【バランスゲーム】

 はじめに言っておくと、榎並さんはあたしのことが好きだ。
 自意識過剰だと思われてしまうのであまり自分から言うようなことでもないけれど、実際そうなので仕方がない。
 もう一度言う。
 榎並さんは、あたしのことが大好きで。
 そして、あたしも榎並さんのことが好きだ。
 大好きだ。
「ねー、花ちゃんはどうなの?」
――そこが問題なんですよね。
 と、聞こえてきた声に内心答える。
 お互い相手が好きなんだろうな、というのは分かりきっているにしても。はいそれなら今すぐお付き合いしましょう、と簡単にいかないのが人間の難しさである。まあ犬や猫や猿やキリンにも色々あるのかもしれないが、あたしは人間なのでそこのところは分からないし置いておく。
「ねーってば」
 使い古された言葉だが、好きには種類がある。
 人間関係に矢印を引くにしても、たとえば榎並さんからあたしに向かっているラインが「とてもなついている友人」だとして、あたしから榎並さんに向かっているラインが「押し倒してちゅーしまくりたいなぁ」だとしよう。
 あたしだったら泣く。
 何でも言える優しい姉のような人だと思っていた相手にいきなり押し倒されたら、え、いや、そっちじゃないです違うんですって泣く。
 だから、榎並さんに思うことは。
「あーもー。聞いてる?」
 あたしが好きならキスしたいのかどうなのかはっきりして下さいよってことなんだけど、とりあえず。
「えーと、なんでしたっけ?」
「……もーいいよ。聞いてないじゃん」
「いや、よく聞こえなかったんですよ。うるさくて」
 ようやく返事をしたあたしにふてくされた顔でそっぽを向く榎並さんを、なだめるように笑う。
 実際、よく聞こえなかったというのは本当だ。あたし達がいるのは小さいとはいえそれなりの設備の整ったライブハウスで、先ほどまで身体を震わすような大音量に包まれていたわけだから、音楽が止まった今でも耳の奥がじーんとする。
「拗ねないでくださいって。ちゃんと聞きますから」
「……」
 ね? と小首を傾げながら彼女の腕を引く。これに弱いと分かっているのだ。
 こうすると大抵、一瞬息を詰まらせて、赤くなって、少しだけ目を伏せながら困ったように呻く。
「だ、だからさぁ」
 その反応が、あたしにとってたまらなく可愛くて。
「これ終わったら、合流して、みんなで飲み行こうって、よーちゃんが言ってて。花ちゃんはどうするのって」
「あー、どうしよっかな。榎並さんは?」
「……どっちでもいーけど」
 やっぱりあたしのことが好きなんじゃないかなとか。
「――花ちゃんが行くなら、行こうかなって」
 キスさせてくれないかなとか。
 思ってしまうわけなので、ある。


「なんなのお前ら。付き合ってんの?」
 結局、二人一緒に外に出てきて飲み会不参加を告げたあたし達を、呆れた顔で眺めながらよーちゃん――店長が舌打ちした。
 店長というのは文字通り店長だ。あたしがバイトしている、喫茶店の店長。今日のライブチケットをくれた人。ライブハウスに入るなりあたしと榎並さんを置き去りにして、もう一人いた連れと一緒にアルコールを買いに走りに出た人。色々と残念な人。
「……めんどくさい。私明日早いし」
「私だって一緒でしょうが。それをさ、たまには可愛い妹に家族サービスしてあげようって思ったらなに? どうせまたアレでしょ? 花傘が来ないから行かないってわけでしょ? 彼氏か。そんなに花傘好きか。姉ちゃんより好きか」
「違うし。なに? もう酔ってんの?」
 でもって、榎並さんの姉でもある。
 つまり店長も同じ「榎並さん」なわけだが、
「えー、蓮さんも律子も行かないの? 行こうよー」
 店長の後ろで缶ビールを片手に――中から持って出てきたらしい――ブーイングしてくる同僚のように、店長の榎並さんと妹の「蓮さん」を呼び分けるのは少し恥ずかしい乙女心だ。
「あたしも明日一限あるんですよー。すっごく行きたいんですけど、今日はちょっと」
「ほら、学校あるんだからしょーがないって。帰ろ」
 申し訳なさそうに苦笑いするあたしの腕を、ほろ酔いの姉に散々絡まれて不機嫌になった榎並さんがぐっと掴む。
 よーちゃんも大槻もたち悪いんだよね、とぶつぶつ言いながら歩き出すのに慌てて付いていくために、まだ文句を言っている二人にひらひらと手を振った。
 榎並さんと並びながら携帯を見ると、まだ22時を少しすぎたばかりだ。確かに、飲みに行こうと思えば行ける。
「別に、あたし一人でも帰れますよ? 榎並さんも行っちゃえばいいのに」
「や、だって、なんか、せっかくなら」
 あたしが小柄だというのもあるけれど、彼女の方が頭一つ分は背が高い。見上げて話す榎並さんの顔は涼しげに整っていて、街灯の明かりに透けるショートカットの髪は綺麗な琥珀色に見えて。
 なんていうのかな。みんなの評価は、かっこいいっていうのが、一番多いのだけれど。
「一緒に、帰りたいし。だめ?」
 こうして恥ずかしそうに呟いてくれる姿は、たぶん、あたししか知らないんだろうなと思うと、可愛くて、愛おしくて、抱きしめてしまいそうになる。
 さすがにそれは出来ないから、ふざけたふりをしながら手のひらを差し出す。榎並さんが、自然に指を絡ませてきた。
 手は、よく繋ぐ。彼女は甘えたがりだ。
「あ、そういえばさ、この間ね」
 二人でいる時の榎並さんは結構おしゃべりで、子どもみたいに表情がころころ変わるから、見ていて面白い。話し方もいつもより少し幼い気がする。
 出会ったばかりの頃は、今ほど懐いてくれてはいなかった。二年くらい前の、あたしが大学に入りたてだった頃。
 地元で評判の美味しい珈琲を出す喫茶店でアルバイトを始めたあたしと、専門学校を出てから店長の手伝いをしていた榎並さん。年は二つしか変わらないはずなのに、物静かで黙々と仕事をしていた彼女がずっと大人に見えたのを覚えている。
 クールでとっつきにくいとか、怒らないけど怖いとか、新人の子は大抵そんなことを言っているし、さっきいた大槻も「律子は蓮さんのお気に入りで羨ましい」とよくぼやいてくるけれど、あたしだって最初は同じだった。
 少しずつ、だ。
 実家暮らしのあたしと一人暮らしの榎並さんは帰る方向が一緒だったから、何気ない世間話をおそるおそる振ってみて。どうしても誰かに聞いて欲しかった愚痴を静かに聞いてもらえるようになって。嬉しかったことを彼女に報告するのが楽しみになって。
 榎並さんからも、いろんな話をしてくれるようになった。初めのうちは探り探りに、迷いながら、少しずつ心を開いてくれた。人見知りなんだよね、と笑いながら。
 そのうち、冗談も言い合うようになった。
 メールや電話を、時々するようになった。
 一緒に出かけたり、ご飯を食べに行くようになった。
 榎並さんの家で、二人でのんびり過ごすようになった。
 少しずつ、少しずつ、積み重ねて。
「榎並さんって――」
「うん?」
「……んー、やっぱなんでもないです」
「えー。なにそれ、気になるじゃん」
 そうやって築き上げてきた今が、微妙なバランスの上で成り立っている今が、あっと言う間に崩れてしまうような気がして、言葉を濁す。
――あたしのこと、好きですよね?
 なんて、簡単に言えるわけがない。言えたら苦労しない。自意識過剰だ。

 好きな人と、手を繋いで歩いた。
 たぶん、あたしのことが好きな人と、歩いた。
 それ以上は、今日も、踏み出せなかった。


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