【多重世界】
近所にある空き地を通り過ぎようとする度に、足元がぐらつくような違和感を覚えている。
あるべきはずのものがない、ないはずのものを認められない、あやふやな靄が視界を覆う。目に見えて触れられるものこそが全てだ。信じるに値するものだ。友情や愛情や、心の絆なんてものは脳が起こす錯覚に過ぎないし、弱い人間だけが見えないものに縋りたがるのだ。
「――ここ、家ありませんでしたっけ」
ふいに千春の口から漏れた疑問に、隣りを歩く先輩が何言ってんの、と首を傾げた。
手にしたコンビニ袋をくるくると振り回しながら雑草の生い茂った更地を一瞥して、
「何もないよ。前からそうでしょ」
「ですよねぇ」
自分でも何が気になるのか分からない。小さな頃から住んでいる町だけれど、ここに建物があって、誰かが住んでいた記憶はない。覚えていないくらいずっと昔の事を今更思い出しただけなのかな、と一人納得して足を進めた。
平日の昼間は親が仕事に出かけているから気が楽だ。ここ数年はろくに口を聞いてもいないし娘が何をやっても見て見ぬふりを決め込まれているけれど、先輩を連れ込むなら誰もいない方がいい。
中学の頃の知り合いとは大体が疎遠になったけれど、先輩とだけは違う高校に進学してからもよく遊んだ。
「はい、これ先輩のです」
袋から取り出した安物のプリンを掴んで、部屋に入るなり煙草に火をつけている先輩に差し出す。彼女は怪訝そうな顔で煙を吐いて、暫く考え込むような素振りを見せてから笑った。
「え、何、冗談なわけ? ボケてるの?」
「は?」
「私が甘いもの嫌いって知ってるじゃん。千春が食べなよ」
そう、だっただろうか。
千春自身、甘いものはそこまで好きではない。あれば食べるけれど、自分で買ってまで食べたいとは思わない。誰かの好物だからと手に取ったはずだ。
――先輩じゃないなら、それは誰だ?
知らない誰かが心の奥に根付いている。無意識に、いつの間にか、ここにいない誰かが千春を突き動かしている。分からないのがもどかしい。足元がぐらつく。ゆれる。不安定になる。昔からそうだ、何かが足りないのに、足りないはずなのに、こころに、穴があいたみたいな。
「……ちょっと。大丈夫?」
暖かい手のひらが頬を触れる感触で我に返った。
肌をじっとりと冷たい汗が伝っていて、慌てて腕で拭う。厳しい顔つきの先輩にこくりと頷いて、彼女が灰皿に置いた吸いかけの煙草に口をつけた。
「大丈夫、です。最近疲れてるみたいで」
「だからさぁ、あんな真面目な学校行くからだよ」
うちにくればよかったのに、と不満げに言われる。実際、つるんでいた人間の殆どは先輩と同じ高校に進学した。試験で名前さえ書ければ誰だって入れると評判の学校だから、始めのうちは千春もそうするつもりだった。
自分の行動や感情を、コントロールできない事がままにある。
騒がしいのが苦手だ。内面に深く踏み込まれるのに慣れていないから、いつも一歩引いた立場でありたいと思っている。それでも時折感じる違和にむしゃくしゃとして何かと問題を起こしているうちに、周囲に似たような人間は集まってきた。
信頼してはいない。自分と似ているだけで、心までは許せない。このままずっと付き合っていく気にはなれず、まるで対極の進路を選んだのだ。
とはいえ知っている人間の一人もいない学校に進む事はなかったはずなのに、なんでよりにもよってあんなつまらない場所に決めてしまったのかは分からない。授業は退屈だし、周囲にも煙たがれる。結局、ろくに通わずに先輩と遊ぶ。
「今日は帰った方がいいかな、私」
尋ねてくる先輩に首を横に振った。彼女は、距離の取り方が上手い。不用意には踏み込んでこないからこそ付き合えていけた。
第一、顔が、身体が好きだ。直接触れているうちは楽しい。信じるに値するもの。
「遊んでください。寂しいから」
「うん」
呟きながら耳元に顔を寄せると、煙草と混じった香水の匂いがする。
だから今日も同じ事を繰り返して、二人で猿みたいに遊んだ。
□ □ □
「なんか、千春がちゃんと制服着てるとキモい」
「……ちょっとへこむんですけど」
「うそうそ。じゃ、エロい」
クローゼットの中に吊るしていた真新しい制服に袖を通しているとからかうように言われて顔をしかめた。笑いながら裸で抱きついてくる彼女を、朝からそんな気にはなれずに引き剥がす。朝といっても、もう10時を過ぎているけれど。
「今から学校行くの?」
「まあ、気が向いたんで」
サボりはほどほどにしておかないと、教師に家庭訪問でもされては面倒臭い。先輩はどうするのかと聞いてみると、後で適当に帰るとふてくされように布団に潜った。合鍵の場所は知っているから問題ないだろう。
家を出てからコンビニで昼食用のパンとコーヒーを買って、がらがらに空いた電車に乗った。歩いているうちに煙草が吸いたくなったけれど我慢する。
「あ、片山さんだ。おはよー」
下駄箱で靴を脱いでいると、ジャージを着た小柄な女子に声をかけられて顔をあげる。人懐こい笑みを浮かべた彼女は遠巻きに見ている他のジャージ集団を気にもとめず、にこにこと話し続けた。
「次体育だけど、片山さんどうするの?」
「あー……」
同じクラスのやつか、とようやく気付いた。入学して二ヶ月近く経つけれど顔も名前も覚えていなかったので、胸元の刺繍にちらりと目をやって、
「休む。タカジョウさん伝えといて」
「タカシロだよ。タカシロアユム。いいかげん覚えてよぅ」
高城さんが口を尖らせるのを無視して、上履きの踵を踏んだまま校舎の中に入った。目ぇつけられたらどうすんの、なんてひそひそ声が後ろから聞こえてきて、なるほどそんな認識なのかと首を竦める。他人にちょっかいを出すのは仲間の役目で千春は遠巻きに見ていただけなのだけれど、彼女達からすれば同じなのかもしれない。
誰もいない教室で三時間目の授業が終わるのを待っている間、机に入れたまま持って帰るのを忘れていた文庫本を読んだ。途中携帯電話に先輩からのメールが届いたけれど、操作が苦手で放っておく。
中学の頃は授業が終わるまでずっと教室に残る事は出来なかったが、この学校は男子にも更衣室があるので気が楽だ。
「うわ、おっそ」
ふと窓の外にあるグラウンドを眺めると、高城さんがぽてぽてと鈍い動きで走っているのが見えた。球技ならまだしも長距離走は面倒臭いだけだから嫌いだし、春も終わったこの気温でご苦労な事だ。
他の生徒が次々とゴールする中で一度転んで、彼女が拗ねた顔で立ち上がった拍子に目が合った。手を振ってきたので、また無視する。
なんだかなぁ、と思った。煙たがるなら煙たがるで、足並みを揃えてほしい。その方がこちらとしてもやりやすいのに、たった3年――クラス替えを考えると最低1年――しか付き合わない他人相手によくあそこまで愛想を振りまけるものだ。素晴らしき博愛主義というやつなのかもと考えながら、うんざりと机に頬杖をつく。
そういえば幼稚園の時にあんな感じのやつがいなかっただろうか。小さくて、人懐こくて、走るとすぐころぶ。昔は千春も今ほどスレていなかったから、よく一緒におままごとだとか鬼ごっこだとか、健全な遊びに興じていた覚えがあるのだけれど。
名前は何だっただろう。まゆちゃん、まりちゃん、ゆりちゃん。どれも違う気がする。
「――あゆちゃん」
これは都合が良すぎるか、と高城さんの名前を思い出しながら口にする。アユムはともかく、あゆみちゃんならよくある名前だ。
「呼んだ?」
「っ……別に呼んでないけど」
ぼんやりしていたところにひょっこりと現れた顔に、肩をびくつかせてから無愛想に答える。いつの間にか着替えて戻っていた高城さんが、また唇を尖らせた。癖なんだろうか。
「えー、呼ばれたと思ったのに。あゆちゃんって言ってたじゃない」
「言ってない」
「言ったもん。絶対言った」
「しつこいんだよ、歩は」
食い下がる彼女が煩わしくなってきて顔をそむけたものの、はたと気が付いてぽかんとする。自分は今、親しくも無い相手を何故そう呼んだのだろう。
呼ばれた高城さんもびっくりしたように黙り込んでしまって、気まずさに千春はわざと机から教科書を出してみせた。丁度良いタイミングで始業のチャイムが鳴って、彼女も不思議そうに呻きながら席につく。
気分が悪くなった。
呼び方を間違えた事が理由ではない。教室での彼女は高城さんと呼ばれるより、歩と呼ばれる事が多いのだ。自然と耳に入れているうちに、つい刷り込まれてしまったのかもしれない。
問題は、彼女に対して千春が歩と呼んだ時の反応なのだ。
一瞬、そう呼ぶのが当たり前のような気がしていた。つい1時間前まで顔も名前も忘れていた相手なのに、まるで長年を共にしていたような錯覚を覚えた。でも彼女は違う。千春はあくまでつれないクラスメイトの片山さんであって、歩と呼ばれるべき相手ではない。
またいつもの違和だ。空き地も、プリンも、高城歩も。
足元が、ぐらついた。
□ □ □
ろくにペンも取らなかったノートを鞄にしまう頃には、たった3,4時間の事をこんなに長く感じるとは思わなかったと酷く疲れていた。先輩と映画でも見に出かけていればあっという間に進んでしまうはずの時計の針が、睡眠薬にしかならない教師の声を聞くとまったくと言っていいほど進まないのだ。
明日は朝から学校に来ようとしていたけれど、さっそく心が折れそうになる。
「ねー片山さん。一緒に帰ろうよ」
「……」
教室を出ようとした千春の裾を高城さんが掴んできて、返事もせずに先を行く。後ろをついて歩きながら、あのねぇ、と間延びした声で問うてきた。
「片山さんって、あそこの幼稚園じゃなかった?」
直後に聞きなれた名前を出されて、訝しみながら頷く。やっぱり、と彼女は懐かしむように手を叩いた。
「私もね、ちょっとだけ通ってたんだよ。年長さんの時に引っ越したんだけど、たぶん一緒に遊んだ事あるよね?」
「さぁ。よく覚えてないし」
それで小中学校は違っていたのか、と内心思いながら高城さんを適当にあしらう。
正直、もうあまり関わりたくはないのだ。今そこにあるものしか千春は信用できない。小さな頃のおぼろげな記憶だけで馴れ馴れしくされても鬱陶しいだけだ。
引っ越したなら別に近所というわけでもないだろうに、駅までは一緒じゃない、と無視を決め込んだ千春の隣りを彼女はついて歩く。
だから、この違和が嫌なのだ。
彼女の隣りにいる事が当然のように感じてしまう、見えない何かが恐ろしいのだ。自分で自分が分からなくなる。何をしているのか理解できなくなる。知らない自分が、勝手に動く。
「――片山さんって、やっぱりいい人だよねぇ」
「あ、れ」
気付くと高城さんが上機嫌で目の前に置かれたパフェをスプーンで突付いていて、状況が飲み込めずにこめかみを押さえる。そうだ、確か、駅前の喫茶店を通り過ぎようとした時に彼女がここのパフェは美味しいなんて話をしていて。千春はそれに何と答えたのだろう。無視をして帰った? 違う、たまには寄り道しようかと、そう彼女に。彼女と一緒に帰るのは、これが初めてのはずなのに。
喫茶店の長椅子に体をもたれて、ぐったりと息を吐いた。やはり疲れているのだ。会話に集中していないから、細かく覚えていなかっただけだ。
気分転換に窓の外を見て、今日は嫌なことばかり続く日だと思った。そういえば、今朝はテレビの占いを見ていない。
「知り合い?」
「……違うよ。顔が良いから見てただけ」
「あれ彼女かなぁ。うらやましいねぇ」
視線を追った高城さんが指差す男には興味がないけれど、それと親しげに腕を組んでいる先輩を見るのは複雑なので、千春はそっと目を伏せた。こちらのテリトリーまで来ているのは、別にバレても問題がないと思っているからだろう。千春が遊びなら、先輩も遊びだ。だから深く踏み込まなくても平気なのだ。
案外落ち込んでいない自分に逆にショックを覚えながら口をつけていなかったアイスティーをもてあそんで、グラスに浮かんだ水滴を一つ一つ眺めた。どれも同じ景色が映りこんでいて、世界がいくつも重なって見える。
――似たようで違う世界が他にもあるのかもしれない。もしもの世界だ。
千春と先輩が本気で付き合っていたり、逆にお互い疎遠になっていたり。
引っ越したはずの高城さんが、ずっとそばで暮らしていたり。
分岐点を一つ曲がる度に隣りあった世界に移って、もしもを繰り返して、気付けば全く別の世界にいる。ぼんやりと、そんな夢想をした。
今はただ、こうやって触れているものだけが、現実なのだけれど。
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