【世界の終わりを告げる街】

 私にとって都会というのは大人にならなければ足を踏み入れられない魔界のような場所で、こちらからあちらへの一方通行しかないのだと半ば本気で思っていた時期があった。
 都会に生息する住人は――テレビに映る芸能人も通行人も、総理大臣だって――全てが地方からの出身者で、生まれながらにあちらで育った者なんて存在しないと。
 現にサラリーマンをやっている父は私がまだあどけない小学生だった頃から仕事の都合で都会に単身赴任していて、私が成長して高校生になった今でもあちらにいる。月にいくらかの生活費を振り込むばかりで一向に戻ってくる気配がないので、きっと魔界に馴染んで変貌を遂げてしまったのだろう。所謂、仕事の鬼というやつだ。
 姉も一昨年都会の大学に進学したが、盆と正月にしか戻ってこない。それも昔は気にもとめていなかったくせに、やれコンビニがないだのやれバスが一時間に一本しかないだのと顔を合わせる度に文句ばかり零す。まあ女というのは大抵が魔物なので、姉が魔界に馴染んでしまうのも仕方のない事なんだろう。彼女に言わせてみれば、小悪魔であるらしいけれど。
 都会は、魔界だ。きらびやかで騒々しい、世界の終わりを告げる街。


「ねえ、マリ。私がここに来た時の事を覚えてる?」
 姉が置いていった新しいCDを部屋で聞いていた私に、優子は唐突にそんな事を尋ねてきた。
 優子というのは部屋の主人――つまり私だ――を床の上に追いやっておいて、自分だけ我物顔でベッドに寝転んでいるという大変に遠慮のない女で、私の友人もやっている。俯せにしていた顔を少しだけあげていたので、涼しそうな目元と右側にある泣きぼくろだけが私からは見えた。
「……学校が終わって、そのまま歩いてついて来た」
「そんな数十分前の話じゃないよ。もっと、もっともっと前」
 強調されなくても分かっている。彼女は、昔話がしたいのだ。
 私は小さく溜め息をついて、優子の好きな昔話を記憶の引出しから取り出してやる。古いアルバムやホームビデオを押し入れから見つけてくるよりも早く、鮮明に語る事は得意だった。
 今度は小さく、息を吸う。ゆっくりと、言葉と共に吐き出す。
「――優子がここに来たのは、小学五年生の時。当時は体が弱くて、都会の空気よりはマシだろうからっておばあちゃんの家で静養する事にした、らしい」
 もっとを三つ重ねるほど前ではないかもしれない。数えてみても、ほんの六、七年前の話だ。
 それでも私達にとって身長が十数センチ低いだけの世界は気が遠くなるほど昔の話だし、優子に至っては今じゃ170センチ近くある。中学からぴたりと背が伸びなくなった私の方が、チビである分だけ昔話が得意なのも道理だった。
「引っ越していく事はあっても引っ越してくる事は稀な土地だから、同じ年頃の子供と違って優子は異端だった。日に焼けてない肌も傷んでない長い髪も、まるで不健康な幽霊みたいに見える。海と山しか遊び場がない環境で育った人間から見れば、泳げないのも木登りが出来ないのもありえない事だよ。勉強よりも運動が出来る方がえらいんだ。だから優子は、よくいじめられた」
 彼女は魔界の出身である、トカイモノという名の化け物だ。一本通行しかないはずの道を溯ってやってきた、数少ないあちらの子。日常を脅かす、魔物の子。
 そう、そんな事があったと優子はわずかに目を細める。二十数センチ下にある、過去を見ながら。
「田舎の子はみんな乱暴なんだと思ったよ。バカかアホしか人を蔑む言葉を知らないから、私が口で言い返してもすぐに手が出てくるの。特に、てっちゃんが酷かった。てっちゃんはいつも子分を連れまわしてる、お猿の大将みたいな子だった」
「……優子は、少しませてたからね。ガキのてっちゃんには分からない事をたくさん知っていたし」
 猿の集団の中に価値観が違う人間が一人混じっているのが、怖かったんだろう。
 誰よりもかけっこが、泳ぐのが、木登りが得意だから、えらいぞ。誰よりも大きな魚が釣れるから、たくさんのカブト虫が捕れるから、えらいんだぞ。
――それが、どうしたの?
 ここで昔話の語り手が私から優子に変わる。優子は、てっちゃんの話がしたいのだ。私は、てっちゃんの話をあまりしない。
「秋頃、急に具合が悪くなって学校を休んだ日にね。てっちゃんが家にきたの。塀を乗り越えて、庭から一番近い部屋で寝ていた私のところに、こっそりと」
 おとぎ話に出てくる王子様とはまるで違っていたけどね、と笑う。王子様はどこぞの庭から盗んできた柿を土産だと言って投げてよこしたりはしないし、日焼けした肌を泥と絆創膏だらけになんてしていない。
「てっちゃんの論理はめちゃくちゃだった。外で遊ばないから、具合が悪くなるんだなんて言う。馬鹿じゃないのとは思ったけど逆らってぶたれるのも嫌だから、私はてっちゃんに連れられて出かける事になったの。こっそりとね」
 夕暮れの中を二人はどんどん歩く。自分が連れ出したくせにてっちゃんは前ばかり歩いて、優子と距離が開いてくると少しだけ立ち止まる。追いつくより先に、また前ばかり歩く。
 どこに行くのと尋ねても、山としか答えなかった。
「ついた時には辺りはもうすっかり暗くなっていたけれど、てっちゃんは私に木登りを教えると言って聞かなかった。危ないよとは注意したけど、木から落ちた事なんてないんだって。そんなの、偶然なのにね。高い、高い木だった」
 教えるといっても、また、前を登る。
 優子に一言褒められたかったんだろう。他の子みたいに、すごいねと一言でいいから。
「てっちゃんは落ちた。私は結局木登りが出来なかったから、てっちゃんが――偶然――落ちたのを見てた」
 いつの間にか上半身を起こしていた優子に、おいで、と手招きをされて私は床を離れる。ベッドを軋ませながら移動して、背中側から抱き締められるように優子の膝の間にぴったりと収まった。
 昔話は、もう少し続く。
「乱暴者のお猿さんが、女の子みたいにわんわん泣いてた。いくら男の子のまねしてたって、てっちゃんは女の子だもの。幸い骨を折ったりはしなかったみたいだけど、あちこちに怪我をしていてね。特に、枝で切った足からは血がたくさん出てた。痛かったね」
 制服のスカートをめくって、優子が私に触れてくる。太腿の上の方に、大きなミミズが這ったような傷跡が今でも残っていた。
 いつもならこんな場所に怪我なんてしない。てっちゃんはズボンばかりを穿いていたから、せいぜい膝を擦りむく程度だ。
 あの日は珍しく父が魔界から戻ってくる予定だった。たまには女の子らしい格好をしなさいと母が無理やりスカートを着せてきて、男の子になりたかった私はそれがどうしても気持ち悪くて駄々をこねて、散々に叱られた腹いせにそのまま家を飛び出したのだ。
 好きになるのは女の子ばかりだ。遊び相手は男の子ばかりだ。女の子を好きになるのは男の子なんだから、私は、私は。
 優子は見たことがないほど綺麗な女の子だった。それでも異端だから、魔物の子だから、いつもつまらなそうな顔をしていて、運動のできる私を褒めてはくれない。腹が立って少しでも彼女の注意を向けようとしたけれど、ガキだった私に優しさという選択肢は思い浮かばなかった。乱暴者の猿だ。
 泣きながら優子に連れられて帰った私は走るのが少し苦手になって、高い所は酷く苦手になった。お猿の大将もやめた。そのうち初潮がきて、てっちゃんと呼ばれる事も少なくなって、身長も伸びなくなって、女の子に戻った。
 高校生にもなると、心と体の性別が食い違った人がいる事くらいは知っている。私はどうやらそうではなかった。てっちゃんになりたかっただけだ。
「ねえ、マリ。手毬」
「……お母さんが帰ってくる」
「すぐやめるよ」
 てっちゃんとマリが混じりあった私の名前を耳元で囁きながら優子は傷跡よりも奥へと手を滑らせてくる。こんな時だけ手毬と呼びたがるのだ。遠慮のない友人は、私の恋人もやっていた。
 優子は日増しに綺麗になる。こちらにきてもう長いはずなのに、肌も焼けないし髪も傷まない。体だって弱くなくなった。チビである私と違って、手足もすらりと格好良いのがついている。
 猿だった私でも少しくらいは優しさという選択肢を身につけたと思うけれど、優子に好かれている現状を不思議に思わないだけの理解力はまだない。
「大人になったら都会へ行こうよ。ここは狭いからね。二人でずっといたら、目立っちゃう」
「別に、狭くないよ。都会の何倍も広いでしょ」
「面積の問題じゃなくてね、お猿さん。人が少ないと、目立つ。人が多いと、目立たない」
 あと何年かしたら、私もあちらへ行ってしまうのだろうか。大人にならなければ足を踏み入れられない、魔界の中に混じるのだろうか。
 優子の指が下着の中で動く度に息が荒くなる。恥ずかしい音がしてきて、気持ちが良くて、時々泣きそうになる。
「ねえ、手毬。ここを出よう?」
「ん……!」
 瞼の裏が、ちかちかする。耳朶を唇に挟まれたまま何度も頷いた。
 魔物の子が嬉しそうに笑う。私から、子供の世界を少しずつ削り取りながら笑う。
 世界の終わりを告げる、あの街へ。


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