられないのにドアも開けられないのだから、要するに私が開けてやらないとどこにも行く事が出来ない。どうも、人間より不便だ。コンビニの自動ドアで彼女だけが店内に閉じ込められてしまった時はさすがに焦って、私は彼女がドアを通りすぎるまでの数秒間、コンビニの入口で一旦立ち止まる妙な客だと思われている。
そんなわけで彼女は私と四六時中一緒だった。さすがに、トイレや風呂の時は外で待たせているけれど。
「君は本当に幽霊らしくないな」
貯水タンクにもたれて卵のサンドイッチを口にしながら話しかける。隣の彼女は空を飛ぶ真っ白な鳥を眺めている所だった。はたから見れば私の独り言なんだろうけれど、どうせここには私と彼女しかいないので気にする事もない。
「だって自覚ないですから。気付いたら、先輩の隣りにいたんですもん」
彼女が覚えているのは、入学式の日にみんなと同じ体育館に立っていた所からだという。自分が何故こんな格好をしているのか、何故こんな場所にいるのか何も分からず、周囲に話しかけようとしても誰も彼女に気付いてくれない。そしてドアを開けられない彼女はそのまま誰もいない体育館に閉じ込められてしまった。
途方に暮れながら夜が明けて、気付けば今度は1年生の教室の中に立っていたという。そこでもやはり自分に気付く人間は一人もおらず、また彼女は途方に暮れる。
そして次に気がついた時には屋上の貯水タンクに寄り掛かっていて、丸一日かかったそこでようやく、私という自分に気付いてくれる人間に出会ったというわけだ。
生前の記憶はないのかと尋ねてみたが、まるで覚えていないと答えられた。名前も、死に方すら分からないという。
「でもこんなに包帯巻いてるんだし、きっと事故か何かだったんでしょうね」
軽い調子で笑う彼女に、そうだろうなと私は複雑な気分で同意した。
「……成仏とか、したくないのか?」
「自分の名前とか、友達の名前とか、これはいないかもですけど恋人の名前とか、そういうのを思い出せればするかもしれませんねぇ」
「ほお。それなら機会があれば調べてやろう」
そう言いながらもこの3日間、私は彼女の事を何一つ調べていない。彼女には悪いが生来の面倒臭がりだし、実を言えば彼女とこうして屋上で並んで過ごすのが楽しかったからだ。
「君も食べるか?」
手に持ったサンドイッチを一口大に千切ってから差し出してみると、彼女は困ったような顔をする。
幽霊だからお腹が減るわけではないし、なにより自分が物に触れられないのは知っているくせに嫌がらせを受けているんだろうかといった顔だった。
「私の手渡しなら食べられるかもしれないだろう」
「わぷっ」
ぐいと彼女の口元にサンドイッチを差し出してみると、思った通りコンビニの少し乾いたパンは彼女の唇に触れる。彼女は驚いたように目を丸くして、それから恥ずかしそうに私の指で支えられているサンドイッチを食べた。
「美味いか」
「……はいっ」
「もう一口ほどやろう」
嬉しそうな顔をする彼女に気を良くして、またサンドイッチを千切って彼女に与える。時折指に触れる彼女の唇の感触に、雛鳥を育てる親鳥のようだと思った。
そういえば写真には写るのだろうかと考えて、空いた手でスカートのポケットにある携帯電話を取り出してみる。1年生の頃から使っている品なので型遅れだけれど、一応カメラも付いているのだ。もちろんあまり画質は良くないが、私はこれで写真を撮るのが好きだった。
シャッターを押すと手渡しでサンドイッチを食べている包帯まみれの少女が、幽霊とは思えないほどはっきり写る。他人から見ればサンドイッチを手にしている私の腕だけが見えるのかも知れないけれど、私には十分だ。
サンドイッチを食べ終えてからいつもの甘すぎるミルクティーのパックにストローを突き刺す。あまり美味しそうに飲まない私を、彼女はいつも不思議そうに見ていた。
「それ、嫌いなら飲まなかったらいいじゃないですか」
「好きではないが、これを飲むのが趣味なんだ」
「変ですよそれ」
途中まで飲んでいると彼女の羨ましげな視線がやはり気になった。サンドイッチと違ってミルクティーは液体だから、彼女に分け与える事は難しいのだ。
「私それ大好きなのに……」
残念そうに呟く。
生前の記憶はないはずだけれど、私も彼女はこのメーカーのミルクティーが大好きだろうなとは思っていた。
「口を軽く開けるといい」
「ふえ?」
指示すると彼女は間抜けな顔で唇を開く。人間と全く変わらないピンク色の舌が覗いて見えた。
私はパックの中身を口に含んでから身をかがめると、彼女の顔を手で固定してから何の事前宣告もなく口付けて液体を流し入れる。咄嗟にそれを飲み込みつつも妙な呻き声をあげる彼女を無視してキスを続けた。
「っ……せんぱ」
それも戯れにする軽いものではなく、恋人同士が交わすような深いもので、彼女はどうしていいか分からないといった風にこちらの制服をぎゅっと掴む。
はむように咥えた唇の感触だとか、絡ませた舌の温かさだとか、甘すぎるミルクティーの味だとか、どれをとっても彼女が幽霊とは思えなくて、まるで生前と同じように感じてしまった。
ひとしきり気がすんでから顔を離すと、彼女は紅潮した顔でぼんやりと私の腕の中に突っ立っていた。幽霊というのはもっと血行の悪いものではなかったんだろうか。
「……せん、先輩はあれですか? 女の人が好きな人ですか?」
「さぁ、どうだろう」
混乱した様子の彼女をまた携帯のカメラで撮影しながら、パックのストローを啜る。腕の所の包帯がほつれていたけれど、特に傷があるわけでもないようでほっとした。
「あ、じ、実はすごい包帯フェチで幽霊も大好きとか……」
「何をわけの分からない事を言ってるんだ」
私にそのような趣味は無いし、何より本当は目の前の彼女を幽霊だなんて考えたくなかった。彼女は私の前では、私にとっては本当にただの女の子で、とても死んでしまっているようには見えないのに。
「先輩?」
彼女は私の事を先輩と呼ぶけれど、私にだって彼女と同じ年齢の時があった。
あの頃私は買い与えられたばかりの携帯電話でいつも同じ人物ばかりを撮影していた。愛らしい顔立ちをした、少し短いポニーテールのよく似合う小柄な女の子だった。
入学式で隣の席に座っていたという良くある出会いだけれど、昼休みになれば一人で屋上へ行こうとする私を必ず引き止めてきて一緒に貯水タンクに寄り掛かりながら昼食を食べる。私には甘すぎる紙パックのミルクティーがお気に入りで、いつもそれを飲んだ。
携帯のデータに彼女の写真が増えていく度に私は彼女の事がどんどん好きになっていて、嬉しい事にそれは彼女も同じようだった。いつの間にか私達は恋人と言っても良い間柄になって、お互いの事も名前で呼び合う。私は彼女の事なら何でも知っているつもりだし、今でも忘れているつもりはない。
彼女を撮ったデータはきちんと携帯の中に残っている。交通事故で突然いなくなってしまう前の、包帯なんて巻いていない写真だった。
「ねぇ、急に黙り込んでどうしたんですか?」
目の前の少女が、これを思い出せれば成仏できるかもしれないと言っていた答えを私は全て知っている。わざわざ調べたりしなくても今すぐ教える事が出来た。
それでも私がそれをどうしてもする事が出来ないのは、今でも彼女の事が好きで側に居て欲しいからだ。何も覚えていない彼女には悪いと思っているし、彼女から名前でなく先輩と呼ばれる度に泣きたくなるけれど、それでももういなくなって欲しくないのだ。
不思議そうにこちらを見上げる彼女の腕を取って、ほつれた包帯を直してやる。髪の毛が犬の尻尾のようにぴょこぴょこと揺れるのが視界の端に見えた。
「……何でもないんだ。気にしないでくれ」
「変な先輩」
私にとてもよく懐いた、変わった後輩がいる。
名前を呼ぶ事はできなくて、その度に私は泣きたくなる。
--------------------
あとがき
他では書かないあとがきですが、御礼品だしなぁという事で。
お題として『紅茶/携帯/包帯』と決めてもらったんですが、携帯と包帯の印象が少し薄いやもしれません。
登場人物はまったくの新入り二人です。名前はありません。
オチがちょっと読めてたかなぁ、というのは反省点。
Back