【カメとウサギの100点競争】

「……納得いかない」
「え? 何が?」
 放課後の教室で歩と向かい合わせに座りながら、千春はむっすりと頬杖をついた。
 机の上に広げてあるのは今日返却されてきた数学の小テストで、既定の点数以下だった生徒は間違えた問題を解き直して先生に見せに来なさい、というはた迷惑な代物だ。
 強制ではないので気にせず帰宅した生徒も多数いるが、根が真面目なのかどうなのか、たまたま部活の練習が休みだった千春はさっさと帰ろうとしていた歩を捕まえて、小さな勉強会を開いているわけだが――
「100点」
「うん、100点だねぇ」
 並べてある二枚のうち片方を指差して呟く。他人事だと思って、呑気そうな声で歩が答えた。
「……よんじゅうごてん」
「小テストなんだし、次の試験までになんとかしたら大丈夫だよ」
「よんじゅう……ごてん」
 もう片方に指を移して、呟きながらずるずると机の上に顔を伏せる。設問は全部で20問各5点。半分正解で50点。合格は70点からで、かたや花丸かたや再提出。
「何? どうやったらこんな点数になるわけ? 勉強した?」
「ずっと遊んでたけど。いつもこんな感じなの、千春ちゃんも知ってるじゃない」
「……私は部活終わって家帰って宿題して予習復習してる」
「勉強してるんだから邪魔すんなって毎日怒られてるから知ってるよ」
 力無く呻き続ける千春に、早く終わらせて帰ろうよぅ、と歩が口を尖らせる。
 頭では分かっているのだ。千春は地道にコツコツと努力をし、歩は隣でだらだらと過ごしていた。その結果が、点数という形で目の前に現れているわけだ。
 しかし、しかしだ。納得しろという方が無理ではないのか? 努力と結果は必ずしも比例するわけではないと、すんなり諦められるものだろうか? いや、出来ない。人は現実を直視してばかりでは生きていけないのだから。
「まあ、なんとかと天才は紙一重って言うしね。うん。あっはっはっ。参ったねこりゃ」
「そんな風に答案を入れ替えたところで、私が100点で千春ちゃんが45点って事実は変わらないんだよ?」
「ぐぅ……!」
 名前欄に書かれた高城歩の三文字を消しゴムで擦ろうとしているのを笑顔で眺められて、千春はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
 小学生の頃は、自分の方が成績は良かったはずだ。「ちーちゃんは足もはやいし頭もいいしかっこいいし、わたしもはなたかだかだよ! 大きくなったらぜったいちーちゃんと結婚するんだぁ」なんて言われて調子に乗っていたくらいだ。学年は同じでも生まれ月は丸一年近く違っているので、差もそれなりにあったのだけれど。
 中学生の頃は、まあ、千春も少し荒れていたので真面目に勉学に励んでいたわけでもない。しかし、遅れは十分に取り戻しているはずだ。歩と同じ高校に進学するために、夜の校舎の窓ガラスを割ってまわったり盗んだバイクで走り出した15の夜は卒業したのだから。
 そして現在。
 45点。
「死のう」
「決断が早すぎだよ千春ちゃん」
 再びがくりと机に突っ伏した千春の頭を持ち上げて、呆れた風に歩が溜め息をつく。顔が近い分、息が届くのでやめてほしい。
「あのねぇ。千春ちゃんはちょっとしたケアレスミスでこうなっちゃってるだけなんだから、そこだけ気をつければ大丈夫だよ。ほら、こことか式の途中で数字書き間違えてるもん」
「え、嘘」
「あと試験で出題範囲絞るのがへたすぎ。昨日勉強してたとこじゃなくて、たぶんこの辺もっと勉強しといた方がいいよ」
「マジで? なんか私が特に頑張った問題って殆どテストに出てこないんだよね」
「うん、だからさ。次は私も教えてあげるから一緒に勉きょ」
「ってちょっと待て!」
 ミスをしている箇所を赤ペンで修正していく歩にうんうんと頷いている自分に気づいて、はっと席を立ち上がる。頭を抱えて、大げさな身振りで首を横に振った。
「なんか、なんか私の方が歩より馬鹿みたいですっごく嫌なんだけど! プライドが許さないっていうか、こう、とにかく嫌だ!」
「ひ、人がせっかく教えてあげてるのに失礼だよ!」
「別に教えてほしいなんて言ってないし!」
「帰ろうとしてた私の背中を無言でひっつかんでたくせに何言ってるのよぅ!」
「困ってる幼馴染を一人にしようとするからでしょ!?」
「すみません分かりませんどうか愚かな私に勉強を教えてくださいませ歩様って素直に言ったらどうなんですかぁ!?」
「歩なんかに教えてもらわなくても一人でできますぅ! 人んちでどんぶり飯おかわりしておっぱいだけ成長するようなチビとは違うんですぅ!」
「その歩なんかより悪い点数取ってばっかりの男子モドキはどこの誰なんですかぁ! ばーか! ばーか!」
「このっ……!」
「何よぅ……!」
 次第にヒートアップしてきた怒鳴りあいに息を切らせて、負けじと立ち上がった歩と睨み合う。
 しばしの沈黙。
 先に動きを見せたのは向こうだった。彼女はふっと不敵に笑って、挑発するようにこちらを見上げてくる。いや、実際そうなのだ。歩は自分の方が千春より上なのだと、確信している。
「いいよ? そんなに言うなら勝負しようよ」
「勝負?」
 やけに自信満々な様子に、ぴくりと片眉を上げる。千春が生来負けず嫌いなのは知っているはずだが、丸い瞳にどこか爛々とした輝きを灯しながら歩は続けた。
「再来週の中間テスト。もし千春ちゃんが一教科でも私に勝てたら、一週間何でも言うこと聞いてあげる。まあ、できたらの話だけどね?」
「……そんな簡単な約束しちゃっていいわけ?」
「だってたまには千春ちゃんが私の前で泣きべそかくのも面白いしー」
 100点の答案を指で摘みながら言われて、冷静な顔を保とうとしていた頬の筋肉が引きつる。こうまで言われて、引き下がれるものか。
 千春にだって、才色兼備で嫁に貰われたいちーちゃんとしてのプライドがある。
「――やってやろうじゃないの。一週間毎日……ええと、鞄持ちさせてやるから」
「……たまに思うけど、欲の無い千春ちゃんがまぶしいよ」
 指を突きつけて宣言すると、また呆れた様子で溜め息をつかれた。
 とりあえず勝負は明日からとして、今日のところはおとなしく小テストの直しを教えてもらう事にする。それはそれ、これはこれ、というわけで。
 臨機応変に生きるのも、時には大切ではないだろうか。

   □ □ □

 勝負開始、三日目。
「いただきます」
「いただきまーす」
「……いや、何普通に人んちで夕飯食べてるわけ? 試験終わるまで遊ばないって言ったでしょ?」
「うち今日結婚記念日だから親いないんだもん。あ、にんじんあげるね」
「いらない」


 勝負開始、一週間目。
「いただきまーす」
「いただきます」
「……千春ちゃんだってうちでご飯食べてるじゃない」
「親が親戚の法事行ったんだから仕方ないでしょ。おばさん、マヨネーズ取って」
「カレーにマヨ入れるのやめなよ」


 勝負開始、十日目。
「ねー千春ちゃん、私落ちそうだから壁側で寝ていい?」
「どっちでもいいよ。もうちょっと勉強したいから先に寝といて」
「ええー。もう11時だよ? 眠くない?」
「明後日試験でしょうが――ってだからちょっと待て!」
 ベッドに並べて置いた枕の位置を微調整している歩に説教の一つでもくれてやろうかと振り向いたところで、がたりと椅子を蹴飛ばしながら千春は立ち上がった。
 自分はこの十日間、一体何をしていたのだろう。もちろん勉強はしっかりとしているつもりだ。闇雲に勝負に出るよりは教科を絞った方が勝ち目はあるだろうと、数学に割く時間も増やしている。
 何のために勉強をしていたのか。何の勝ち目を狙っていたのか。
 全ては、歩を見返すためではなかったのか。
「それを気づけば普通に一緒にご飯食べて普通に一緒に登下校して普通に一緒に寝泊りとか……歩さ、喧嘩って意味知ってる?」
「え、喧嘩なんかしてたっけ?」
「してたんだよ!」
 きょとんと首を傾げられて、馬鹿らしさのあまり地団太を踏む。そういえばうちの幼馴染はこういう女だった。絶交と言った翌日には理由も忘れてへらへら後ろをついて歩くような、おめでたい思考回路の女だった。
 とにかく、と呼吸を落ち着けて空咳をする。
「明日は絶対一人で勉強する。絶対歩の相手しない」
「今日は?」
「……今日は歩が寝こけてるとなりで必死こいて勉強する」
「ふぅん。おやすみー」
「……」
 欠伸混じりに言って布団に潜り込んだ歩を眺めて、千春は静かに拳を握り締めた。
 こんなのに負けたら一生振り回され続けるに違いない、と。


 そして、試験当日。
 天は我を見捨てなかった。努力は報われたのだ。
 帰宅早々に手をつけた自己採点の結果を前に、千春は歓喜で胸を震わせる。式のケアレスミスだけはしないように心底気をつけた。当たらないヤマは、歩の次に成績の良いクラスメイトから聞き出した。正直、たった二年半のやんちゃがここまで見えない壁を作るものだとは思いもしなかったが。唐突に千春から呼び出された時の山辺さんは涙目だったが、歩以外に特に友達と呼べる人間のいなかった事に気づいた時の千春こそ涙目だったというのに。
 過去に思いを馳せるのはやめておこう。そう、自己採点。持て得る限りの力を尽くした結果が、ここにあるのだから。
「勝った……!」
 91点。
 ああ、なんと甘美な響きだろうか。5段階評価で言うなら文句なしの5だ。体育以外でお目にかかった事のない幻の数字なのだ。
 これほど返却の待ち遠しいテストを受けた事が過去にあっただろうか。他の教科は捨てていた分手ごたえはいまいちだったが、それを補って余りあるものがある。
「うう……私今回いまいちかも。勘外れちゃったよ……」
「あっはっはっ! ま、歩はせいぜい山頂付近で昼寝でもしとけば? 当然追い越すけど? あーっはっはっ!」
「ハイテンションな千春ちゃんは正直気持ち悪いよ……」
 隣で自己採点に付き合わされていた歩が肩を落とすのを見て、千春は遠慮なく高笑いする。うんざりと呻かれようが、結果が全てなのだ。
 薔薇色の一週間が、待っている。

  □ □ □

「どう? これが私の実力なわけよ」
「……」
 教師から答案を受け取るなり歩の席に駆け寄った千春は、閉じたままでいた紙切れを自信満々に広げてみせた。幼馴染の目がさらに丸くなるのを眺めるのは、大層気分の良いものだ。
 彼女の答案にもちらりと目をやってから、にやにやと笑みを零して続ける。
「91点! 歩の89点とはまるで格が――」
「……うん、まあ、逆立ちしたらそう読めなくもないよね」
「は?」
 想像していたリアクションとはまるで正反対の反応に眉根を寄せる。もっとハンカチを噛むなりなんなりして悔しがると思っていたのだが、この憐れむような眼差しは何なのだろう。
 訝しむ千春の肩をぽんと叩いて、歩が答案の向きを変えた。
「じゅうろくてん、って読むんだと思うよそれ」
「はぁ!?」
 慌てて名前の横に書かれた数字を読んで硬直する。1と6。16。
 自己採点の時は確かに正解していたはずの設問にも赤いチェックばかりが入っていて、丸の数が異様に少ない。こんな馬鹿な事がありえるんだろうか。
 顔から血の気がざぁっと引いていく音を聞きながら、ふらふらと教師の元に歩み寄る。
「せ、先生、先生これ採点がおかしんじゃ……」
「あー……それなぁ。片山は今回いつものミスもなくて、先生も驚いたんだ。頑張ったんだよな」
「だって、あの、答えは合ってますよね?」
 涙目で見上げる千春から教師がそっと目を逸らす。
 遠い目をして、静かに続けた。
「……解答欄、殆どずれてたぞ。追試じゃ気をつけような」
 嗚呼、天は我を見放したり。


「歩お嬢様、お荷物お持ちします」
「うむ、ごくろう」
 普段持ち歩いていないはずの辞書や用語集の詰まった鞄を受け取って、千春は奥歯を噛み締めながら家路を歩いた。お嬢様はそんな言葉遣いしないだろうと思ったが、下賎な自分如きが口を出せるはずもない。
 奥歯を噛みすぎてちょっと血の味がしてきたところで、上機嫌の歩がふいに立ち止まる。
「靴の紐解けちゃった。千春ちゃん結んで」
「はぁ? それくらい自分で――」
「16点」
「……失礼いたします」
 切れそうな血管を押さえて地面にしゃがみ込む。スニーカーの紐を固結びにしてやろうかと思ったが、純然たる下僕の自分には許されない行為だ。
 頭の上で鼻歌なんぞ歌っている主人の顎に一発くれてやりたい。
「明日はどうしようかなぁ。一日語尾にわんってつけて貰おうかなぁ」
「誰がそんな――」
「16点」
「……」
 たった一週間の我慢なのだ。約束したからには守らなければいけない。
 たった、一週間だけ我慢すれば。
「あ、やっぱり今からそうしてよ。わんって」
「……わか、りました、わん」
「楽しいねぇ! すっごく楽しいね、千春ちゃん!」
 そうすればしこたまこいつを殴ってやろう、と。
 出来もしない空想を並べているうちにずっとこの先も同じような未来が待っている気がして、高笑いする歩の足元で千春はそっと涙を拭った。


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