【紫陽花】
いつの頃からか、嘘をつくのが上手くなった。
上司のスーツを褒める事も、同僚の誘いを断る事も、しばらく会っていなかった昔からの友人に祝いの言葉を送る事も。平気な顔をして生活できる程度には、慣れたはずだ。
駅の近くにあるコンビニで缶ビールを2本とチョコレートを買って、梅雨時の湿った夜の中を引きずるように歩いた。新幹線の座席に何時間も押し込められていたから、まだ少し疲れているのかもしれない。帰郷するためにあらかじめ取っておいた休みは明日で終わりだから、家に帰ったらゆっくりと休もう。もっと近くにいれば楽なのにと実家の連中に言われたのを思い出したけれど、あの頃はそうもいかなかったから。
大学に進学した時から住み始めたアパートは、少し古くなった。6年も経てばこういうものかもしれない。就職した時に引っ越してもよかったけれど、遠くに行くのはもう、疲れた。
駐車場の隅に淡い青紫色をした紫陽花が咲いていたので、誰も見ていないのを確認してから少しだけむしった。折れた茎をコンビニ袋と一緒に握って階段を上る。
エレベーターくらいは、あってもよかったかもしれない。
ドアノブの下に鍵を差し込もうとして手を止めた。そのまま、留守にしていたはずなのに明りがついた玄関を開く。
「あ、おかえりなさい」
「うん、ただいま」
靴を脱いでいると奥から見慣れた顔が嬉しそうに駆け寄ってきたので、荷物を手にしたまま軽く抱き締めた。小柄な恋人は自分と違って実家暮らしだからいつもというわけではないけれど、合鍵を渡してあるからたまにこうして部屋にいる。
「あれ? 今日帰ってくるって話したっけ?」
「電話してきたの、そっちじゃないですか。べろべろに酔った声で、ご飯作っといてって」
「あー、そんな気も、するかなぁ。ごめんね」
うろ覚えの記憶を辿りながら体を離して頬を掻く。もう、向こうの家ではひたすら飲んでいた記憶くらいしかない。
酔うとわがままなんだから、と呆れ顔で笑いながらキスをされた。
「お酒強いからって消毒剤でも飲んだんですかって感じでしたよ。……あ、これどうしたんですか?」
「下にあったから、なんとなく取ってきちゃったんだけど。うちに花瓶ってあったっけ」
「ええと、コップくらいしかないと思います。でもこのままじゃ可哀相だし、適当に生けときましょうか」
「うん、お願い」
手にしていた紫陽花を受け取った彼女が小さな食器棚を探っている間に部屋着に着替えて、テレビをつけた。何年も見ていないローカル番組よりも、いつも見ているバラエティの方が落ち着く。
テーブルの端には紫陽花を、目の前には冷蔵庫にしまってあった夕飯を温め直したものを置かれたので、缶ビールと一緒にゆっくりと食べた。彼女も隣りに座って、コンビニで買ったチョコレートをつつく。
そういえば昔は実家に帰る度に何かお土産を買っていたものだけれど、最近はそうでもない。付き合いが長くなると、まめじゃなくなる。
同性のカップルにとって3ヶ月は1年と同じみたいな話をどこかで聞いた気がする。外国のゲイの話だったかもしれないけれど、人それぞれなんだろうなと思う。それでも彼女の前に戯れで付き合ってみた相手とはどれも3ヶ月保たなかったから、自分にとって気が抜けるほど長いのは確かだ。高校生の女の子が、母校の後輩になっているくらいの時間。
地元の大学を受けると聞いた時は正直少し驚いた。自分はただ、遠くへ遠くへ行きたかったから。
「向こうで、嫌な事でもあったんですか?」
「え?」
単刀直入に聞かれて箸を止める。そんな事ないよ、と曖昧に笑った。
「だって、友達の結婚式に出てきただけだよ。私も早く相手見つけろなんてからかわれたけど、無理だし。あれが幸せになれるなら、良いんじゃないかな」
「……好きだったくせに」
「昔はね。今は違うよ」
違うと、思いたい。
短く答えてから黙り込んで、紫陽花に目をやる。梅雨の花、6月の花。あの子が昔から好きな花。
誰かを好きになる事を覚えた頃からずっとそばにいたから、幼馴染みしか目に入らなかった。相手と自分の性別について悩んでいるうちに、想いを伝える間もなくふられた。
遠く離れた場所に移り住んだ今が気に入っているから戻らないだけだ。幸せそうなあの子を見ているのが辛いからじゃない。
「今は、雛ちゃんが好きだよ。一番好き」
「……私も、奈緒さんが好きです」
「じゃあ、もうこんな話やめようよ。今日は泊まってくの?」
まだ何か言いたそうな彼女の頭を撫でる私は、酷い奴だろうか。
あまりに嘘をつきすぎて、どれが本当の気持ちなのか分からなくなった。自分を守るためについた嘘で相手を傷つけてしまう事も知っているくせに、やめられない。
遠く向こうのあの子が好き。そばにいてくれるこの子が好き。
ただただ、幸せになりたいだけなのに。
6月の花嫁を想うと胸が苦しくなるのは、何故だろうか。
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