【まっくら森のお家のはなし】

 あるところに、とてもとても物覚えの悪い死神がいました。
 どのくらい物覚えが悪いかというと、一晩寝ると何もかもころりと忘れてしまって、何か思い出すにも誰かに教えて貰わないと滅多に思い出す事が出来ないほどです。
 その日も死神はパンの焼ける良い匂いに起こされて暖かいベッドの中でそっと目を覚ましましたが、鏡に映る知らない女の子の姿に驚いて小さく悲鳴をあげていました。何しろその女の子は全身をすっぽりと覆い隠してしまうような真っ黒い外套に小柄な身体を包んでいて、短く切ってある髪の毛は雪のように真っ白、大きく丸い瞳は炎のように真っ赤な色をしていたのです。鏡には大きく鋭い鎌が立て掛けられていて、あの子はきっと自分を迎えに来た死神なのだと考えて恐ろしくなりました。
 しばらく毛布を被って震えていましたが、よくよく考えてみると先ほど見たのは自分自身の姿だという事を死神はやっと思い出しました。外套のポケットには丸い文字で『今日も元気に、魂を集めましょう』と書いてあるメモが入っています。これが死神のお仕事なのでしょう。
 山鳩が同じようなリズムを重ねて鳴いているのを聞きながら、顔を洗って歯を磨きます。歯ブラシは2本あったのですが、高い場所と低い場所の2種類に置いてあったので、手の届く低い方がきっと死神の歯ブラシだと考えてそちらを使いました。
 それから死神は相変わらず漂ってくる良い匂いに、ふらふらと誘われるように台所へ向かいます。
 台所では背の高い細身の女の人がとんとんと包丁で野菜を切ってサラダを作っているところでした。高い場所にあった歯ブラシは、きっとこの人のものなのでしょう。緩いウエーブのかかった背中まである金色の髪が、日の光に照らされてきらきら輝いて見えました。
「おはようございます……」
 このお姉さんはとても死神には見えないので、きっと自分の仕事のお客様なのだなと考えながら控え目に声をかけます。お客様という事はきっともうすぐ死んでしまう人間だろうから、少し可哀相に思ってしまうのです。
「おはよう。もうすぐ朝ご飯できるから、待っててね」
 死神に気がついて振り向いた彼女はとても綺麗で整った顔立ちをしていましたが、顔色があまりよくありませんでした。笑っていてもなんだか青ざめていて、今すぐにでも死んでしまいそうに見えます。
「あの、お手伝いします」
「そう? 良い子ね」
 横になっていなくて大丈夫なのかと心配しながら朝食の準備を手伝い始めると、真っ白な髪を掻き混ぜるようにくしゃくしゃと撫でられてくすぐったく感じました。
 焼きたてのパンや新鮮なサラダ、湯気をたてるコーンスープに、分厚いハムやとろけそうなチーズ、他にも鮮やかな色をした野苺のジャムに、たっぷりとホイップクリームのかかったコーヒーゼリーなど、様々なものが食卓に並びます。椅子に行儀良く座りながら目の前のご馳走に喉を鳴らす死神を、お姉さんは楽しそうに眺めながらカップに熱い紅茶を注ぎました。
「いただきます」
 両手を合わせてからまだ熱いパンを指で千切ってスープに浸します。こんなに素敵で美味しい朝食を死神は今まで一度も食べた事がないはずなのですが、どれをどのように食べたらいいのか、何故だかちゃんと知っている気がしました。
「お姉さんは、いつ死んでしまうんですか?」
 紅茶にブランデーを垂らしているお姉さんに尋ねると、彼女は「明日よ」と寂しそうに答えました。死神は悪い事を聞いてしまったかなと思ったけれど、それがお仕事なのだから仕方がありません。
 でも肩を落とす死神を慰めるように、
「でも、あなたが明日までずっとそばにいてくれるなら寂しくないかもね」
 お姉さんはそう笑ってくれました。


 死神は今日は1日お姉さんと一緒に過ごす事に決めて、二人で家の周りを散歩したり、絵本を読み聞かせてもらったりして遊びました。お姉さんが住んでいるこぢんまりとした家は暗い森の奥深くにあって、黒猫を2匹とカラスを13羽飼っています。庭にはたくさんの野菜や薬草が栽培してありました。
「これの根っこを煎じて飲めば喉にいいし、こっちの葉っぱを貼り付けると打ち身によく効くの。それであれが――」
 色々な植物を指差しながら丁寧に教えてくれるお姉さんに、申し訳なく思います。せっかく教えてもらっても、どうせ自分はすぐに忘れてしまうに違いないのです。
 物忘れをしなくなる薬草はありませんかと尋ねると、お姉さんは困った顔をして考え込みました。
「今すぐは無理だけれど、そのうちね」
 お姉さんは明日死んでしまうのだから、たぶん死神をなだめるためにそう答えてくれたのでしょう。そんなものは無いのだと言われてしまったら、やはり悲しくなってしまうでしょうから。
 薬草の匂いで頭がくらくらしてきてしまったので、家の中へ戻る事にしました。心配してくれたお姉さんが死神を膝に乗せたまま椅子に座ってくれて、大丈夫? と抱きしめてくれます。向かい合うように座っているので少し恥ずかしいのですが、それがなんだか心地がよくて、死神も甘えるように頭をお姉さんにすり寄せました。
「そういえばあなた、恋人とかいるの?」
「とんでもない!」
 ぶんぶんと首を横に振ると、お姉さんはおかしそうに笑います。こんなに可愛いのにねと頬を指でつつかれて、自分も女の子のはずなのに心臓が高鳴りました。
 耳まで赤くなった死神をからかうように額をくっつけて、息が混じり合ってしまうほどの距離でお姉さんが囁きます。
「いないなら、私があなたをお嫁さんにしてあげるよ」
 それから小さくキスをされて、全身がかぁっと熱くなりました。嫌だったわけではないのですが、頭の中がふわふわとしてしまって不思議な気分です。
「……でも、お姉さんは明日には死んでしまうんでしょう?」
 そうならないと困るのは自分なのですが、なんだか嫌な気分になって目の奥が痛みます。
 死神は驚いた顔をしたお姉さんの膝から下りて、逃げるように家を出ていきました。


 気が付けば森の中のどこかをとぼとぼと歩いていて、お姉さんの家はすっかり見えなくなっていました。まだお昼過ぎのはずなのに鬱蒼と茂った樹木のせいであまり光が届かず、土も空気もじめじめとしています。お姉さんと二人でいる時には気にならなかったけれど、この森はなんだかとても寂しい感じのする所でした。
「――」
 名前を呼ばれた気がして振り向くと、死神と同じような恰好をした少女が僅かに見える空から下りてきました。そういえば自分は飛べるんだった、と擦り傷だらけになった足の裏を眺めながら思い出しました。
「最近見ないと思ったら。どうしたの、こんな所で」
 フードを深くかぶった彼女は死神の先輩である事を簡単に説明してくれたので、それで何とか先輩の事も思い出す事が出来ました。別に何でもないんですと答えたけれど、目元が濡れているのに気が付いて外套の袖で拭います。
 先輩は死神の頭を撫でながら、この辺りは危ないから早く離れた方がいいと死神に教えてくれました。
「魔女が住んでるんだよ。私達を騙しておもちゃにして、最後には食べちゃうんだって」
 実際に会った事はありませんが、死神も前に習った魔女の事を思い出しました。
 森の奥深くに一人で住んでいて、黒猫やカラスを使い魔として飼っています。庭では薬草を栽培していて、それでいて寿命がすごく長いのです。
「……その魔女って、おばあさんですか?」
 違うよ、まだ若いって聞いた事がある、と先輩は答えてから、急な仕事が入ったからもう行くけれど、気を付けてね、とまたどこかへ飛んでいってしまいました。
 死神は一人ぽつんと、その場に突っ立ったままでした。


 辺りが真っ暗になる頃にぎゃあぎゃあとけたたましい声でカラスが鳴いて、その後ろにはいつの間にかお姉さんが立っていました。心配したのよ、と怒っているような泣いているような、でもとても安心したような表情で手のひらを握ってくる彼女を死神は複雑な気分で見上げて、しがみつくようにその手を握り返します。
「お姉さんは、魔女なんですか?」
 震える声で尋ねると、お姉さんは悲しそうに頷きました。
「わたしが物覚えの悪いばかだから、からかってたんですか?」
 それは違うよと言われたけれど、どうしようもなく悲しくて涙が止まりません。お姉さんが魔女である事を、前にも死神は気付いた事があるかもしれないけれど、夜眠ってしまうたびにその事を忘れてしまっていて、また朝になれば明日になると死んでしまうお姉さんと1日中一緒に過ごしていたのでしょう。
 そんな事を何日も、ひょっとしたら何十日も何百日も何年も繰り返していたのかもしれません。死神や魔女からすればほんの短い時間に過ぎないけれど、この優しいお姉さんが明日には死んでしまうのだなと考えるたびに嫌な気分になって目の奥が痛むのです。
「ごめんね、泣かないで」
 小柄な死神に目線を合わせるように魔女のお姉さんはしゃがみこんで、死神の真っ白な髪をくしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でました。
 初めから騙そうとしていたわけではないんだよ、とお姉さんは続けます。
「あなたが物忘れをしなくなる薬を下さいって、私の所に来たの」
 すぐには無理だからと魔女の家に一晩泊めて貰った翌朝、死神はもう何もかもころりと忘れてしまっていたので、魔女の事を自分が魂を回収しにきたお客様なのだと勘違いしていました。
 その事を教えてあげれば思い出す事も出来たのかもしれませんが、ずっと一人きりで暮らしていた魔女は自分の事を恐がりもせずに懐いてくれる死神と離れてしまうのが寂しくなってしまったそうです。薬は完成していたけれど、毎日決まった嘘をついてしまっているうちに言い出せなくなっていたのだと、お姉さんは青ざめた顔に苦笑いを浮かべました。
「これでもう治るからね。お仕事の邪魔をしてごめんね」
 死神はお姉さんに手渡された、薄赤く光る液体の入った小瓶をじっと見つめました。
 物忘れをしなくなれば、もうお姉さんが死んでしまうのだと勘違いして目の奥が痛くなる事はありません。色々な薬草の話だって覚えられるかもしれないし、他にもたくさんの事を覚える事ができます。それはとてもとても素敵な事に違いありません。
 それでも、お姉さんが魔女で、まだまだ死んでしまう事がないと覚えていられるならば、もう死神はここにいる必要はないのです。他に死んでしまいそうな人間を探して、その人の魂を回収するためにそばにいなければいけません。
「お姉さん……」
 死神はどうすればいいのか分からなくなってお姉さんに泣きそうな声を出しました。忘れてしまいたい事も覚えていたい事もどちらもたくさんあって、選ぶ事が出来ません。
「お姉さんは、わたしと一緒に居たいですか?」
 どうせならお姉さんに選んでもらおうと死神は思いました。お姉さんが望むなら、自分は物覚えの悪いばかのままでもいいと思ったのです。
「……一緒に、いてくれるの?」
 お姉さんの返事は、イエスでした。


 死神はパンの焼ける良い匂いに起こされて、暖かいベッドの中でそっと目を覚ましました。鏡にはまだ眠たそうな顔をした女の子が映っていて、頬にシーツの皺が赤く転写されています。真っ黒な外套のポケットには丸い文字の書いてあるメモが入っていて、それを読んで仕事の内容を確認しました。
 顔を洗って、低い場所に置いてある歯ブラシで歯を磨いて、それから相変わらず漂ってくる良い匂いに誘われながら台所に向かいます。
「おはようございます、お姉さん」
 はにかみながら挨拶をすると、サラダを作っていた背の高い魔女は嬉しそうに振り返って死神を抱きしめます。いつものように小さくキスをされて、全身がかぁっと熱くなりました。
 あの日お姉さんは、死神にきちんと薬を飲ませてしまいました。冷たくて熱い液体が喉を通過していって、これではお姉さんと一緒に居られなくなってしまうと思ったのです。
 そんな事はないわとお姉さんは笑って、あなたが構わないなら、私と暮らしながらでも仕事はできるでしょうと死神の頭を撫でました。それどころか、あなた一人では心配だから私も一緒に働いてみようかしらなんて言い出すしまつです。
「なにより私は、朝起きるたびにあなたに忘れられているなんてもう耐えられないもの」
――お姉さんが涙を零している所は、初めてみたような気がしました。


「今日はお仕事あるの?」
「ううん、今日は何もないですよ」
 あの森の魔女が可愛い後輩と一緒にいるなんて、と先輩は妙な顔をするけれど、優しいお姉さんがいつも側にいてくれて死神はとても幸せでした。今なら、お姉さんのお嫁さんになってもいいかもしれません。
「……ねぇ、お姉さん」
 一つだけどうしても心配な事があって、死神は魔女の袖を引っ張ります。
「お腹がすいても、わたしをスープにして食べてしまうのは絶対にやめてくださいね」
 それを聞くとお姉さんはぷっと吹き出して、そんな事はないよと笑ってしまいました。それでも先輩がいつも、食べられないように気をつけなさいと言ってくるので、魔女だからやっぱり誰かを食べてしまいたくなる事があるのかなと死神は悩んでしまうのです。
「もう少し大人になったら、教えてあげるよ」
 わたしはもう何百年も生きているよと死神は頬を膨らませたけれど、お姉さんはただただおかしそうに笑い続けるだけでした。


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