【霧の中】

 先輩に、初めて好きだと言われたのはいつだったろう。
 初めて告白された時のことではない。同性から、というより、誰かに愛を告げられたのは初めてだったから、あの日のことは今でもよく覚えている。
 それより、もっと前の。
 私の爪の形が好き、という話だったかもしれない。私の考え方が好きだと褒めてもらえた時かもしれない。私が着ていた服や、私が見る映画の趣味、そういう些細な、好きのことだ。
 子どもの頃からそうだったように大学に入ってもひとりでいることが多かった私を、先輩はたくさんの言葉で繋いでくれた。人と話すことが得意でない私と違って、先輩はたくさんの言葉を知っていたし、言葉で人と繋がるすべを知ってもいた。
 好きという言葉の様々な使い方を私に教えてくれたのは、彼女だった。
「ひかり」
 いつの間にか随分と前を歩いていた先輩が、苛立った声で私の名前を呼ぶ。
 おいでと手招きをされたので慌てて足を速めた。考えごとをしていた私が悪いのだから、仕方ないのだけれど。駅で待っていた時から先輩の機嫌が悪いのは分かっていたから、あまり刺激しないように気をつけてはいたはずなのに。
 自販機の明かりだけが照らす道を通る間も、オートロックの暗証番号を手慣れた様子で押している間も、エレベーターから降りて部屋の鍵を開けている間も、先輩は何も話さなかった。私の家に帰るまで、何も。
「ねぇ。私、いつも言ってるよね?」
 真っ暗な部屋のスイッチを入れながら尋ねてくる彼女に、私はただ黙って頷いた。
「バイトが忙しいのは知ってるよ。でもさ、帰りが遅くなる日はきちんと連絡して欲しいって、なんで分かんないの?」
 答えなんて、意味がないのだ。言葉は嘘をつくことも出来る。私が、つたない言葉を使ってどんなに説明しようとしても、彼女が信じてくれなければ嘘になってしまう。意味がない。
「心配なんだよ。私がいない間に、ひかりに何かあったらどうしようって。ひかりに友達が増えたのは私も嬉しいよ。別に、他の誰とも話さないでって言ってるわけじゃないでしょ? 私を、心配させないで欲しいだけなの」
 ベッドの縁に腰掛けた先輩に腕を引かれて、いつものように床にひざまずいた。頬にあてられた手のひらを静かに握って、そっと甲に口付ける。
 いつかどこかで見た、真似事のような忠誠のポーズが彼女のお気に入りだった。
「ひかり」
 言葉でのコミュニケーションが、相変わらず酷く苦手だ。先輩にして欲しいと言われたことはなんでもやったし、私のすべてが欲しいと彼女は望んでいて、だから私も、私のすべてを差し出してさえいれば愛されるのだと信じるしかなかった。
「ねぇ、私が好き?」
 答える代わりに、細い指先を舐める。
「本当に好き?」
 太腿を、足首を、爪先を。
「ひかり」
 彼女に言われるまま尽くすのが私は気持ちよかった。管理されることも、束縛されることも、それだけ彼女が私を愛してくれている証明だと思った。言葉で伝えられないなら、犬のように行動で示そうと努力した。
「ひかり、やめて」
 拒絶の言葉に驚いて顔を上げる。いつもならこれで許して貰えるのに、何が悪かったのかと狼狽えていると、もう一度名前を呼ばれた。
「どうして嫌がらないの?」
「……え。なに、が」
 言われた言葉の意味が分からず、頭の中で何度も繰り返す。どうして、何を、嫌だと思わなければいけないのだろう。先輩が求めることを嫌がれば、先輩に嫌われてしまうかもしれないのに。私は、先輩に求められることが嬉しくて嬉しくてたまらなくて、先輩に、すべてを差し出したいのに。
「いつもそう。なんでも私の言う通りにして、黙ってるばっかりで。ねぇ、嫌じゃないの?」
 先輩の爪先が、ひざまずいている私の肩を押し込む。
「こんなこと、されて。何も言わないの?」
 そのまま肩を踏みつけられて、痛みに小さく呻いた。
 姿勢を崩して仰向けに倒れた私を、彼女は何度も何度も、執拗に踏みつける。どうすればいいのか呆然としている私を見下ろしながら。
「私が好きなんじゃなくて、嬉しいだけ?」
 何度も。
「痛いのが好きだから、逆らわないだけ?」
 何度も。
「――ひかりは、私が死ねって言ったら、死ぬの?」
 加えられた重みに、首筋がひやりとする。
 肩に乗せていた足をようやく下ろした先輩が、私に馬乗りになっているのが見えた。視界の届かない首もとに、彼女の腕が伸びているのも。
 ひゅ、と短い呼吸しか出来なかった。
 いたい。苦しい。あつい。
「っせんぱ、が」
「何?」
 力の込められた指に触れながら、もう一度繰り返す。
 先輩が喜ぶなら、と答えた途端にふっと枷が外れて、涙をこぼしながら咳き込む私から先輩が離れた。
 足りない酸素を取り戻すように肺が激しく上下していて、耳鳴りがする。頭がぼんやりと霞んで、ついさっき起きたことがまるで夢の中の出来事みたいだった。
「あ……」
 しばらく呼吸を落ち着かせていると、先輩がいなくなってしまったことに気付いて心臓が跳ねる。
 帰って、しまったんだろうか。
 先輩は私に様々なことを教えてくれたけれど、こんな時どうすればいいのかは教えて貰えなかった。だって先輩はいつでも私のそばにいてくれたから、いつでも私を想ってくれていたから、知らないままでもいいはずだった。
 まだ少し震えていた体を起こして、よろよろと立ち上がる。追いかけていいのかも分からなかった。私のそばにいるのが嫌になったのなら、余計に嫌われてしまうかもしれない。
 頭のどこかで理解はしていた。彼女も、ずっと理由を口にしていた。
 それでも私は、知識として言葉を知ってはいても、それを使って人と繋がるすべがどうしても分からなくて。
「……先輩」
 すすり泣いている声が聞こえてドアを開けると、玄関のすぐ外でうずくまったままでいた先輩を見つけて抱きしめる。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、痣の残った肩に押し当てながら暴れる彼女を部屋の中へと連れ戻して、ずっと抱きしめたままでいた。どうしてもっと早く来てくれなかったのかと責められても、早く来いと言われなかったから分からなかっただけだ。
「先輩」
 名前を呼ぶ。
「小鳥先輩」
 何度も呼ぶ。
 私の言葉を信じてくれない先輩に、好きと言っても伝わるだろうか。余計に何か考えて、不安にさせはしないだろうか。
 きっと先輩は、どんなに伝えようとしても私のすべてを手に入れていることに気付かないのだと思う。
 愛しているからと縛られる度。
 愛しているのにと涙を流す度に。
 私の心は、彼女にとらわれたまま、動けずにいる。


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