【私たちは、はじまりをさがす】

 空から突然に降ってきた女の子を抱き止めるなんて芸当は、パズーくらいにしか出来ないと思っていたけれど。
「――ごめん! ほんっとごめん!」
「いや……なんかもう、いいですから」
 どうやら私にも、やってみればできるもんらしい。額が割れるのを我慢さえすれば。
 隣でひたすら頭を下げている辻本先輩をなだめながら病院のドアをくぐって、とっぷりと日の暮れた中をしっかりとした足取りで歩く。幸い表面を浅く切った程度で済んだようなのだけれど、制服が血まみれになってしまったのがショックだ。いつの間にかジャージに着替えていたので今は鞄に突っ込んであるものの、ちゃんとクリーニングで落ちるんだろうか。
「……高橋、大丈夫?」
「大丈夫ですって」
「でも、女の子なんだし……顔にさぁ……」
 怪我人の私と違って、先輩の足取りは随分と重い。私の頭上にシータを落としてきた犯人が彼女だからだ。
 今からほんの2時間ほど前、私と先輩は文化祭の準備で大わらわだった。我が吹奏楽部は勿論演奏がメインなのだけれど、誰の提案だったか発泡スチロールの板で出来た男女の等身大パネルを飾る事になり、先輩はトロンボーン奏者のカナデちゃん、私はフルート奏者のフキタくんを抱えてえっちらおっちら階段を上がっていたのだ。
「先輩、やっぱ男子に頼んだ方が良かったんじゃないですか?」
 ようやく途中の踊り場へと辿り着いた時に私が下から声をかけて、
「へ、平気だよ、軽い軽……い……」
 息を切らせながら先へ進み続ける先輩が上から答えてきて、
「最初は遠藤君が運ぶ事になってたじゃないですか。大体、カナデちゃんの方が先輩より背高いんだし」
「私にも出来るの! ほら!」
「あ」
「あ」
 常日頃から身長を気にしていた先輩は、ついムキになって頭上に掲げてみせようとしたカナデちゃんから手を滑らせて後方へと投げ飛ばし、その側面が私の額に直撃。薄れゆく意識の中で私の腕からも力が抜け、哀れフキタくんはお尻の下敷きになり真っぷたつに。
――以上が私の最後の記憶で、気付けば病院のベッドで熟睡していたわけだ。
「ね、ねぇ、ほんとに跡のこらないかな? 綺麗に治るかな?」
「んー、まあ、平気じゃないですかね」
 実を言うと私は傷跡が残りやすい体質のようで、小学生の時に擦りむいた膝や原因すら覚えていない指の切り傷がいまだに残っていたりするのだけれど、袖を引く先輩があんまり心配そうな顔をしているものだから呑気に答える。額といっても生え際に近い位置なのだし、そう目立つものでもないのだ。
 何より、いつも明るい先輩がこうも落ち込んだきりでいると、私の方が何か悪い事をしたような気分になってしまう。
「じゃあほら、跡が残ったらいっそ先輩が嫁に貰ってくれれば」
「……」
「いいんじゃないかなー……なんて、その……こほん」
 冗談のつもりで笑ってみせると余計に先輩の表情が沈んできたので、なんとも情けない言葉尻のまま咳払いする。
 どうしたもんかなぁ、と途方に暮れながらバス停で立ち止まった。
 私が運ばれた先は学校最寄りの病院だったのだけれど、生憎と母は県外に出張中だし、父に至っては海外なので、親に迎えに来て貰うわけにもいかない。
 これ以上先輩に心配をかけてしまうのも心苦しかったので、「あ、擦りむいただけで普通に帰れるから全然平気」と仕事先から慌てて電話をかけてきた母にも答えてしまったのだ。
 気まずい雰囲気のままバスを待っていると、時が過ぎるのは遅い。
「――ねぇ、高橋って今日一人なんでしょ?」
「え、はい」
 ぐっと気迫のこもった目で見つめられて、間抜けに答えた。
「ご飯作るから!」
「……いや、別に大丈夫ですよ? 手ぇ怪我したわけじゃないんだし」
「お詫びに私が作る!」
「だから気にしなくても」
「いいから! あ、ほら、バス来た!」
「ちょ、せんぱ――」
 大きく開いた扉に押し込まれ、半ば無理やり了解する形で家路を辿る。
 どうしたもんかなぁ、と先程とは違う気持ちで、途方に暮れた。


「……あの、高橋はどうやって生きてるの?」
「わりとなんとかなるもんですよ」
 母親が留守になった途端荒れ放題になってしまった我が家に足を踏み入れた先輩が心底呆れた顔で尋ねてきたので、やけくそに答えて口笛を吹く。
 鍵っこ歴が長いわりに、自分でもびっくりするほど私は家事が苦手だ。掃除はもちろん炊事も出来ない。洗濯はコインランドリーが頑張ってくれるにしろ、何曜日に出せばいいのか分からないゴミが玄関先に積まれ、読みっぱなしの雑誌や本はそこらに散乱し、爪切りを探すために開けた引き出しはそのままで、コンビニ弁当とカップ麺の空き容器は流しに置いたきりだ。とてもじゃないが人を呼べる状態ではない。
 が、来てしまったからには開き直るしかないのだ。
「うわー……後で片付けていい?」
「いや、先輩も早く帰らないとまずいでしょ。今6時半ですよ」
「じゃあ明日やるね」
 しょうがないなぁ、と呟きながら台所で腕組みする先輩の後ろで苦笑いする。どうやら明日も来てくれるつもりらしいけれど、いつまでも心配されてばかりでいるよりはいっそ彼女の気が済むまで世話を焼いてもらうことにしようと心に決めた。カナデちゃんの運搬にしろバス停でのやり取りにしろ、一度言い出したら聞かない人だ。
 掃除くらい、少しは自分でやるとして。
「えっと、冷蔵庫に何か」
「4日くらい開けてないですけど。最近涼しいし」
「あ、ご飯って炊飯器に残って」
「それ使い方わかんないんですよね」
「野菜ないんだけど」
「コンビニのサラダとかおでん食べてます」
「だからどうやって生きてるの?」
「なんとかいけますよ」
 買い物には寄らずにひとまず家へ、となったものだからありものの食材を探す先輩に答えていると、深い深いため息が聞こえてきたので背中を丸めて流しを片付ける。食べた後に水ですすいではいたものの、ゴミ袋に入れるのは面倒だったのだ。夏休みの宿題しかり、こつこつとやればすぐに終わる用事でもなかなか取り掛かれないのは私の悪い癖である。
 結局先輩が発掘出来たのはタマネギとツナ缶とまとめ買いのサッポロ一番塩ラーメンだけだったので、お腹のすいた私にはタマネギのツナ炒めが載った塩ラーメンが与えられた。
 もっとしっかりしなさいといった旨のお説教と共に、二人でラーメンをすする。
 二人きりでご飯というのも考えてみればはじめてなのだけれど――
「……ごめんね?」
 先輩の話題は、相変わらずこれである。
「いいんですってば、怪我くらい。悪気あったわけじゃないでしょ」
「そ、それもあるんだけど」
 いい加減うんざりしてきた私に、先輩は言いよどむように自分の唇を指先で撫でた。困った時の癖だ。
 大体、こちらとしては私の額が割れるよりも、事故の拍子に先輩の綺麗な指がどうにかなっていやしないかということだけが気がかりだったのだ。吹奏楽部に入った理由だって、入学式でアルトサックスを奏でていた彼女がなにより格好良いと思ったからであって。
「あのね、ちょっとだけだよ? ちょっとなんだけど」
 消え入りそうな声で先輩が続ける。
「……跡、残ったらいいなって思っちゃって」
 ひょっとすると、まさかのサド宣言なんだろうか。
 どう答えていいものか箸を止めてしまった私を置き去りに、先輩は一人突っ走っていくばかりである。
「ひ、ひどいよね。それにね、高橋が言ってたみたいに遠藤君に運んでもらってたら怪我させなかったと思うんだけど、あの、遠藤君って絶対高橋のこと好きだし、そんなの私嫌だし、私も高橋と一緒がよかったから代わったんだけど、そのせいで怪我させちゃって」
「あの」
「ほんとにわざとじゃないよ? で、でもね、お詫びになんでもするから――うひゃ」
 止まらない先輩にストップをかけるべく、彼女の眼前にぐいと手のひらを突き出す。停止したのを確認してから息を吐いて状況を整理した。
 そもそも、跡が残ったら云々の話は答える気にもならないほど引かれているのかと落ち込んでさえいたのだが。
「えーと……なんか、先輩が私のこと好きみたいに聞こえるんですけど」
 みたいというよりも、そうとしか聞こえない。
 つまり、無理にでも自分でパネルを運ぼうとしたのは私の事を好きらしい遠藤君と私が二人きりになるのは嫌だからだということと、嫁に貰って下さいよと笑った時に黙り込んでいたのはそうなって欲しいと思ってしまったことに自己嫌悪を感じていた、という意味なのだろう。
 箸のお尻でこめかみを押さえる私に、先輩は真っ赤な顔で小さく頷く。
 しばらく無言で向かい合ったまま、どちらからともなくまたラーメンをすすった。こういう時はどんな風に会話を続けていけばいいのか私たちにはまだ分からなくて、妙に、いつもと同じ行動で間を埋めることに頼ってしまう。
「たぶん」
 少しずつ、探るように。
「……跡、残るんで。よろしくお願いします」
 先輩との距離をもっと縮めていける何かが欲しくて、言葉をつむぐ。
 胸の辺りから恥ずかしさばかりがこみあげてきて、それ以上はもう言えなくなって、私も真っ赤になってしまって、ただ。
 はにかむように笑う先輩が、やっぱり好きだった。


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