【いとおしい貴方へ】

 私は迂闊な人間だからして、植物を育てるのが昔から苦手だ。
 土に埋めて水を与えてさえいれば勝手に育つものだという認識から既に間違っていて、小学校の授業で育てた朝顔は芽をいじりすぎて駄目にしたし、ヒヤシンスの球根は水の取り替えを忘れているうちに根腐れした。ホームセンターでなんとなく購入したサボテンはいつの間にか枯れてしまったし、鉢植えの花をプレゼントされた翌日うっかり床に落として途方に暮れた。
 そもそも、花というものにあまり興味が持てない。花壇や道端に咲いた花を眺めて「ああ綺麗だな」と思う程度の感受性はあるけれど、なんとかの花の香りがするわだとかなんとかの花言葉はどうこうなのよだとか、いちいち細かく分類して教えられてもさっぱり頭に入ってこない。私にとって、花はただの花なわけだ。
 どうもこの辺りの気持ちが友人の水嶋栄には理解できないらしく、女の子は誰だって花が好きなものなのに、とつまらなそうに話を聞く私を見ていつも頬を膨らませる。
 今も、そうだ。せっかくの夏休みなのだから一緒に遊びに行きましょうと誘われて暇潰しに付き合う事にした私だが、待ち合わせの駅で行き先は植物園だと聞かされた途端思いきり嫌な顔をしてしまった。
 Tシャツとジーンズにサンダルといった気の抜けた服装をしてきた私と比べて、やけに――雑誌の撮影とかオカマタレントのファッションチェックでもあんの? と聞きたくなるほど――気合いの入った格好をした栄はそれからずっとむくれたままで、駅の近くにあるバーガーショップで百円シェイクを奢っても一向に機嫌を直してくれない。
 栄と私の友達付き合いは彼女が越してきた小学3年生の秋から始まり、春に同じ高校へ進学した現在までだらだらと続いているわけだが、彼女をあやすのには結構骨がいる。いつも花だの少女漫画だのお菓子だの――栄は花と同じくらいお菓子が好きで、バレンタインには毎年手作りのチョコをくれて一緒に食べる――甘ったるい話ばかりするくせに根は頑固親父そのもので、一度へそを曲げるとなかなか回復してくれないのだ。
 本人は覚えていないかもしれないが、小学4年生、初めてチョコを貰った時に、「え? いらないよ。別に今食べたくないし」などと言いながら綺麗に包装された子どもらしく少し歪な形をした手作りチョコクッキーを受け取りもしなかった私は、その後一ヵ月も栄に口を聞いて貰えなくなった事がある。
 仕方なくホワイトデーに市販のマシュマロを買ってきて彼女に渡し、6つ上の姉に教わった通り「この前はごめんね、さかえちゃん。またお菓子作ってよ」と棒読みで謝ることで、ようやく許して貰えたのだ。
 つまり栄と上手く付き合うコツはなるべく彼女を怒らせないようにする事だ、と分かってはいるものの、迂闊な人間である私は度々間違ったリアクションを返してしまう。
 私は常にご機嫌取りをしたいがために栄と友達をしているわけじゃなく、後ろをちょろちょろとついて歩く栄が手のかかる妹のように可愛いから友達なわけであり。たまに拗ねても末っ子の私にとって、これはこれで愛しいのだ。
 そんなわけで私は、一番安いハンバーガーを午後1時からパクつきながら向かいで目を合わせてもくれない栄をあやしている。家を出る前にそうめんを食べてきたが、昔から燃費が良いのでなんてことはない。ジャンクフードとはいえ、肉は大切である。
「――だから、嫌いなわけじゃないんだって。単に興味ないだけなの」
 同じ説明を過去に何度しただろうか。彼女とて、私が花に対して何の好奇心も抱けない事は知っている。知ってはいるが、先に説明したように理解が出来ない。女の子はみんな甘いお菓子と綺麗なお花が大好きだと信じ込んでいるものだから、少しずつ教えていくうちに私も花が好きになるだろうと、そう思っているに違いない。
 もっとも、ムキになるまで教えてくるようになったのは二年程前から急になのだが。思春期になった途端自己主張が激しくなるタイプが時々いるけれど、栄もどうやらそれらしい。
「何よ、今日は一緒に出かけてくれるって言ったくせに。久しぶりだから嬉しかったのに。うそつき。どうせ澄加は私の事なんか好きじゃないんでしょ」
 確かに栄と出かけるのは久々だが、私には私なりの夏休みの過ごし方がある。具体的には明け方近くまで夜更かしをして昼過ぎに起き、自室に一人引き籠もってゲームをしたり漫画を読んだりたまに宿題をしたりと怠惰極まりない生活を満喫していたわけだが、うそつき呼ばわりはないだろう。
 問題。私は栄に嘘をついたか。
 答え。出かけるとは言ったが、行き先までは聞かされていない。よって私はうそつきではない、まる。
 ハンバーガーから抜き取ったピクルスを紙ナプキンの上に弾きながら、相変わらずつんけんした態度でストローを囓る彼女に私は溜め息をついた。
「なんでそうなんの。小田桐澄加は水嶋栄が大好きですがぁ、花はどうでもいいだけなんです。正直こんなクソ暑い中で熱帯植物見たって楽しくもなんともないだろうなぁって思っちゃったわけなんです。わざわざ植物園をチョイスする栄の方がおかしいでしょうが」
「だって植物園に行きたかったんだからしょうがないじゃない!」
「だって植物園に行きたくないんだからしょうがないじゃん」
 むっとした様子で睨んでくる栄の言葉を真似て言い返す。私なら相手に嫌々ついて来られるくらいならいっそ始めから一人で行くか他の人間を誘うかした方がマシだと思うのに、女の子は面倒臭い。
「ていうか、何でそこまでして私と花が見たいかね。水嶋さんのお誘いなら富士登山だろうがお遍路参りだろうがどこへだってぼくたちはついて行きます! って男子なら腐るほどいるでしょ」
「……あの人達は、ちょっと怖いからいや」
「そのうち水嶋教ができるかもね」
 冗談混じりに笑うと、血の気の引いた顔で首を横に振る。本気で嫌なようだ。
 昔から栄には熱狂的な男性ファンが多い。弱々しい愛玩動物のように小柄で華奢な体つきと、そこらのアイドルが裸足で逃げ出しそうなくらいずば抜けて整った顔立ちのせいもあるが、クラスの男子曰く「小田桐って水嶋さんと仲良いんだろ? 可愛いよなー、あの子。物静かでちょっと夢見がちでさぁ、清楚な感じっつーの? こう、守ってあげたくなるっていうかさぁ」らしい。
 言っておくがあれは単に人見知りの内弁慶なだけで身内には我が儘放題だし、お前が守ってやらなくても痴漢の股間を悲鳴もあげずに革靴で蹴り上げたような女だぞ、とは黙っておいた。ささやかな夢をわざわざ潰してやるほど私は野暮ではない。
 信者の数は年々増していて、今では学校一、いやいや近隣で名を知らぬ者はいない美少女としての地位を栄は不動のものにしている。その分、女友達は滅法少ないが。私が風邪やらさぼりやらで学校を休んでいる時はどうしているのか、たまに心配になるくらいだ。
 などと一人物思いに耽っていると、植物園に行きたかったのは、と彼女は話を戻した。
「澄加をね、テストしてみようと思って」
「テストぉ?」
 夏休み前に散々苦しめられた単語に顔が渋る。
 テスト。なんて憎々しい強制儀式だ。天に二物も三物も与えられている栄にはまるで関係ないだろうが、あまり真面目に勉学に励むたちではない私にとって、聞くだけで知恵熱が出そうな言葉である。
「そうよ。私が教えた花言葉、ちゃんと覚えてる?」
「あー、うん、覚えてる覚えてる。いちいち確かめなくても大丈夫。ところでさぁ」
「覚えてる?」
 わざとらしく明後日の方向を見た私の耳を栄が引っ掴んだ。不機嫌そうに声のトーンを落とす。
「ひまわりは?」
「誠実」
「違う、あこがれ。朝顔は?」
「……誠実?」
「はかない恋! カーネーション、カスミソウ、カカリア、カモミール!」
「分かった、母の日だ」
「……」
 自信満々に答えてみせると、俯いた彼女の肩が小刻みに震えた。近くに座っていた他の客が泣いているのかと心配そうにこちらを覗き見ていて、大層居心地が悪い。
 安っぽいテーブルを手のひらで叩く、ばんっと乾いた音が鼓膜に響いた。
「ぜんっぜん覚えてないじゃない! 何よ母の日って、バカじゃないのバカじゃないのバカじゃないの!?」
「同じ花でも色とか種類で意味が違うのがあるし、国とか民族で解釈違ってたりするらしいからややこしいのよね。言葉って難しいわ。バベルの塔が崩れた時に言語がばらばらになったって本当かしら? って前言ってたじゃん。誠実って意味にした人がどっかにいるかも」
「なんでそんな事だけ綺麗に覚えちゃうのよ!?」
「バカじゃないから」
 ヒステリックに怒鳴られて小指で耳の穴をほじる。痒かったのだ。
 途端、急に寒気がして背筋がぞくぞくした。耳掃除の際に奥まで突っ込みすぎてむせる事がたまにあるが、あれとは違って襟元が凍えるように冷たい。猛烈なバニラ臭が鼻をついた。
「――何よもう! 澄加なんか知らない!」
 ご丁寧にプラスチックの蓋まで開けてカップの中身を私にぶちまけた栄は、千円札をトレイに投げ付けて店を出て行く。
 しばし呆然としていた私は備え付けの紙ナプキンをごっそりと抜き取ってTシャツを拭い、千円札を財布にしまい、ゴミを片付け帰宅した。
 怒っているくせに律義にクリーニング代を置いていった栄は、それから一年近く口を聞いてくれなくなった。

   □ □ □

 さて、再び夏である。
 6月も終わり、新入生も馴染んできた校内で水嶋教はますます勢力を拡大し、栄は相変わらず口を聞いてくれない。仕方がないので私も放課後の体育館でバスケットボールなぞをやりつつ、一年生から熱い視線と歓声を浴びている。
 ただし、女子のだ。
「悲しいほどにモテるね、小田桐」
「来週はテニス部に体験入部してみようかと思うんだよね」
 今年度からバスケ部の部長に就任したエリが呆れ顔で投げてきたボールを受け取りながら、呑気に答える。先週入ってみた文芸部はだて眼鏡をかけてえげつない内容の週刊誌を読んでいただけだが、知的な感じが結構うけた。
 後輩というのはなかなか可愛い。我が校は共学であるからして遊び半分で私に懐く連中が殆どだし、本気にされる事は滅多にないのでこちらも気楽に相手ができる。
 試しに見当外れの場所にボールを投げ返すとけらけら笑われてしまう程度の、そんな王子様である。
「……うちらも遊びで部活動に励んでるわけじゃないんだけどなぁ。いい加減仲直りしなよ、水嶋さんと」
「んー」
 栄と付き合えなくなってからこっち、私はめっきり暇を持て余していた。
 今まで四六時中くっついて歩いていた相手に見向きもされなくなったからといって、他の相手を探す気にもなれず。栄の方も「水嶋さんを見守る会」とでも名付けたくなるような男の取り巻きばかりで、小田桐澄加二号は今のところ見当たらない。
「私と栄はさ、もう9年も知り合いなわけじゃん。そのうちの9分の1が疎遠でも、一ヵ月の尺度に直したら4日かそこらだよ。1年くらい大した事ないと思うんだけど」
 年月を指折り数えながら改めて考えてみると、私は人生の半分以上も栄と一緒にいたわけだ。昨日今日知り合った人間と喧嘩をしたならすっかり興味を失ってしまうだろうが、彼女相手だとどうも危機感が持てない。
 エリは深い深い溜め息をついて、私にまわれ右を命令した。
「あんた、片足が着く前にもう片方を前に出す事を繰り返せば水面も空中も歩けるはずだーって考えちゃうタイプ?」
「それは小4の時に溺れて諦めた」
「うわ、頭悪い。早く帰ってよね、邪魔だから」
 そのまま背中を押されて、更衣室までとぼとぼと歩く。青春の輪から外された私のジャージは、汗のひとつも吸い込んでいなかった。
 制服に着替え終わると一年生共は他の、真面目に練習に励んでいる部員に熱中しきりで、私の事なぞ忘れてしまった様子だ。つまらないなぁと思いながら体育館を出て、鞄を置いてきた教室まで一人で帰る。
 グラウンド横でなだらかな曲線を描いている連絡通路を歩いていると、珍しく栄を見かけた。普段は反対側にある温室なり花壇なりで園芸部――彼女目当ての男子部員が急増し、水嶋部と化した――の活動に勤しんでいるはずなので、放課後に会う事は滅多にないはずなのだが。
「栄」
 なんとなく気が向いたので声をかけたものの、瞬時に顔が引きつる。先ほどは部室棟の影になって見えなかったが、隣りに男子を一匹引きつれていたのだ。
 水嶋教の掟は抜け駆けするべからずであって、いつもは複数でいるはずが、単体。男子の平均身長よりは少し低いだろうが、背丈は丁度私と同じくらいと言える。爽やかそうな男だ。自己評価だが、私の外見もそれなりに爽やかである。
「あら、小田桐さん。元気?」
「……胃に穴が開きそうなくらい元気ですよ、水嶋さん」
 少しだけ足を止めてよそいきの笑顔で挨拶してくる栄に、ぎりぎりと奥歯を噛み締めながらの笑顔を返す。
 そう、と素っ気ない反応だけ示して、わざとらしく隣りの男と腕を組んだ。
「行きましょ、正木くん。そういえば私、富士登山に興味があるんだけど」
「ええ? は、ハイキングくらいならなんとか……」
 遠ざかっていく足音に胃が痛む。私の呑気さは何だかんだで栄も私の代わりなんて見つけられないだろうという根拠のない自信と安心感からきていたわけで、自らの立場が危うくなるような事態に晒された経験なんて今まで一度もなかったのだ。
 あちらがその気ならこちらにも考えがある。小田桐澄加の代わりなどこの世に存在しようがない事を、身を持って栄に分からせてやるしかないようだ。
――小田桐二号、許すまじ。
 高らかに笑いながら帰宅しようとした私は通りすがりの担任教師に呼び止められ、何か悩みがあるなら先生に話してみて? と優しい、かつ哀れそうな目で一時間もカウンセリングされた。
 現代社会の闇を垣間見たようで、少し泣きたくなった。


「おはよう栄。これをお食べ」
「……」
 翌朝。
 水嶋家の玄関から出てきた栄へ、挨拶もそこそこに私は紙袋を手渡した。パン屋で貰うような味も素っ気もない茶色の袋だが、大切なのは中身である。人間と同じだ。
 彼女はうさん臭そうな顔でそれを受け取り、歩き出しながら封を開けた。中から真っ黒な色をした五百円玉程のかたまりを一枚摘みあげて、眉根を寄せる。
「何よこれ。木炭?」
「ココアクッキーだってば。まあ、ちょっと焦げたかもしんないけど」
「ちょっとなの……?」
 お菓子を作るのは生まれて初めてだった。厳密に言うと家庭科の調理実習で作った事なら何度かあるが、あれは大抵数人のグループでやるものだし、私はクラスメイトがこねた生地を型で抜くだけの作業しかやった事がない。全工程を一人で、という意味なら間違いなく初めてだ。
 インターネットで調べた通りに作ったはずだが、何故だか掲載されていた写真通りに上手くいかない。オーブンの癖によって焼き時間を変えてみて下さいと言われても我が家のオーブンレンジの使い道はもっぱら「あたため」専用だし、生地にココアが混ぜてあるせいで焼き加減が正解なのかどうかも見た目で分からない。味見くらいすればよかったのだろうが、材料を量っていただけで胸焼けがした。
「これとかほら、焦げてないと思う。たぶん」
 眺めるだけで口に運ぼうとしない栄のわきから紙袋の中を漁り、比較的ましなものを探し当てる。そのまま食べさせようとしたのを彼女はひったくるように掴んで、おそるおそる口に入れた。
「どう?」
「……苦いし、甘すぎるし、堅いし、ぼそぼそしてる」
「鞄持ってあげるよ」
 つまり総合的にまとめるとまずいと評価され、渋面を崩そうとしない栄の荷物持ちを買って出る。「こんな素敵で難しそうなお菓子を澄加が作ったの!? ごめんなさい私が間違っていたわ! 正木くん? 誰なのそれ?」作戦は失敗に終わったようだ。
 家を出る前から分かりきっていた結果なだけに、あまり落胆はしない。
「今度さぁ、富士登山行かない?」
「行かない」
「あんみつの美味しいお店があるらしいんだけど、奢ろうか?」
「いらない」
「栄って可愛いよね」
「知ってる」
「……」
 両手に鞄をさげてぶらぶらと歩く道すがら彼女に話かけてみるが、冷たい返事ばかりでむっと押し黙る。可愛いと言われて知ってると答える女のどこが可愛いんだと思うけれど、文句の言えない私も私だ。
 だだっ子をあやしにきたはずが逆にむくれてしまった私を見て、栄は勝ち誇るように鼻で笑った。
「澄加、焦ってるんでしょう」
「何が」
「私が取られそうだから、慌ててるんだ?」
 全くもって図星であるので、否定はしない。
 が、面と向かって認めるのも癪である。ネズミを生け捕りにした猫のような、にまにまとした笑顔で栄は問うた。
「問題。黄色い薔薇の花言葉は?」
「……愛情」
「残念、正解は嫉妬でした。愛する人の心が他へ移るのを、憎らしく思うこと」
 澄加にぴったりねと付け加えて、軽い足取りで前を歩いていく。私は溜め息をつきながら後を追った。
 嫉妬、嫉妬。愛する人の心が他へ移るのを憎らしく思うこと。
――その言い方だと、まるで栄の心が私に向かっていた事があるみたいに聞こえるじゃないか。


 実を言えば私と栄は今年の春から別々のクラスになっていたので、二年教室前の廊下で鞄と紙袋を交換してから別れた。クッキーはもういらないという事らしい。
 右手に自分の鞄、左手に紙袋をさげて教室に入ると、隣りの席にいるエリが挨拶をしてきたので紙袋をパスする。私だって炭を食べる趣味はないのだ。
「おはよう。あげる」
「いらない。返す」
「じゃあダンクシュートしてくる」
「……躊躇なく捨てるようなものを人にあげようとしないでよ」
 素早いパス回しですぐに突き返され、隅にあるゴミ箱に放り込んでから椅子に座る。せめて、中身くらい確認してから断ってもいいだろうに。
 机に突っ伏しながら、栄の事を考えた。おそらく二号は彼女と同じクラスの男なんだろう。で、当然栄に気があるに違いない。
 気があるというのは一般的に恋をしている時なんかに使う言葉だ。恋をしているからには、愛しているんだろう。
 私は栄に恋はしていない。見慣れた顔を眺めて赤くなる事はなく、手が触れ合ってもどぎまぎしない。おまけに、一年間言葉を交わさなくても平気だ。
 けれど、愛している。恋をしている時は愛してもいるのに、愛しているのに恋はしないとはどういうわけだ。愛するってなんだ。恋するってなんだ。
 栄相手に、こんなわけの分からない事を考えている私はなんだ。
「……エリはさぁ。自分に恋してる相手と自分を愛してる相手がいたら、どっちを選ぶ?」
 他人に判断を委ねる事にした私は、突っ伏した格好のままだらしなくエリを見やった。
 彼女は首を傾げて、
「それ、どう違うの?」
 聞き返す。少しだけ考え込んで付け加えた。
「恋してる方はこれからも愛してくれるけど、愛してる方はこれからも恋してくれない。愛してるだけ」
 前者は二号、後者は一号をそのまま当てはめただけだが。
 瞼を閉じて眉間に指を当てた彼女をぼんやり眺める。いつもならそんな質問は真剣十代喋り場でしなさいなんて言って流されそうなものなのに、たまには良い奴だ。
 やがて小さく呻いて、エリは困った顔で私の頭に手のひらを置いた。
「私なら、相手によるかなぁ。恋してる方が好きならそっちだし、愛してる方が好きならそっち。恋されてなければ愛されてもなくたって、好きな人ならそっち」
「……もうちょっと分かりやすく言ってくんない?」
「えー? 小田桐はバカだから教えても伝わらないと思うなぁ」
「バカって言う方がバカなんですぅ」
「そういうところがバカだって言ってるんですぅ」
 置いたままの手のひらで、唇を尖らせた私を軽く突き飛ばす。机からずり落ちそうになった私を見て、エリはけらけらと笑った。
 聞いたのは私だが、まったくもって参考にならない。相手によると言われたって、栄の気持ちが分からないからこそこうして悩んでいるわけではないか。大体、栄も栄だ。あんな私の性別をそのまま反転させただけのような――まあ、向こうの方が性格的にひねくれていなさそうなのは多少認めよう――男を選ばれては、比較すべき点が分かり辛くて仕方がない。これがボディビルダー並みの筋肉男なら、私に足りないのはつまり筋肉なのだなとトレーニングに励むなりなんなり出来るというのに。
「ん?」
「今度は何?」
 はたと起き上がって首を傾げる私を、エリが呆れ顔で眺める。栄が正木の隣りにいる理由について、考えもしなかった結論を改めて口に出してみた。
「いや、なんかまさかとは思うんだけど、栄って正木が男だから一緒にいんの?」
「あ、さっきまでしてたのって水嶋さんの話だったんだ」
「だから昨日の放課後に栄が正木って男子と一緒にいて、私の事はシカトしてるくせになんじゃそりゃって感じで、正木と私のどっちが良いかって聞かれたらそりゃ私の方が優れまくってるって決まってんのになんで私じゃなくて正木やねんっていうか、その理由について相談してたわけじゃん。人の話くらいちゃんと聞いてよ」
「……小田桐って人に何か説明するの下手だよね」
 つまり水嶋さんと喧嘩してるうちにあっさり彼女を正木君に取られちゃって、それを小田桐は嫉妬してるわけだよね? とまとめられて、しぶしぶ首を縦に振る。私は自分の立ち位置を正木に奪われそうなのが悔しいだけであって、嫉妬しているわけではないと思うのだが、いちいち訂正していてもキリがないだろう。
 ようやく話の意図を飲み込んでくれたエリによると、栄と正木が一緒にいる場面は近頃よく目撃されるらしい。知っていたなら教えてくれたっていいだろうに。
 ふてくされた私をなだめるように、仕方ないでしょと彼女は苦笑いした。
「まあ、付き合ってるんじゃないの? 正木君って結構人気あるしさ」
「えー? 私だってモテてるじゃん。ほら、足だってたぶん私の方が長いと思うし」
「ちょっ、ばか、変なところで張り合おうとしないの!」
 制服のスカートを腿の辺りまで勢い良くまくって見せると、慌てた様子で布地を掴まれる。別に見られたところで恥ずかしくもなんともないのだが、そういえば栄の家でもパンツ一枚でうろうろしているとよく叱られたものだ。羞恥というのは本人の気持ちではなく、周囲の人間の良識によるという事だろうか。
 などと、脱線した考えに耽っている場合ではない。
 女子に人気があるというだけで栄が正木を選ぶとも思えず――というより彼女とは10年近く付き合ってきたけれど、色恋沙汰には興味がないのだとばかり思っていた――、エリが挙げる敵の長所を私は諦め悪く否定し続けた。
 曰く、まず見た目が格好良い。
 私だって格好良いじゃないか。
 曰く、少し気弱だけれど男女分け隔てなく接するところに好感が持てる。
 私なんて男子と殴り合いの喧嘩をした事がある。小学生の頃の話だけれど。
 曰く、曰く、曰く。
 私だって、私なんて、私の方が。
「――何? 小田桐は水嶋さんと付き合いたいの?」
 何度か問答を繰り返しているうちに、業を煮やしたエリが理解できないといった風に眉根を寄せる。違う、とすかさず首を横に振った。
「だって……栄は女じゃん。変だよ」
 そして、私も女だ。
 いくら女子からちやほやされようと、男子には何の興味も持てなくとも、初めから答えは分かっていた事なのだ。愛と恋とは必ずしも同居するものではない。家族と一緒だ。私は、愛する栄相手にキスやセックスをしたいとは思わない。
 けれどずっとそばにいたい。他の誰かに取られるのは嫌だ。
 水嶋栄の一番は、常に小田桐澄加でないと我慢ができない。
「小田桐って、バカだとは思ってたけど実はすごく馬鹿なんだ」
「知ってるよ」
 零した言葉に向けられた、哀れむような視線から顔を背けて拗ねた声で呟く。
 きっと、満足するのは私だけだ。栄は物ではなく、心があれば欲もあるのだから。彼女が他に誰を好きになろうとも私には責める権利などないし、彼女が私に恋をしていようとも受け止める覚悟がない。
 これは罰だ。
 栄の気持ちを気付かないふりで無視し続けてきたくせに、自分が必要とされなくなると思った途端に手放したくなくなる、なんともみじめなエゴイズムの結果なのだ。
「……帰るわ、今日。持病の偏頭痛と歯痛と、えーと腸閉塞で」
「出欠くらい取ったら?」
「じゃ、欠席でいい」
 肩を落としながら立ち上がって、ひらひらと手を振る。担任が来てしまう前に逃げ出しておかないと、またカウンセリングをされかねない。若く情熱に燃えているのは結構なことだけれど、一人になりたい時もあるのであって。
 遅刻すまいと慌てて足を速めている生徒の隣りを逆行していると、そういえばこの1年は自分もこの中に混じっていたなぁと溜め息をついた。生真面目な栄は毎朝早めに登校しては花壇に水をまいていたから、一緒に登校するために私を叩き起こしに来ていたものだ。
 なまけになまけた日頃の不規則な生活に加えて、姉にからかわれてはたまらないと深夜に炭を作成していた疲れと、栄を捕まえるために1時間も早起きした疲れで、覚めていたはずの眠気がぶり返してきた。とっとと帰宅してベッドに潜り込みたい。まだ9時にもなっていないのに、徒歩通学では夏の日差しが特にこたえる。
 大体、栄がもっと上手く気持ちを隠し通していてくれれば私もこうまで悩まなくて済んだのだ。
 友チョコという言葉もあるし、毎年チョコレートを貰うだけならまだいい。手を繋ぐ度に顔を赤らめるようになったのは、今まで気にもしていなかった下着姿を横目で見るようになったのは、同じベッドで眠る事をかたくなに拒否しはじめたのは、他校の女生徒に告白された話を悲しそうな顔で聞くようになったのは、たまに遊びに誘う機会を本当に楽しみにしていたのは、いつ頃からだっただろうか。私の思い過ごしであればいいと何度思ったか知れないが、もっとも、こんな事を考えている時点で私が自分の事しか考えていない証拠だ。
 いつも身をかわしてばかりのくせに、想いを隠せも何も言えた義理ではない。
「サボり?」
「違うよ。盲腸になった」
 見慣れた玄関を開けて靴を脱いでいると、今頃起きたらしい姉の真純がひょっこりと洗面所から顔を出した。本当に病気の場合はどうするつもりなのか、そりゃ大変だとだけ呟いて再び引っ込む。すっぴんの眉毛だけでなく妹に対する情まで薄いのだ。
 力無く階段を上って、廊下の奥側にある自室に閉じこもる。エアコンの温度設定を目いっぱい地球に厳しくしてから制服を脱いだ。箪笥の引き出しからTシャツだけ取り出して袖を通す。後は、タオルケットを敷いたベッドにダイブするだけだ。
 瞼を閉じるとあっという間に意識が溶けていく。夢を見る暇もなかったくらいで、くしゃみをしながら起きたのは時計が14時をまわった頃だった。空腹を覚えたので、リビングでドラマの再放送を見ていた姉に茹でてもらったそうめんを食す。また自室に戻って、クリアしないまま放っていたテレビゲームに没頭した。
「ねー、澄加。あんた盲腸じゃなかったの?」
「んー? 違うよ、おたふく風邪うつされたんだって。姉ちゃん予防注射してたっけ」
 ノックもせずにドアを開いて話しかけてきた姉に、一応部屋入らない方がいいよ、と間延びした声で背中越しに答える。だってさ、と呆れたように笑って、そのまま廊下に出て行く足音がした。開けたら閉めるを守ってくれなければ、せっかくの冷気が逃げるじゃないか。
 つい何時間も見つめていたテレビ画面からようやく目を離して、重い腰をあげようとする。
「……実藤さんは、澄加がこっくりさんの呪いで狐つきになって、突然奇声をあげながら教室を飛び出していったって言ってたけど」
「……エリって本当は私の事嫌いなんじゃない?」
 ふくれっ面でドアのところに立っていた栄を確認して、立ち上がるのをやめた。なるほど、私にとって顔なじみなら姉にとっても顔なじみだ。そりゃ家にくらい入れるだろう。
 まだセーブをしていなかったものだからテレビの電源だけ落として、溜め息をつきながら手招きする。部屋の隅にあったクッションを勝手に掴んで、ちょこんと目の前に栄が座った。私と違って制服は着ているものの一度家に帰ったのか、鞄の代わりに簡単な花束を手にしている。水嶋家の庭に生えているのを切ってきたんだろう。小さな赤い、毛糸のボンボンのような花が透明なセロファンでまとめられていた。
「どしたの?」
「……いい加減反省したみたいだから、一緒に帰ろうと思ったんだけど。早退してたからお見舞いにきたのよ」
「正木君と帰ってもよかったのに」
「誰?」
 さすがにそれは正木が可哀想だろうと思ったが、誤魔化すように突き出された花束を黙って受け取ってから脇に置く。狐つきに花が効くのかどうかは分からないが、健康体の私には関係のない事だ。
「ちょっと。何なの?」
「んー」
 ふいに、栄の手のひらを握った。白く小さな手を無遠慮にいじくって、整った形をしたピンク色の爪を撫でる。握ったり離したりを何度か繰り返して、感触を確かめる。
 戸惑う栄とは裏腹に、私の心拍数は平常を保ったままだ。
「ドキドキする?」
「……べつに」
 訊ねると、ぎこちなく首を横に振る。嘘だと思った。細い手首の内側にある栄の血管は、先ほどからとくとくとリズムを早めている。
 私は何がしたいのだろう。いたずらに、栄を困らせたいだけなのか。
 赤い花束を見て何かを思い出そうとしていた。前に彼女から押しつけられた、花言葉の本で見た覚えがある。
「私も、別にドキドキしない」
「だから……澄加ってば。何がしたいのよ」
 座ったまま栄を抱き寄せて、頭に顎を置いて呟く。胸元で喋られるとくすぐったかったが、それだけだ。
 背中にまわした手が栄の下着の線に触れる。栄が身じろぎすると、剥き出しになった足と擦れる。シャンプーと汗の混じりあった甘ったるい匂いが鼻孔をかすめる。
 どこまでも、私のリズムは平坦だった。
「……私にとって、栄が世界で一番大切なのに間違いはないんだけど。恋人でも家族でもないのにずっと一緒にいたいっていうのは、我が侭だと思う?」
 何も感じないわけではないのだ。栄の体温が、呼吸が、そばにあるというだけで満ち足りるような。
 いとおしいという言葉が一番しっくりくるのかもしれない。私はただただ彼女がいとおしくて、他の感情を探す余裕が見つからないのだ。
 返事はなかった。頬を撫でてから栄の顎を持ち上げると、泣きそうな顔でぎゅっと目を瞑る。少しだけためらってから、唇のすぐ横にキスをした。
――それが、私の答えだ。
 彼女の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でて体を離す。わざとらしく伸びをしながら、置いていた花束を手に取った。
「ねぇ、これさ、何の花?」
「……カカリア。前から、あげようと思ってて」
「ありがと」
 乱れた髪の毛を手櫛で整える栄がそっぽを向いた先は、見ないようにした。
 すすり泣くような音が聞こえるのは姉がテレビを付けているからだろう。彼女がしきりと目を擦るのもコンタクトがズレたからだ。昔から私に弱みを見せることを良しとせずに、怒ると顔も合わせてくれなくなる栄だ。まさか目の前で泣いているなんて勘違いをして慰めると、一生口を聞いてくれないかもしれない。
 ぼんやりしながら、落ち着くのを待つ。
「ん……帰る。変な病気もらったらいやだし」
「偏頭痛と歯痛と腸閉塞と、盲腸とおたふく風邪と狐つき?」
 部屋にあったティッシュで小さく鼻を噛んで立ち上がった栄に尋ねると、もっと上手い仮病使いなさいよと笑われた。ああ、また無視をされる心配はなさそうだ。
 階段を降りる足音を聞きながらパソコンを立ち上げる。検索エンジンを開いて、カカリア、花言葉、と打ち込んでからエンターを押した。
 ずらずらと並ぶ文字に目を通す。
 カカリアの花言葉は、秘めたる恋だそうだ。

   □ □ □

「おはよう栄。デザートいらない?」
「……缶切りなんて持ってるわけないでしょ」
 翌朝になって手渡した桃の缶詰を呆れ顔で眺めて、栄が溜め息をつく。
 家にはミカンの缶詰しかなかったので、昨夜のうちに自転車でコンビニまで走って買ってきたものだ。今朝も私は寝不足で、気を抜くと足元がふらふらする。
 提げていた鞄を私に押し付け、両手で桃缶を弄びながら歩き出した。
「知ってる? 桃の実の花言葉はね、愛嬌っていうの」
「え。実って、花と意味違うの?」
「澄加は花言葉なんて興味ないじゃない」
 似合わない事するからよ、と嬉しそうに微笑まれて、胸の奥がうずいた。
 寝ぼけているせいだろうか。悩み事で眠れなくなるなんて今までなかったものだから、昼間に寝すぎたせいだと勝手に結論付けていたのだけれど。
 まさか恋煩いでもあるまい。私は栄を愛してはいるけれど、恋をしてはいないのだ。
 恋なんて、した事がないからどんなものか分からないのだ。
「ねぇ、澄加」
「うん?」
 また、胸の奥がうずく。
「ずっと一緒にいるっていうのは、振り向いて貰うチャンスがいくらでもあるって事でしょう? 大体ね。こんな問題出した時点で、もう澄加の負けなのよ」
 別にクイズをしようとしたわけじゃないとは言わなかった。図星を指されると、いつも言葉が出なくなる。
 開花時期はとうに過ぎていたから実でも同じだろうと思っていたのに、用意してきた答えが違うのは想定外だったけれど。
 栄が私の隣りを歩く。呼吸が、体温が、笑顔がそばにある。
 満たされているはずなのに平坦なリズムが狂いだした。だって、仕方がないではないか。見慣れているはずの彼女の顔が、昨日までとはまるで違って見えたのだから。やはり、あんな問題を選んだ時点で無意識に負けを認めていたのだろうか。
 溜め息をつきながら、ようやく見つけた言葉を思い出す。
――私は、あなたの虜です。


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