【煙越しのあなた】

 笹垣ゆかりが死んだのだと言う話を、昔の友人からの電話で知った。もう一年ほど前の事で、会社からの帰宅中に信号無視をした車にはねられたらしい。
 彼女とは中学三年生の頃に通っていた塾が同じだったというだけで、別々の高校に進学してからは一度も顔を合わせた事がなかったから、私は「そう」「そう」となんとも実感の湧かない声で相槌を打っておぼろげな記憶を探る。悲しみで涙腺が刺激されてしまうような思い出は特に無くて、電話を終えてからもただ、ああ笹垣さんは死んでしまったのかとだけぼんやり思った。
 仲が良かったわけでもないし、悪かったわけでもない。挨拶や世間話はするけれど、すぐにお互いが他の相手を見つけてしまう程度の間柄だ。十数年経った今になって顔と名前が一致したのは奇跡に近い。年の離れた姉がいたそうで、同級生より幾分大人びた雰囲気の綺麗な子だった。
 パソコンのあるデスクに座って煙草に火をつけながら、一度だけ一緒に塾をさぼった事があるのを思い出す。なんとなく面倒になってCDショップで適当に時間を潰していた時に、試聴用の大きなヘッドフォンを耳に当てている笹垣ゆかりを見つけたのだ。
「笹垣さん?」
 声をかけた私に気がつくと、彼女はゆっくりとした動作でヘッドフォンを外してから困ったように笑った。まずい所を見られたと慌てるよりも少し安心している風だったのは、彼女の目元がついさっきまで泣いていたように赤かったせいだと思う。
 細かい部分の会話は覚えていないけれど、とにかく二人とも塾に行く気がないのならどこかで一緒に話でもしようと誘われた気がする。塾は大体六時か七時頃から始まって九時頃に終わるはずだったから、駅に親が迎えに来るまで何もする事がないより有り難かった。
「ちょっと、人と喧嘩してね」
 それで勉強をする気分じゃなくなったのだと、CDショップから少し離れた駐車場のブロックに腰掛けた笹垣ゆかりは呟くように言った。
「他に好きな人が出来たとか私に言われても、困るよねぇ」
「そう、だねぇ」
 彼女に付き合っている人間がいる事を知らなかった私は上手く返事が出来ずにいた。当時は部活に一辺倒だったから、そういう話には疎かったのだ。
「ああ、なんか、また泣きそうかも」
 赤い目元を指で擦る彼女が私の肩にもたれてきて、少しどきりとする。
 気を紛らわせるように顔を上げると、背の高いビルの間に暗くなった空が見えた。
「……私なら、笹垣さん一筋だけど」
「そう?」
「うん、だって笹垣さん美人だし、頭いいし。ぜったい大事にする」
 へたな慰め方だなと我ながら思ったけれど、他に何を言えばいいのかよく分からなかった。
 中原と付き合っておけば良かったねと苦笑しながら名前を呼ばれて、くすぐったい気持ちでそうだよと馬鹿みたいに頷く。泣いているよりも笑っている方が嬉しかった。
「中原は優しいね。好きになっちゃいそう」
「なればいいじゃん」
「でも、私が付き合ってたの女の人だよ?」
「え、あ、そうなんだ」
 当然それも知らなかったから、上手く返事が出来なかった。冗談なのかと思ったけれど本当らしくて、高校生なのだと笹垣ゆかりは教えてくれた。彼女の志望校だった。
「引いた?」
「……ん、いや、あんまり。そうなんだ」
 不思議と気持ち悪いとは思わなかった。ただ、なんで私に話してくれたのかなとぼんやりしながら彼女の冷たい手を握った。
 結局笹垣ゆかりがどこの高校に進学したのかはよく覚えていない。私と彼女が近付いていたのはあの夜だけで、あとは相変わらず学校の廊下や塾で顔を合わせる度に軽い挨拶や世間話をした程度だ。
 私は、彼女が好きだったのだろうか。近付いているままの二人を想像してみようとして、それでももう笹垣さんには会えない事を思い出す。
 揉み消した煙草の煙が目に染みて、少しだけ泣いた。


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