【千代】
千代の右腕が外れた。
開け放たれた障子の向こうで桜の花びらが庭に散っていくのを眺めながら、紙巻きの煙草を煙管に刺してせせこましく吸っていた時の事だ。お茶を運んできた千代が私のそばに盆と湯呑みを置こうとした瞬間、白く滑らかな腕がぼとりと畳の上に落ちたのである。
倒れた湯呑みから薄い染みとなって広がる緑茶が私の着物の裾を濡らすのを千代は慌てふためきながら拭こうとするのだけれど、片腕ではてきぱきというわけにもいかない。私は布地を持ち上げたままもどかしげに右肩だけを揺する千代を「いい、いい」と制した。
「千代は、早く腕を拾っておいで。また猫の玩具にされてしまうよ」
部屋の隅で丸まっていた猫がそろそろと右腕に近付いていたのを見つけて、千代は急いでそれを追い払う。この間は指を一本取られてしまって、二人で猫を追いかけ回すはめになったのだ。体力のない私は、随分とへとへとになって息を切らせたものである。
「しかし、また先生のお世話にならなければいけないね。お前も随分古くなってしまったから」
縁側に立って緑茶を裾から搾り出しながら言うと、千代は申し訳なさそうに目を伏せた。この所、月に一度は先生の元に通ってしまっているからだろう。
「何、気にする事はないさ」
千代は、私が唯一所有しているからくり人形であった。
からくり人形とは十年程前に実用化された、人に代わって女中のような働きをする等身大の人形である。機械とまじないの混ざった妙ちきりんな技術で作られていて、特別な香を焚いた煙をぷぅと首の後ろに開いた小さな穴に吹き入れてやると動く。こうすると先刻まで湿った木のようだった身体が途端に生身の人間のようにしなやかになるのだから不思議だ。
千代のように若い少女の形をしたものや、逞しい青年の形をしたもの、年老いた老婆の形をしたものまで多様な型があるのは、まあ、個々人の趣味もあるのだろう。
幾分庶民にも浸透してきたとはいえまだまだ金持ちにしか所有されない高価で物珍しい代物を、借家住まい――というより、知り合いの家に居候をしている身分の私が持つなど考えた事も無かったのだが、持ってしまった物は仕方が無い。
五年前、故郷を離れて都会へ出てきたばかりの私は、田舎では見る事もなかったからくり人形の工房に冷やかしのつもりで入ったのだが、そこで世間に出回る前の試作品とやらであった千代が片隅にしまわれているのを一目見て気に入ってしまい、人形師であった先生に拝み倒して安価で譲り受けたのである。
昨今の人形のように喋りもしないし、すぐに動力は切れるし、何もせずとも転んだりどじを踏んだりとあまり優秀とは言い難いが、私は千代を大変気に入っている。
大体、作られて十年も経てば腕くらい取れやすくなるものだ。子供の乳歯がぽろぽろと抜けるのと同じである。
「出かける準備をするから、香の煙管を取っておいで」
着替えるために着物の帯を解きながら顎で指し示すと、大切そうに腕を抱えた千代が箪笥から薄紅色をした小袋を取り出してくる。
千代を膝の上に座らせ、短く砕いた香をぎゅうぎゅうに火皿に詰めた。腐りかけの果実のような甘く強い香りの煙は、口の中に含むと酷く苦味を持って、臭い。
「……旭さん、障子を開けたまま香を焚くのはやめてと言ったでしょう」
肩の辺りまである千代の黒髪をかき上げて煙をぷぅとやっていると、趣味の土いじりをしていたらしいお嬢さんが呆れた風に庭先から顔を出した。私が居候させてもらっている、少しばかり年下の大家である。
私は今年で二十五になるから情けない。
「しかしね、今日は天気が良いじゃないか。お嬢さんだって春は好きだろう?」
「だからって、また誰かに猟奇趣味の変態を住まわせていると勘違いされても困ります。ほら、またそんな格好をして」
「むぅ」
呻きながら緩んだ着物の合わせ目を正した。大体あれは、わざわざ屋敷を覗き見ていた方が悪い。
見た目こそあまり人間と変わらない千代を着替えさせるついでに香を焚いていたらうっかり腕が外れてしまっただけの話を、近所付き合いの悪い引き籠もりがちな女が純真そうな少女の腕をもいで遊んでいた、と勘違いするお隣りさんもお隣りさんである。美しい私の様子が気になるのも分かるがやはり覗き行為というのは――
「いえ、旭さんは男性だと思われていましたよ」
「千代に破壊活動が出来るような機能でもついていれば良かったのだが」
「良くありません」
小さく舌打ちしてから膝に座ったままでいる千代に再び香を吹き込み始める私に、それにとお嬢さんは付け加える。
「からくりに、直接香を吹くのをやめたら良いじゃないですか」
本来はどこか密閉された狭い場所に人形を押し込んで香を染み込ますか、煙を集めた袋に管を差し込んでから流し込むものらしい。直接煙を口に含んでぷぅと吹くのは、私の我流である。
「他のやり方だと煙が漏れて勿体ないだろう。手間もかかる」
香だってそんなに安いものではないのだ。節約するに越した事はない。
煙管に刺さったままの紙巻きをお嬢さんが哀れそうに眺めていたのには気付かないふりをした。香をケチるくらいなら煙草をやめればいいと思っているに違いないが、煙草は煙草で私に必要なものだ。
口の中を水でゆすいで今から千代を連れて街へ行くのだと話を逸らすと、ついでに使いを頼まれたので黙って出かけておけば良かったとそっと舌打ちした。
園芸用の土をついでに買ってくるのは、脆弱な私には重たすぎる。
「それでそんな大荷物を? 馬鹿だねぇ、帰りに買えば良かったじゃないか」
みっしりと土の詰まった布袋を引きずるように持った私を見て、先生――と呼んではいるが、私と同年代の女である。五年も付き合っているとたまに酒を飲み交わすくらいの仲にはなった。ただし奢りで――はからからと笑った。
まじないで薬を作る事も請け負う先生の工房は薄暗く、壁の棚には動物のはらわたや粘ついた液体の入った不気味な硝子瓶が所狭しと並んでいる。奥の方は簡単には覗けない造りになっていて、たまに先生の手伝いをしている人形が出入りしていた。工房の中が常に甘い香りで満たされているのはそのためである。
「私も買い物がしたかったんだ」
「それこそ帰りにすればいいだろ?」
「お嬢さんに釣りが駄賃で貰えるからな。前に自分の買い物を終えてから頼まれ事を済ませようとしたら、金が足りなくなって困った事がある」
「……ちっとは働いて稼ぎなよ」
「働いてるぞ」
私の稼ぎの話はどうでも良いから、早く千代を直してやってくれとまた話を逸らした。
千代の修理は、素人目には随分簡単そうに見える。
ここに来る道すがら人にじろじろと見られないようにと布で縛ってくっつけておいた継ぎ目――やはり白く滑らかで、血肉で無いのが見て取れた――に、透明な軟膏のようなものを塗り付け、早口で聞き取れないまじないの言葉を呟けば元のようにぴたりと嵌まるのだ。
前に私にも出来そうだと口に出した事があるが、馬鹿を言っちゃいけないと一笑された。職人技というやつなのだろう。
「ほら出来た。お大事にね」
行儀良く座っていた千代は、元通り繋がった右腕をゆっくりと動かしてから嬉しそうに私を見上げる。無愛想な他のからくりと違い、うちの千代は実に愛らしい。
修理代を支払ってから駄賃で香を少し買い足しておこうとすると、そういえばまだ直接吹き込んでいるのかと先生に咎められた。
「なんだ。別に害はないんだろう?」
「そりゃ……無いには無いけどね」
成分を聞いた事は無いし先生も話そうとしないが、要は品が無いと言いたいのだろう。私とて猫の餌を直接噛み砕いてから与える気にはなれない。
稼ぎが増えたら、考えておこう。増えたらの話だ。
ついでにお嬢さんに土産を買ってから工房を後にした。何でも、植物の成長に大変な効果が現れるという赤い薬液である。前に胸の成長に良いと言われた軟膏を買って帰った時は無言のままに殴られてしまったので、反省も踏まえてみた。
「私は純粋な好意でやっているというのに。千代もそう思わないかい?」
煙管に紙巻きを刺しながら尋ねると、土を運ぶのを手伝ってくれていた千代は一生懸命に首を振る。ただし、横にだ。千代は嘘が得意ではない。
お嬢さんは訝しみながらも土産を受け取ってくれたが、数日後庭に立ち並んだ大人の背丈程もある可憐な花々を見て腹を抱えて笑っていると、やはりしこたま殴られてしまった。
私の、純粋な好意であったというのに。
―――――
【簡単な登場人物と設定】
旭(あさひ)
私。甲斐性無し。変わり者。
千代(ちよ)
からくり人形。喋れないけど表情豊か。
お嬢さん(おじょうさん)
今は旭と千代とで三人暮し。よく旭に悪戯される。
先生(せんせい)
人形師。酒を奢ってくれる良い人。
お隣りさん(おとなりさん)
家政婦は見た。
世界観
なんか科学より呪術の方が発展してる。
からくり人形
主にまじないの不思議な力で動く。感情が乏しいのも豊かなのも個性。
見た目はあまり人間と区別がつかない。
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