【神様だけが知っている】

 姉妹咲朝顔が今まで生きてきた時間は、幸福そのものだった。
 姉妹咲という派手な名字をした父は子煩悩を体現したような甘い甘い男だし、朝顔という派手な名前をつけた母は少しばかり家事が苦手だが、若く美しく優しい女だ。両親共に仲が良く健康で、いくら蝶よ花よと大切に育てた一人娘であろうと、間違いを犯した時にはきちんと叱る分別もわきまえている。朝と夜は家族三人揃って食卓を囲み、平日は母が不得手とする家事を母と似たつたない仕草で手伝い、休日は父が得意とする釣りを父の見よう見まねで楽しむ、およそ灰被りが泣いて羨むような幼少期を過ごした。
 自分の人生に何か不満があるわけではないのだ。容姿に対するコンプレックスはなく、成績は上の下。外で遊ぶよりも屋内で静かに過ごす方が好きだが、運動神経は平均的だ。友人と呼べる人間もそれなりにいるし、今年進学した高校はお人好しの集まりのようなのんびりとした校風で、他校で問題になった陰惨な事件――例えばいじめで自殺した子供であるとか、猥褻な行為で捕まった教師であるとか――をまるで異世界で起きた出来事のように、怖いねぇと頷き合う。
 ああ、それでも、いつからだろうか。朝顔が、他人から酷く傷付けられてみたいと、強く願うようになったのは。
 パソコンのキーボードを叩けば、携帯電話のキーを打ち込めば、何の苦労もなく情報を得る事が出来る時代である。SMという単語を調べてみた事はあるし、簡単な拷問史のページも眉間に皺を寄せながら読み耽った。パートナーを言葉で罵り、罵られ、体を痛めつけ、痛めつけられ、羞恥を煽り、煽られ、そうした事で快感を得るカップルがいる。我が身の高揚感のためだけに人を殺し、あまつさえその死肉を貪り食うような身の毛のよだつ殺人鬼もいる。自分自身、いくつか該当するケースがあった。吐き気を催すほど拒絶するケースもあった。世界は、朝顔が考えていたよりもずっと広い。
 私がされたいのはどんな事かな、と朝顔はよく夢想する。
 まず、頬をぶたれたい。髪の毛を掴まれたい。肩に噛み付かれたい。私のことを心の底から大切に想ってくれる人に、なにか、とても痛くて、とても酷いことをされたい。泣き顔が可愛い人だときっと素敵だろう。嬉しそうにいじめてくるよりも、悲しそうな目をした人に無理やりいじめてもらいたい。私の体の方が痛くとも、相手の心の方が、もっともっと痛ければいい。そんな理不尽で、破滅めいた愛が欲しい。
「……人の性癖をどうこう言うつもりはないけどさ。あたしには無理だよそれ、朝顔」
 朝顔がこの話をすると、日浦希美はいつも煙草を咥えた顔をしかめた。全体的にこざっぱりとした印象の女で、確か今年で二十四になる。希美は母の妹であると同時に、朝顔の事を生まれた時から知っている唯一の大人だ。絵を描く傍らにアルバイトを転々としながら暮らし、いつもお腹がすいたと嘆きながらアパートにある万年こたつに潜り込んでいる。
 何か手土産さえ持っていけば快く迎え入れてくれる希美の部屋は高校から近い事もあり、暇を持て余した放課後になると朝顔はこうしてよく入り浸った。二人で他愛のない世間話をしたり、何も話さず各々で好きな事をして過ごしたりする、距離感を適度に操作してくれる彼女が朝顔はとても好きだ。
「別に希美ちゃんにしてもらいたいわけじゃないよ。私が心底大切っていうなら、嬉しいけど」
「勘弁してよ。姉ちゃんに殺される」
 布団の無くなったこたつ机に座った朝顔が首を横に振ると向かいの希美はうぇっと舌を出しながら煙草を灰皿で揉み消して、調理実習で焼いた粉っぽいクッキーに手を伸ばした。せっかく持ってきてやったのに舌だけは肥えているものだから、まずいとだけ呟いてまた煙草を吸う。美味しければとっくの昔に学校で友達と食べ尽くしていたはずだから、当たり前だ。
「ていうか、用がないならそろそろ帰りなって。今日友達が来んの」
「この間の会社員?」
「あれは別れた。今度は公務員」
 二か月前まで彼女の恋人をしていたはずの、ぱりっとしたスーツを着こなした相手を朝顔は少し哀れに思った。これこそまさに運命だ! と騒いでいたくせに、もうあれ呼ばわりされてしまうとは。
 とはいえ別れたなら別れたで、理由を深く詮索する気は毛頭ない。希美の相手が半年と経たず変わってしまうのはいつもの事だし、お互いが納得しているならそれでいいのだろう。十五年ぽっちしか生きていない自分には口を出す権利も、経験もなかった。
「どんな人?」
 ただし、興味がないわけでもない。
 身を乗り出して尋ねると、希美は煙を深く吸いながら少しだけ考え込んだ。
「……あたしが食べたいご飯を家まで来て作ってくれる人。美味いの。今夜はカプレーゼとミネストローネとアラビアータと赤ワイン」
「赤尽くしだね」
「情熱の色だよ、朝顔」
 真っ白な煙を吐き出してはにかむように笑う叔母は、まるで十代の少女のように可愛い。幸せでいる間だけ、希美は子供に戻るのだ。
 好奇心がむくむくと頭をもたげてきた。前の会社員も素敵だったはずだが、彼女が今一番素敵だと感じている相手なのだ。
 写真でいいから見せてよ、と朝顔は甘えた声で希美におねだりした。人に話すほどの事でもないからなどと面倒臭そうにそっぽを向くわりに、惚気の吐き出し先をいつも求めている彼女は大抵渋々ながら誘いに乗ってくれる。
「駄目。出来ないよ」
 大人の表情で希美は言った。
「何ていうか――付き合ってるって知られるのをすごく嫌がる人だから。気持ちが分からなくもないけどね。外で会う事は滅多にないし、手も繋がない。だから朝顔と出くわすと、まずいんだよ」
「……希美ちゃんはそれでいいの?」
「今は我慢出来てる」
 先の事は、分からない。
 食べ残しのクッキーを片付けて、茶渋のついたマグカップを流しで洗った。忘れ物はないかと確認する希美に頷いて、玄関のドアで体を支えながら靴を履く。
「あたしだって、誰にでも話してるわけじゃないんだ。親になんてとてもじゃないけど言えないし、姉ちゃんにだって言えない。朝顔だから、話すんだよ」
 額に唇を落とされてくすぐったかった。外国のホームドラマじゃあるまいし他の親戚にこんな事をされても嫌なだけだが、希美が相手なら悪くない。
 爪先で背伸びをしながらキスを返して、朝顔は小さく溜め息をついた。
「大人は複雑だね、希美ちゃん」
「世の中が複雑なだけだよ、朝顔」
 またおいでと手を振る彼女に、次はもっと美味しいクッキーを駅前で買ってくると約束してアパートを出た。希美の部屋にはこたつ布団が有るか無いかの季節感しかないので忘れそうになるが、秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので辺りはもう随分と暗い。携帯電話の時計を確かめてみると、まだ六時を少し回ったところだ。
 来月には布団が戻ってくるかななどと考えながら角を抜けて大通りを歩いていると、一瞬見覚えのある人間と目が合った気がして振り向いた。人通りが全くないわけでもないから見間違えかもしれないが、小柄な背丈もゆるく巻いた明るい髪の毛も、なにより一際目立つ胸元のサイズで確信が持てる。朝顔が通う高校で保健教諭をしている、三好なんとかだ。
 在籍者の大半が利用しているI駅とは正反対の方向で三好を見かけるのは初めてだった。他の人間と同様で買い物帰りなのか、片手にスーパーのビニール袋を提げて急ぎ足に歩いていく。
 朝顔がまだ観察している事に気付かないまま、途中の角を曲がって消えていった。
「……」
 待て、考えるな、姉妹咲朝顔。
 あの先には、希美の住むアパートがある。ご飯を作ってくれる、公務員。買い物帰りの、保健教諭。
 三好が女性であることに問題はないのだ。前の会社員も、その前の美容師も、その前の誰かも、全員女性で、おまけに巨乳だった。
 問題は、問題は。
「……そりゃないよ、先生」
 三好は体育教師のマッチョな胸毛男ともうすぐ結婚するという噂が、学校でささやかなニュースとなっている事だ。絵描きのフリーター女と付き合っていると知られるのを嫌がるのも当然だろう。
 吐き出したくなった唾を飲み込んで、朝顔は制服のポケットに両手を入れた。気付かないうちは幸せでいてくれるかもしれないと考えてみても、何とも言えない脱力感が肩と背筋を襲ってくる。
 こんな時こそ、愛が欲しい。私のことを心の底から大切に想ってくれる人になにかとても痛くて、とても酷いことをされて、夢中になっていたい。
 きっと自分は、幸福の隙間に許可も無く入り込んでくる不幸を忘れさせてくれる場所が欲しいのだろう。安らぎは人の理性を優しく包み込んでくれるだろうが、痕が残るほど強い痛みは人から理性を奪ってくれる。
 朝顔は誰に向けているのか分からない溜め息をついて、とぼとぼと家路を歩いた。
 ああ、心が痛いのは、いやだ。

  □ □ □

 袋の中に入った、トマトの水煮缶が重い。
 日浦希美の家に夕飯を作りに行くのはこれで何度目だろう。初めて関係を持った時も、確か同じ料理を作った。彼女の部屋にあるワインを二人で空にして、また今日も似たようなことを繰り返すのだ。
 結婚するかもしれない男に愛想笑いを振り撒くのにも、いい加減うんざりしていた。そういう時は決まって一人で食事をしに行くレストランでアルバイトをしている希美が、まかない以外ろくな料理を口にしていないと言うものだから。私が作ってあげると冗談混じりに話した誘いを本当に喜んで、あっさり招き入れてくれたものだから。
 嫌な女だ。世間体は大事なくせに、安らぎだけは当たり前に欲しがるなんて。
 ここに来る途中、職場の生徒と擦れ違ったのが気になる。大丈夫だ。ばれやしない。
 扉の前でもう一度化粧を確かめた。コンタクトの度が、少し合わなくなってきたかもしれない。自分の顔が疲れてくたびれたように見えるのだ。
――そうだ、疲れている。
 希美に小さな嘘を積み重ねていくことも、凛子はいい加減嫌になってきていた。

  □ □ □

 購買で売っている三色パンは朝顔の大好物だが、今日の分はやけに生地がぱさぱさしていて美味しくなかった。悩みがあると、人は何にでもけちをつけたくなる。愛用している枕がへたって寝付けないだとか、朝ご飯に食べたシリアルが湿気っているだとか、バスの運転がいつもより荒いだとか、数学の授業で三回も当てられただとか、放送部が流す音楽の趣味が悪いだとか、お釣に貰った十円玉が錆びているだとか、目に映るもの全てが輝きを失って見えるのだ。
 ストローを刺した牛乳パックを啜ってぬるいまずいと呟く朝顔は、本日絶不調である。ただの早とちりかもしれないが、希美の相手が三好だとすれば不愉快極まる関係だ。人の幸せを願ったあとに、不幸は勝手に買い物袋を提げて向こうから歩いてくる。
「浅田はいいね、悩みなんて無さそうで」
「あるよ。朝顔が朝から機嫌悪くてうざい事」
 溜め息ばかりつく友人の目の前でまるで高校球児が食べるような大きな弁当を気楽にがっつける人間になりたいと、浅田瑞穂を見る度に朝顔は思う。
 浅田とは中学以来の親友だが、彼女は思いやりという言葉にとんと縁が無い。気にかけているものといえば脱色の繰り返しで傷んでしまったショートヘアを伸ばすかどうかという事と、冷めて水っぽい米ではなく炊きたてのほかほかご飯をどうにかお弁当で食べられないかという事くらいで、要するに、ばかで脳天気な子供なのである。
 唇についた冷凍エビグラタンのクリームを舐める浅田から箸を取り上げて、朝顔は睫毛を小さく震わせながら俯いてみせた。
「普通、もっと色々心配してくれるものじゃないの? 昔の浅田は優しくて素敵だったのに、悲しいよ」
「心配する度に優しい浅田は気持ち悪いなんて言われてればやる気もなくなるって。昔の朝顔は泣き真似なんかしなかったし――うへ、母さんまたトマト入れてる」
「あ、私が食べる」
 浅田が眉間に皺を寄せながら摘みあげたプチトマトを見て、朝顔はけろりと顔を上げる。彼女からそのまま口に放りこまれたトマトを咀嚼しながら、あっさり箸を返した。
 別に、心配されたいわけではないのだ。不機嫌になった朝顔を浅田がなだめたところで問題が解決するわけもないし、彼女との掛合いはただの気晴らしである。八つ当たりされる浅田には、悪いと思うけれど。
「んで、どーして機嫌悪いの?」
「気になる?」
「一応友達だし。トマト食べてくれたし。聞かないとうざそうだし」
 真面目に聞く気がないような身も蓋もない言い方をしながら浅田はチキンライスからタマネギとピーマンとニンジンを除去する作業に取り掛かった。野菜も食べないと大きくなれないと朝顔は母からよく言われるが、この偏食の治らない友人は背ばかりすくすくと成長していく。
「なんだかね」
「うん」
「付き合ってる人に騙されてるかもしれないの、私」
「……」
「の知り合いが」
「へ、変なところで区切んのやめてよ。うわ、あー、びっくりした。心臓とまるかと思った」
 呆然とした表情で固まった浅田が、慌てて机の上に転がった箸を拾う。そこまで驚くとは思わなくて、朝顔はくすくすと笑った。
 こういうところが彼女の愛しいところだ。素っ気ない態度ばかり取るくせに、いざ朝顔に何かあるとなると心底うろたえてみせてくれる。いつもべたべたされるよりよっぽどいいし、浅田になら、肩に噛み付かれてもいいかもしれない。
 朝顔には悪いけど、と彼女は一言前置きしてから、茶色と呼ぶには明るすぎる前髪を指で弄んだ。
「そんなん聞いてもどーしよーもないじゃん私。朝顔が騙されてるならまだしもさ、知り合いなら直接関係ないんだし。へーそうなんだ、大変だねーで終わっちゃうよ」
「私のことなら浅田に直接関係あるの?」
「……ん、まあ、親友だし?」
 浅田は言葉を濁すように口の中でぼそぼそ言って目を伏せた。嘘をついている時はいつも、こういう捨てられた子犬みたいな顔をする。
 彼女の事をばかな子供だと言ったが、思慮が浅くて単純で扱いやすい、朝顔が毛嫌いするタイプの馬鹿ではない。嘘がへたくそで、素直で純真な、愛すべき子供なのだ。
 しばらく無言で弁当の残りを貪った彼女は、やがてごちそうさまと元気よく両手を合わせた。
「ごちそうさまって、浅田……。いらないならこれ食べるよ? もったいないお化けがでそうだし」
「あげるあげる。うちの母さん、野菜残すとすっげー怒んの。なら最初から入れなきゃいいのにさぁ」
 やはりこいつは、ただのばかな子供なのかもしれない。
 快く弁当箱と箸を突き出す浅田に、いくら食べさせる努力をしても絶対に食べないから怒るんだよと、米粒ほどの大きさまで微塵切りにされた具材の山を見て朝顔は溜め息をついた。


「そういや田中ちゃんさ、今日メガネじゃなくてコンタクトしてたよね。めずらしーよねー」
「うんうん。ええと、浅田。保健室に寄ってもいい?」
 食後のジュースを買いに行く浅田について購買まで来た朝顔は、出来る限りのさりげなさを装いながら来た道を戻る足を止めた。苛々は治まったもののやはり敵の姿をもう一度確認してみないことには、また明日から同じ八つ当たりを繰り返してしまう。生徒から舐められっぱなしの冴えない数学教師の眼鏡の有無なんて、まともに聞いている心の余裕が生まれないのだ。
 不自然な笑みを浮かべる朝顔に、実物は食べられないくせに果汁が半分混じった野菜ジュースは大好物だという奇特な友人はストローを囓りながら首を傾げた。
「なんで? お腹でも痛いの?」
「野菜食べて具合悪くなるのは浅田だけだよ。その、背? 身長をね、久しぶりに測りたいなって」
「夏休み終わってすぐ測ったじゃん。まあ、別にいいけどさ」
 私も伸びてたらいいなぁ、と素直に方向転換してくれた浅田に、朝顔はほっと胸を撫で下ろした。いくら三好に気付かれていないとはいえ、一人で敵地へ赴くのは心細い。
 朝顔達が通う高校は大きなL字型をしていて、購買は一階横の小さなプレハブ、一年生の教室は四階にある。保健室は三年生と同じ二階の隅に位置していて、来年は通う教室が三階になるが、年を取る度に体力が衰えていくものなんだろうかと毎朝階段を上る度に朝顔は思った。
 Lの短い棒側に寄せられた特別教室で教鞭を取る年老いた美術教師や、三階の職員室まで何年も通う教師のことを考えると、そうでもないのかもしれないが。
「しつれいしまーす」
 とても病人だと思われそうにない明るい声で扉を開いた浅田の背中に隠れるように、朝顔は消毒臭い保健室の中に体を滑り込ませた。三つあるベッドのうち一つがカーテンで閉じられている以外に人気はなく、三好はデスクの椅子に深く座って爪のマニキュアをぺたくたと気怠げに塗り直しているところで、お世辞にも忙しそうには見えない。どうしたのぉ、と間延びした甘ったるい声で二人に向き直った。
「三好せんせ、身長測ってもいいですか?」
「いいよぉ。でも、寝てる子もいるから、静かにねぇ」
「はぁい」
 口調の移った浅田が楽しげに測定台の上に乗って、早く早くと背筋を伸ばしながら朝顔を急かす。こんなことをしにきたわけではないのにと溜め息をつきたくなったけれど、口実に使ったのは自分の方だ。
「ねぇねぇ、何センチ?」
「ん……169.4かな」
「えー。あんまし伸びてないなぁ」
 目を細めながらメモリを読み上げると、浅田は不満そうに唇を尖らせながら床に降りる。手芸部のくせにこれ以上伸びて、どうするつもりだ。
 朝顔も渋々台の上に乗って、やれ背筋が曲がっているだのもっと顎を引けだのと口うるさくチェックを入れる浅田に返事をしながら横目で三好の方を見やった。外見的には希美の好みだろうし、半年程度の付き合いからしてみても生徒に優しいと評判の先生なのだが、不倫という言葉が頭を過ぎるとどうしてこうも悪女じみて見えるのだろうか。先入観というのは恐ろしい。
「――朝顔は、154ちょいだね。ちっちゃい」
「え、嘘。前は155あったのに。ちゃんと測ってよ浅田」
「測ってるって。縮んだんじゃない?」
 我に返って背筋を伸ばす朝顔に浅田はけらけら笑う。爪を塗り終わったらしい三好が何度も床と台を往復して自分でメモリを確かめようとする朝顔を見て笑った。
「朝の方が、背は高いんだよぉ。縮んじゃったねぇ姉妹咲さん」
「……三好先生、生徒の名前全部覚えてるんですか?」
「全部は、無理だけどぉ。しまいざきあさがおって名前は、目立つじゃない?」
 浅田さんも頭が目立つから覚えてるよぉ、と三好は無邪気そうに二本の指を立てる。派手な名字をした父と派手な名前をつけた母を、朝顔は久しぶりに恨んだ。
 保健室には身体測定くらいでしか世話になった覚えがないから、こちらの顔を知られてはいないだろうと思っていたのにとんだ誤算だ。潜入捜査でまず大切なのは目立たないことだと言うのに、それすらも守れていなかったとは。
 ならば。
 いっそかまをかけてみてはどうだろう、と朝顔は開き直った。昨日目が合ったのは勘違いではなかったのだ。三好は朝顔の顔を、知っている。
「そういえば私、昨日先生のこと見掛けたんですよ。ほら、I駅と反対のN駅の大通りで。先生の家ってあの辺りなんですか? 買い物帰り、でしたよね?」
 そうだと言って欲しい。やましいことがないなら。疑惑が、まるきりの見当違いであったなら。
「……行ってないよ? 人違いじゃないかな」
 三好は、間延びしないはっきりとした口調で答えた。
 大人は。
 大人は、嫌いだ。


 小さな頃から、朝顔は希美が大好きだった。
 幼児向けのアニメ映画なんて恥ずかしいと呟きながら映画館まで一緒に足を運んでくれたことも、高校の文化祭に朝顔を連れていってどうだ可愛いだろうと周囲に自慢してくれたことも、朝顔にだけ照れくさそうに惚気話をしてくれることも。少し煙草臭いキスも、しょっちゅう絵の具で汚れている手も、見たものはありのまま写せるのに、朝顔には何を描いているのかまるで理解できない複雑な創作画も。
 両親ほど大人じゃなくて、友達ほど子供じゃない希美ちゃんのことが、大好きなのに。
「朝顔」
 後ろから呼び掛ける浅田に返事をすることもなく、朝顔は無言で帰路を歩いた。人通りの少ない脇道は、夕暮れになると地面が橙色に染まって眩しい。
 午後の授業は全て不貞寝をしてサボったが、三好に対する怒りは膨らむばかりで治まるところを知らなかった。嫌な女だ、嫌な女だ、嫌な女だ。
 希美が幸せでいてくれることが朝顔の幸せなのに、婚約者までいるくせに、遊びで不幸を運んできて欲しくない。嫌な女。
「朝顔ってば。待ってよ、何ずっと怒ってんの? 身長のことからかったのは謝るから。機嫌直してよ」
「……浅田に話したってどうにもならないよ。今、喋りたくないの」
「でも朝顔」
「うるさいから黙っててって言ってるんだよ、浅田」
 引き止められた腕を振り払うと、浅田は悲しそうな目をして俯いた。
 自分には直接関係ないと言っていたのは彼女だ。朝顔にすらどうしていいか分からないのに、浅田に何が出来るというのだろう。彼女に、出来ることなんて。
「ねぇ」
 右手を伸ばして、浅田の細い顎を掴む。戸惑うように開かれた唇から尖った犬歯が覗いて見えて、この可愛い口で泣きながら噛み付かれたら気持ちいいだろうなと、落ち込んでいたはずなのにぞくぞくした。
「私ね、男の子も女の子も、どっちも好きだよ」
 囁く。
 朝顔にとって、性別なんてあまり意味がないのだ。大切なのは健全な精神と、やわらかな心。
 愛が欲しい愛が欲しい。不幸を忘れさせてくれる、はっきりとした痛みが欲しい。
「……なに、急に」
「浅田は、私のことが好きなんだよね? どこが好き? 顔? 体? 普通気付くよ。だって、いつも見てるじゃない」
「朝顔」
 やめてよ、と泣きそうな声を出した。彼女が泣くと、たぶん私は、嬉しい。
 最低なことをしている自覚はあった。へたくそな嘘をついてまで浅田が守ってきた気持ちを、朝顔は無理やり掘り起こそうとしている。体を傷つけさせることで心を傷つけてまで、幸せになろうとしている。
 顎を掴んだまま、浅田の震える唇に無理やり指先を捩じ込んだ。湿った舌が逃げるように奥へ引っ込んで、短い、苦しそうな息がかかる。
「私が大切なら噛んでよ、浅田。痛いことがして欲しいの」
 彼女が首を横に振る度に歯がぶつかった。嫌なら、もっと口を開けばいい。明確な拒絶がないと、朝顔は余計に付け上がってしまう。
「噛んでくれたら、付き合ってあげる。いじめてくれるなら、浅田の好きなことはなんだってしてあげる。簡単なことだよ」
 浅田の潤んだ瞳の奥が、きゅっと窄まるのが見えた気がした。逃げていた舌が触れる。吐いてばかりだった息が吸い込まれる。
 早く。早く泣け。
 感じた痛みは一瞬だった。想像していたような甘美な熱とは違う、反射的に浅田を突き飛ばして手のひらでかばってしまうような、するどい痛み。
「……ばか、に」
 途切れ途切れに息を整えながら浅田が呻いた。地面に唾を吐き捨てて、涙の溜まった目元を袖口で拭う。
「ばかにすんな、姉妹咲朝顔」
 赤い目をして睨んでくる彼女を、初めて好きだと思った。
 立ちすくむ朝顔に背を向けて去っていく浅田との距離がやけに遠い。気付くのが遅すぎたのだ。
 現実は、理想通りにいかない。妄想は妄想として留めておくに限る。
 固まっていた左手を開くと指先からうっすらと血が滲んでいて、なるほど、強い痛みは人から理性を奪ってくれるけれど、痕を見る度にその時の気持ちを思い出させてしまうんだなとぼんやり思った。だから優しい人は悲しみや後悔を長引かせないように、滅多なことでは傷跡を残さないんだろう。
 こんな痛みが欲しかったわけじゃない。心が痛いのは、嫌なのに。
 俯いて泣いてみせても、浅田は橙色の道を戻ってきてはくれなかった。

  □ □ □

 この頃、些細なことばかり気にかかる。凛子が希美の家から直接出勤してきたことを悟られるわけがないのに、生徒が何気なく話す言葉もまるで問い詰められているように感じてしまう。
 罪悪感が余計に凛子を焦らせるのだ。彼女の前で仕事の出来る大人の女を演じ続けるにも限界がある。ぼろを出して幻滅されるより先に、きちんと話しておかなければいけない。
――今まで出会ったどの男よりも、希美が好きだ。
 昨日会ったばかりだというのに明日二人で話がしたいと電話をかけると、彼女は少し戸惑っていた。人前に出たがらない女が急に外で会いたいと言い出すのだから、どこか不審に思うのも無理はない。
 それでも、次では駄目なのだ。凛子はたぶん、また誤魔化し続けてしまう。
 しばらく考えて、駅のそばで待ち合わせをした。バイトの日取りは誰かと代わってもらうと言う。
 彼女に、本当の自分を見せよう。

  □ □ □

 どうして大人は、こんな苦いだけの豆の煮汁を美味しそうに飲むのだろうか。
 ウェイトレスが運んできたコーヒーを一口舐めて、朝顔は砂糖壺を掴みながら静かな店内を眺めた。N駅のそばにある喫茶店は希美がよく連れてきてくれる場所だから慣れているはずなのに、同世代の人間が他に見当たらないと自分はどうにも場違いなんじゃないかといささか不安になる。他に予定もないから、こうして一人窓際でひっそりとコーヒーに砂糖の塊を投げ込んでいるしかないのだけれど。
 金曜日の次に土曜日がくるのは当たり前のことだが、本当なら今日の休みは親友と一緒に過ごすのだと随分前から決まっていた。待ち合わせ場所として指定したこの店に相手が来る気配は全くないが、昨日自ら友情をぶち壊した朝顔に約束を破るなと文句を言う資格はない。
 左手の人差し指と中指には母の手によって大袈裟な包帯が巻かれている。まさか人に噛まれたとも言えず、学校の骨格模型で遊んでいたらそのまま転んだ勢いで思いきり挟みましたと話すと、何故かあっさり納得された。私は母にアホだと思われているんじゃないかと、思い返した朝顔は溜め息をつく。
「姉妹咲さん?」
 呼ばれて顔をあげると、眼鏡をかけた地味な三十路女が見えた。校外で出会ったとしても声をかけるほど親しい仲だっただろうかと、内心思う。
「田中先生じゃないですか。どうしたんです、こんなところで」
 生徒に舐められてばかりの内気な数学教師は落ち着かない様子で両手の人差し指を擦り合わせ、朝顔が一人で座っているのと腕時計とを交互に見やる。試しに席をすすめてみたが、断られてしまった。
「だめよ、高校生が一人で。危ないわ」
「先生が座ってくれれば二人になりますよ」
「わ、私は、その、一人でいいの」
「はぁ」
 生返事をしながら砂糖甘いコーヒーを啜る。学校帰りに制服姿のまま寄り道をしているわけでもないし、私服の女の子にとって喫茶店が注意されるほど危ない場所とは思えないが、現代日本は朝顔の想像以上に物騒になっているのかもしれない。
「これ飲んだら帰りますから。臓器を売り飛ばされるのは嫌ですし」
「ぞう……? とにかく、ええと、気をつけてね」
 朝顔がおとなしく頷くのを見届けて、田中は店の奥へと歩いていった。一人がいいのではなくて一人でいいという辺り、おそらく彼女も誰かと待ち合わせをしているのだろう。プライベートを生徒に見せたくないからと職権を乱用するのは、少しいただけないが。
 こんなことならあっちのファーストフード店に行けば良かったと、近頃増えた溜め息をつきながら向かいにある赤い看板を眺めた。秋の限定メニューをまだ食べていないし、ガラス張りの店内には暇そうな同世代もわらわらとたくさん見える。希美だっているのだし――
「……え、希美ちゃん?」
 窓と額が引っ付きそうなくらい顔を寄せて、朝顔はじっと目を凝らす。確かに駅周りは彼女のホームグラウンドだが、今日はレストランのアルバイトがある日じゃなかったのだろうか。
 希美は空いた手で耳を触る、煙草を我慢している時によく見せる仕草をしながら楽しげに談笑しているところで、こちらに気付く様子はない。一緒にいるのは、なんてことだ。学校で見るより更に派手な、三好じゃないか。
 声が聞こえないのが歯痒かった。素知らぬ顔で何を話しているのだろう。朝顔はただの女子高生で、非凡な能力なんて持っているはずもないのだから、いくら離れろ離れろと念じてみても希美に伝えることなんて出来ない。離れるどころか髪の毛まで触らせる始末で、胸の奥がちりちりした。
 ただ眺めているだけの一分一秒がもどかしくて長い。知らないことを知ることは、どうしてこんなに難しいのだろう。
「――お会計、お願いします!」
 二人がファーストフード店を出ようとしてからの朝顔の行動は迅速だった。マスターには悪いと思ったけれど、中身が存分に余ったカップを置いたままレジに伝票を突き付ける。
 知らないなら、教えてしまえ。悲しみが深く根付いてしまう前に、すっぱり切り離してしまわないと。
 昔から朝顔は、煮詰まるとそのまま突っ走ってしまう子供だった。ドントシンク、フィール。今を急がないと明日が消えてなくなってしまいそうで、考えることを放棄したまま行動に移ってしまう。後悔する方が多いけれど、生まれ持っての性質はどうやっても変えられない。
 ああほら、手なんか繋いで。
「希美ちゃ」
 手なんか繋いで。
 追いかけた二人を呼び止めた頃になって、ひょっとすると自分は大変な勘違いをしていたんじゃないかと青ざめた。いつだって、気付くのが遅いのだ。取り返しのつかないことに限って。
「あれ、朝顔。今日は友達と遊びに行くんじゃなかったの?」
「希美さん、姉妹咲さんと知り合いなのぉ?」
「うん、姪っこなんだ。三好さんこそ朝顔知ってるの?」
「うちの生徒なのよぅ。偶然ねぇ」
「ねー」
 ほのぼのとした笑顔を向けられて言葉に詰まる。仮に二人が付き合っていると、して。
 仲良く手を繋いでいるのはおかしいじゃないか。いや普通ならおかしくないのかもしれないけれど、二人に限ってはおかしいわけで、つまり。
 あの日寂しそうな顔した希美が堂々と手を繋げる三好は、恋人では、ない?
「の……希美ちゃんさ、三好先生が結婚するのって」
「今聞いてびっくりしたところ。来年だよね」
「一応生徒にはまだ秘密だから、昨日は誤魔化しちゃったけどぉ。やっぱり、ばれちゃうわよねぇ」
 あんまり言い触らしちゃだめだよぉ、と三好が唇に人差し指を押し当てるのを脱力しながら見上げる。ばかだ、ばかだ、私はばかだ。希美と付き合っているのは三好ではなくて、三好は不倫なんかしていなくて。勘違いのあげく浅田に八つ当たりをして傷つけた、大馬鹿野郎だ。
 にこやかに希美と別れる三好は、嫌な女ではなかった。幸せそうな、のんびりとした女だった。
 知らないことを知っているのは、神様だけだ。
「あたしも約束あるからもう行くけど、朝顔は」
 希美が視線を戻した時にはもう、朝顔は既に走り出していた。
 浅田に、謝らなければ。


 N駅から電車に飛び乗って向かった浅田の家は朝顔の家からそう離れていない。小学校の頃は丁度学区の境目を隔てていたから知らなかったが、徒歩で十五分も歩けばなんなく辿り着いてしまえる程度の距離だ。
 住宅街で見上げた一軒家はそろそろ夕方になる時刻だというのに、明かりの一つもついていない。ひょっとすると留守なのかもしれないと逃げ腰になりながら呼び鈴を押すと、応答もなしに玄関が開いた。
「……なに?」
 簡単に会ってはくれないだろうと思っていたのに、眠たそうな顔をした浅田が不機嫌な声で朝顔に尋ねる。だらしなく着込んだジャージとはね放題の髪の毛からすると、今の今まで寝ていたのだろう。寝起きの浅田は、機嫌が悪い。
 あんなに謝りたかったはずなのに、すぐには言葉が出てこなかった。ごめんで済めば警察はいらない。この文句を最初に考えた人は、きっと天才だ。
「浅田、あのね」
「さむい。なか、はいって」
 小さく肩を震わせる彼女に言われて、開きかけた口を閉じた。背中を丸めながらもそもそと引っ込む浅田の後ろをためらいがちに付いて行く。
 家族はどうしたのかと思いながら電気のついていない家の中を見回す朝顔に、浅田は言い含めるように呟いた。
「親しごと。おねーちゃん塾。おにーちゃんバイト。私だけ、寝てた」
「そうなんだ」
「んー……」
 浅田家の子供達は全員年子だ。彼女には利発な姉と、活発な兄がいる。もう男と女を両方育てたから自分は放っておかれがちで楽なのだと、浅田は髪色を明るくする度に言っていた。
 野菜嫌いを治さないのも、いかにして食べさせたものかと気にかけられるのが嬉しいからで。寂しがり屋のくせに強がる彼女が、いつも愛しい。
「朝顔さぁ」
 上の二人の部屋と両親の寝室は先着順で二階にあるのに、一人だけ一階に余った和室を宛がわれてしまった扉を開きながら前髪をいじる。畳の上に散らばった洋服と空になった野菜ジュースのボトルを足で蹴飛ばして、自嘲気味に笑った。
「なんで自分のこと好きってわかってる相手の家に、のこのこ来んの? 変なことするかもしんないじゃん。やけになってさ。今、誰もいないし」
「……でも、浅田はそんな事しないじゃない」
「するかも」
「しないよ。優しいもん」
 繰り返す浅田にきっぱりと言い切る。大体、先に変なことをしたのは朝顔の方だ。
「――私、ばかだし。嘘もへただけど」
 顎で促されて空いたスペースに座ると彼女は内装とちぐはぐなベッドに腰掛けて、力無く顔を覆った。
「隠したいことくらい、あるよ。朝顔にキモいとか思われたらやだし。一緒に遊べなくなったらやだし。怖いじゃん。なのにいきなり口、指突っ込まれるし。いじめてとか言われるし。まじ、意味わかんない」
 べそべそ、べそべそと。
 浅田が泣いている。背中を丸めて、途切れ途切れに話しながら鼻をすすっている。大きな子供が、泣いている。
 昨日は嬉しいと思っていたはずの涙が胸に突き刺さった。実際に体験するまで、好きな人の涙が時にはこれほどまで痛むだなんて、知らなかった。
 脳天気に笑っている彼女が好きだ。悲しみをばらまかないように、悩みなんてないふりをして、人前で懸命に耐える彼女が好きだ。
 浅田を傷つけたまま幸せになれる、わけがないのに。
「ごめんね。泣かないでよ、浅田。泣かないで? その、情緒不安定になるとちょっと考え無しになるっていうか。全部私が悪いの。ね?」
「じょーちょふあんてーだと、朝顔は私のこといじめるわけ? なんで私が、好きな子、い、いじめないといけな、う、けほっ」
「な、泣かないでってばぁ」
 跪いて頭を抱き抱えても浅田は余計に泣きじゃくってむせ始める。激しく上下する背中をなだめるように優しく叩いているうち、朝顔の喉がひぃんと鳴いた。
 伝染するのだ、こういうことは。涙の量も、しゃっくりの数も、悲しい気持ちも。相手と同じ分だけ痛みが広がってしまうのだ。
 体が痛いのは皮膚から先へ抜け出せないけれど、心が痛いのは、あっさり空気に混じる。
「朝顔、まで、泣かないでよぉ。ほんと、へこむし……っ」
「だっ、て、浅田が、やめてくれな、だもん……!」
 朝顔が泣くから泣きやめないのだと、浅田は言う。
 浅田が泣くから泣きやめないのだと、朝顔は言う。
 周りに年上しかいなかった二人は子供のあやし方も知らなくて、べそべそ、べそべそと泣き続けた。


「うわ、瑞穂と朝顔ちゃんがぶさいくになってる。二人でドラえもんでも見てたの?」
「……ブリキのラビリンスを」
「……のび太の雲の王国だよ」
 帰宅するなり部屋を覗きに来た浅田姉が目を丸くするのを疲れきった顔で見上げて、瞼を真っ赤に腫らした二人は投げやりに答えた。涙が枯れるというのは、きっとこんな状態を言うのかもしれない。一時間は泣いていたような気がするから、よく飽きなかったものだ。
 遊んでばっかりじゃなくてちゃんと勉強もしなよ、と姉が小言を言いながら階段を上がるのを見届けて、朝顔と浅田は互いの眉間に皺を寄せた。
「……なにその顔。私、結構面食いなんだけど。どん引きだし」
「……私なんか、服が浅田のよだれまみれなんだけど。鼻水かも」
 鏡を取り出そうとする浅田に朝顔は襟元を指で摘んでみせて、しばらくの間じっと睨み合う。
 先に笑い出したのは、浅田だった。
「ばっかみたい。何やってたんだろ、私たち」
 大きく息を吐きながら寝転がる彼女につられて朝顔も笑う。ああ、こういう気持ちも伝染するのだ。
 すっきりとした顔で天井を眺める浅田は二重が潰れてしまっていたけれど、すごく可愛い。
「ねぇ。浅田は、まだ私のこと好きでいてくれる?」
 額にかかった彼女の前髪を、手のひらでかき上げながら尋ねてみた。
 結局のところ私は浅田に謝りにきたわけじゃなくて、嫌われていないか確かめにきただけなんだと朝顔は思う。わがままを許してくれる浅田の優しさに、どうしても甘えてしまうのだ。
「……好きなものを本気で嫌いになるのって、結構むずかしいよ。変態だったけど」
「私ね、変態かもしれないけど、浅田が好きだよ」
「噛むのはもうやだ」
 そっと握られた左手の指を、浅田がいとおしむように口付けるのがくすぐったい。健全な精神とやわらかな心は、やはり大切だ。
 姉妹咲朝顔が今まで生きてきた時間は幸福そのものだった。
 これからの幾十余年も幸せであればいいと、強く、願う。

  □ □ □

「凛子さん、今日は眼鏡なんだね。可愛い」
 待ち合わせの喫茶店に現れた希美は、開口一番あっさりと微笑んだ。最悪の場合騙したなと口論になるかもしれないと、偶然出くわしてしまった静かにコーヒーを飲んでいるだけの姉妹咲朝顔を遠回しに追い払ってまで覚悟をしていたのに、体から力が抜ける。
 眼鏡の有無より他に、色々言うべきことがあるだろうに。
「そ……それだけ?」
「髪まとめてるよね。仕事してる! って感じがする」
「……化粧も薄いし、服も地味でしょう? ださいでしょう?」
「あたしはその方がいいけど。凛子さんがよその男にじろじろ見られるの、実はすごく嫌なんだ」
 拗ねた顔をして一度飲みに行った時のことを話す希美に、あれはあなたを見てたのよ、と田中凛子は溜め息をつきたくなった。
 自分はとても、くだらないことで悩んでいたんじゃないだろうか。いつもより念入りに化粧をして、髪の毛をブローして、慣れないコンタクトも入れて、親に言われて嫌々お見合いをする時以上に時間をかけて服を選んだ、あの努力の日々は何だったのだろう。
「それで、話って何? ……別れたいとか?」
「違う、そんなわけないじゃない」
 恐る恐る尋ねてくる彼女に慌てて首を横に振る。誰が、そんな気持ちになるものか。
 こんなにも希美が好きなのに、別れたいわけがない。
「――私、もうお見合いしないから。いくら形だけでも、絶対しない。約束する」
「お母さんうるさくないの? 別に、あたしに遠慮しなくていいのに」
「希美が男と二人で座ってるところを想像するだけで、私は死ぬほど鬱になるのよ」
 凛子が頭を抱えてみせると希美は照れたように笑った。当初の予定とは違っていたが、これでいい。
 店を出たら手を繋ごう。世の中は一見複雑に見えるけれど、思っていたほど聡くはないのだ。


 今夜は何を食べたいの?
 とにかく美味くて、赤いもの。赤い色が好きなのです。
 あなたが作る情熱の色が、大好きなのです。


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