【正しい誕生日の過ごし方】
杉村奈津というのは、大変に美しい生き物だ。
透き通るように白く瑞々しい肌も、肩の辺りで切り揃えた色素の薄い髪の毛も、角度や曲線が見事な形をした耳の軟骨も、ぽってりとした色艶の良い唇も、長く濃い睫毛に飾られた丸い瞳と二重瞼も、彼女を作り出すパーツの全てがまるで天使から写し取られたように素晴らしい。
それでも私にとって、彼女は単なる変わり者のクラスメイトに過ぎなかった。
昼休みになるといつも校内をぶらぶらと徘徊しているのを良く見かける。各学年の教室を決まった周期で訪れて、知り合いらしき生徒に先輩とか呼び捨てとかあだ名とか様々な名前で呼ばれながら弁当を分けて貰って嬉々として食べるのだ。
そしてどこの部にも所属していないらしいけれど、放課後になるとグラウンドで運動部と一緒に野球やサッカーをしたり、調理部に混じってお菓子を作っていたりする。
およそ一般的な高校2年生とは思えない、学校に迷い込んできた野良犬みたいなやつだ。
「みやぎきょーこさん」
その杉村に名前を呼ばれて、放課後の教室に一人残って趣味で数学の問題集をがりがりと解いていた――ただ数字を足して引くだけの簡単な問題も友人が見るだけで嫌そうな顔をする複雑な問題も、必ず答えが見つかるように出来ている整然と並べられた数字と記号の羅列がとても好きなのだ――私は顔をあげる。
おそらく宮木杏子さんと言いたかったのだと思うけれど、彼女の発音はいつもたどたどしく間が抜けて聞こえた。杉村には失礼だけれど、人間の言葉を覚えたての動物がいるならきっとこんな感じなんだろう。
「明日の土曜はね、わたしの誕生日なんだよ」
「……それはおめでとう」
あと少しで問題が解ける所なのに唐突に何の用だと内心思いながら無難に返事をする。それにしても、彼女が私よりも先に年を取るというのは何だか妙な感じがした。
「それでね、宮木さんにプレゼントが貰いたいなぁと思って」
美しい顔をにこにことさせながらわけの分からない事を言う。私は杉村を餌付けした事がないし、友人であるとも思っていなかった。別に、少ない小遣いをはたいてまで誕生日プレゼントを渡すほどの仲ではない。
「そういうのって普通自分で催促する?」
「うーん」
顔をしかめながら呆れた風に言うと、杉村は少しだけ考え込む。
「でも、貰いたいものは貰いたいんだよ」
本当に、少しだけ。
そんな事を急に言われてもすぐには準備できないし困るのだという事を私はなるべく柔らかい口調で諭すように彼女に伝えた。しかし杉村は相変わらずにこにことした顔で私の話を聞いていて、本当に分かっているのかと思っていると、大丈夫大丈夫と微笑んでみせる。やはり分かっていない。
「明日の10時にね、駅前の噴水で待ってるから」
勝手な約束に勘弁してくれと口を開こうとすると、杉村の両手がすっと私の頬に伸びてきて思わず瞬きした。そのまま彼女は気楽な仕草で腕を持ち上げて、同時に私の視界は曖昧にぼやけた色の混ざり合いしか見えなくなる。視力の悪い人間にとって、眼鏡がいかに大切で必要なものであるかどうか小学校で習わなかったのだろうか。
「ちょっと――」
抗議をしようとした私の唇に何か柔らかいものが押しつけられる。さすがにこの至近距離だと、杉村の顔がはっきりと見えた。
「それじゃ、また明日ね」
硬直した私に気を取られる事もなく、机に広がったままのノートに眼鏡を置いてから彼女は軽い足取りで教室を出ていく。廊下で擦れ違った他の生徒と挨拶を交わしている声だけが聞こえた。
眼鏡をかける事も解きかけの問題の事も、ただただ忘れる。
私にとって杉村奈津というのは、本当にわけのわからない生き物だった。
□ □ □
野良犬に噛まれたとでも思うことにしようと、人込みの中で杉村と並んで歩きながらこっそり溜め息をついた。祖母の家で飼っている柴犬だってよく私の顔をべろべろと唾液まみれの平たい舌で舐めてくるではないか。あれと同列だ。
実際杉村は噴水の縁に座って一体どうしたものかと考え込んでいた私の前に、まるで何もなかったような顔で現れたのだから。
律義に10分も前から待ち合わせ場所にいた自分も自分だと思った。はっきりと断ったわけではないのだから、そのまま別の予定を埋めるというのはどうも心地が悪いのだ。きっと私は、根が意地になるほど真面目なんだろう。約束を取り付けておいて5分も遅れてきた杉村とはえらい違いだ。
「それで、どうするの?」
「宮木さんはどうしたい?」
「私に聞かれてもね」
誘ったのは彼女なのだから、予定くらいは決めて欲しい。ただあてもなく賑やかな通りをぶらぶらするだけなんて、深まってきた秋の寒さの中では勘弁願いたかった。
「じゃあ、まずは映画館に行こうよ。今一番ロマンチックな恋愛映画を見て、お洒落なレストランでイタリア料理を食べて、それから一緒に散歩をするんだよ。湖のあるこの先の公園まで手を繋いで歩いて、ベンチに腰掛けながら鳩に餌をあげて、ソフトクリームも食べて、最後にはアヒルのボートを漕ぐの」
「……そのコースは、なんだかおかしいんじゃない?」
一昔前の映画や小説で仲睦まじい男女がそうしている光景を思い描きながら首を傾げる。そこに16歳と、17歳になりたての女子高生二人を当てはめるのは不自然な気がした。しかし彼女は、そんな事はないよと首を横に振る。
「一番正しいコースだよ。宮木さんが他にやりたい事があるなら変更するけれど」
「……別にないけど」
なら問題はないねと、杉村奈津は美しい顔で微笑んだ。
「なかなか上手くいかないものだね、宮木さん」
指を交互に絡ませるようにこちらの手を繋いだ彼女は、さくさくと乾いた音を立てる落ち葉を踏みながら溜め息をついた。冷たい風が後ろ側から吹いてきたので、二人揃ってきゅっと身を縮ませる。
あの時間に上映していたのはロマンチックとはとても言いがたい血なまぐさいサイコ映画だけだったし、洒落たレストランに入るだけの勇気も金銭的余裕もなかったのでマクドナルドでハンバーガーを食べた。
公園まで来てみたものの、予定外の事ばかりだと杉村は頬をむくれさせる。
「鳩はいないし、ボートは修理中だよ。秋になると、ソフトクリームは売っていないのかな」
「アイスならコンビニでも売ってるのに」
「あのソフトクリームじゃないと意味がないんだよ」
宮木さんは分かっていないねと、彼女は呆れたようにまた溜め息をついた。私にはこの気温の中ソフトクリームを食べる心境がいまいち理解できないし、コンビニで肉まんでも買った方が嬉しいのだけれど、どうも杉村はこだわりを捨てきれないらしい。
それなりに整備された公園の広場で木製のベンチを見つけて、とりあえずあそこに座らないかと杉村に尋ねた。
「ねぇ宮木さん、ハンカチは持ってる?」
「持ってるけど」
それを貸してよと言われたので、何に使うのかよく分からないままポケットから丁寧に畳んだ白いハンカチを取り出して手渡した。几帳面なんだねと感心したような顔をしながら、彼女も手に提げていた鞄の底から愛らしいひよこがプリントされたハンカチを取り出す。角の合わないまま畳まれていて、皺が寄っていた。
「あ」
それを二つともベンチに敷いて、杉村は白いハンカチの上に腰掛ける。
「うん、宮木さんは紳士だね」
「……それはどうも」
満足そうに微笑む彼女に、自分でやったくせにとも言えずに愛らしいひよこの上に腰掛けた。皺一つ無いハンカチは私のこだわりの一つだったのだけれど、杉村には杉村のこだわりがあるらしいので諦めてしまった。
杉村が地面を靴で蹴るように足をぶらぶらと揺らしながらこちらの肩に頭を擦り寄せてくるので、誰かとじゃれあうのが好きな子供なんだろうかとぼんやり考える。学校で見る限り彼女は皆に大変愛されていて、その美しい容貌に嫉妬されることもなく、ただただ暖かな光ばかりを浴びて育っているようだった。人心を惑わすような何かが、杉村奈津にはあるのかもしれない。
「そういえば」
今こうしている目的を、ふと思い出して声をあげた。
「プレゼントまだ買ってないけど、何が欲しいの?」
あまり高いとまるで私が杉村に貢いでいるみたいだし、出来たら千円以下のものでと付け加える。
彼女はきょとんと首を傾げてみせた。
「プレゼントなら、もう貰ったよ?」
「いや、あげてないじゃない。映画もご飯も全部割り勘だったし」
「貰ったよ」
何を言っているんだと頭が痛くなる。眉根を寄せていると、つまりねと杉村は説明した。
「誕生日は宮木さんと二人で過ごしてみたかったから、もう十分プレゼントは貰ったんだよ。なかなか予定通りの事が出来なかったのは、残念だけれど」
やはりよく分からない説明だった。
だから何故私なんかと過ごすのがそんなに嬉しいのだと尋ねると、彼女はあっさりと答える。
「好きな人とデートするのは、誰だって嬉しいものだよ」
「す……好きな人? デート?」
「わたしの好きな人は宮木さんだし、好きな人とするのがデートだよ」
だから恋愛映画を見たり、公園まで手を繋いだり、ボートを漕いだりするのが一番正しいコースだったのだと、ようやく納得がいく。
しかし自分にはまるでそんな気が無かったので、多少混乱しながら首の後ろを掻いた。とても困った時はこの辺りが痒くなるような錯覚を覚える。
「いや、好きって、なんで? 私、杉村とあんまり話した事ないよね?」
「些細な事で好きになる事もあるよ」
宮木さんは変な事を聞くねと杉村はくすくすと笑う。変なのは一体どちらなんだろう。
恥ずかしいような慌てたような複雑な表情を浮かべていると、また杉村が私の頬に両手を伸ばしてくる。今度は視界がぼやけないまま、彼女の唇が触れた。
「ところで、クリスマスの予定は空いてる?」
急な告白の返事もしていないのに、またプレゼントを貰いたいからと杉村は勝手に話を進める。おそらく私はノーともイエスとも答えられずに、また待ち合わせの10分前にはそこにいるのだろう。それよりも先に、私の誕生日が来月である事を教えてしまうかもしれない。
この美しいけれどわけの分からない生き物が、私はきっと嫌いではないのだ。
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