【迷い雪】

 今朝はやけに冷え込むなと思いながら障子を開けると、庭が真っ白に塗り潰されていた。
 雪、である。
 郷里ではあまり見る事がなかったそれに私も初めは随分と興奮したものだが、五度目の冬ともなるとさすがに慣れたものだ。
「ん?」
 五度目の冬とは、どういう事か。
 庭の桜はとうに散ってしまったものの、先日買ってきた土産のおかげですくすくと育ったお嬢さんの花は未だ立派にそびえ立ったままだ。大人の背丈程に成長した、あの花である。
 つまり、私がうっかり何ヶ月分も寝過ごしていない限りはまだ春のはずなのだ。
 それなのに――雪は静かに、しんしんと空から降り続けている。
 昨晩先生と飲み明かした酒がまだ残っているせいだろうかと痛む頭を堪えながら縁側に出てみたが、やはり寒い。しゃがみ込んで手のひらですくった雪は私から熱を奪い去りながらすっと溶けていった。夢や幻ではなさそうだ。
「おや、珍しいねぇ」
「……珍しいどころじゃ無いと思うが」
 いつの間に起き出したのか、部屋に泊まっていた先生が首を傾げながら寒さに震えている私に布団をばさりとかけて、やけにあっさりとした口調で言う。困惑する私に「旭は見た事が無いのかい?」と冷えた手のひらを擦り合わせながら笑った。
「迷い雪さ。何年かに一度、都じゃこうして季節外れの冬が来るんだよ」
 何故だと尋ねると、山の神さんが間違えたんじゃないかねぇと適当な答えが返ってくる。まじない師なのだからこんな不思議な現象については詳しそうなものだが、先生は大抵いつも私の質問をはぐらかした。
 迷い雪は富みに栄養を孕んでいるから作物にも人間にも良い薬になるのだと聞かされたので、小さな雪玉をこさえて口に含んでみる。ただの氷の塊ではないかと思ったが、頭痛が少しだけ和らいだような気もした。
「そうだ、千代も起こしてやらないとな」
 あれは雪遊びがとても好きなのだ。先生やお嬢さんを誘って雪だるまでも作ればさぞかし喜ぶだろう。決して、私一人ではしゃぐのが恥ずかしいわけではない。
 香の切れたからくり人形は、まるで死んだ人間のように深く眠る。
 延々と夢を見ているのか、それとも暗い淵の中にいるのかは分からないが、世界の片隅でひっそりと眠り続けたまま時が過ぎていくのはどんなに寂しい事だろうか。喋る事のない当人がどう思っているかは分からないが、少なくとも私は千代と出会ってからの毎日が楽しい。
 布団に潜り込んで瞼を閉じている千代を抱き起こして、小さな革袋に集めた香を管に通して流し込む。いつものやり方では私の酒気が混じってしまいそうで控えたのだが、何度かに分けて作業する間に香が漏れてしまうのは勿体がなかった。
「おはよう、千代」
 声をかけると、目を覚ました千代は私を見上げるように何度も頷く。それから庭を見てぱっと顔を輝かせたので、箪笥から引っ張りだした半纏を着せてやった。千代の背丈に合わせて去年の冬に新調したやつだ。
 私と先生の分も適当に見繕って、ぽいと投げ渡した。
「あんたも変わってるねぇ。人形は寒さを感じないんだよ? 痛みも、飢えも、苦痛に繋がる事は何もかもさ」
 半纏を着込んでから縁側に戻ると、先生が紙巻き煙草を直接咥えながら目を細める。千代と私を見比べながらもどこか遠くを重ねて眺めているような、そんな目だった。
「そうは言っても、気分の問題だろう。――子供と何も変わらんよ」
 金持ちの中には人形を観賞用として集め、ただ眠らせたまま飾って置く人間もいるらしいが、私はどうもそういうのは外道染みているようで好かなかった。
 庭で雪遊びに興じている千代はあんなにも無邪気で楽しそうであるのに、血が通っていないだけの理由で無機物と同じように扱うのはいかがなものだろう。可愛い、私の妹であるというのに。
「娘でもいいんじゃないかい? 歳を考えるとさ」
「年齢を考慮した結果が妹だ」
 茶化されて舌打ちしながら煙草を取り上げる。千代の見てくれが十二歳程だとしても、私はまだ十分歳の離れた姉で通じる筈だ。第一、同年代の先生に言われたくはない。
 火の点されたまま短くなっていく紙巻きを火傷しそうになりながら煙管に詰めていると、先生はやはり私の事を変な奴だと笑った。
「……!」
「うん? どうしたんだい千代。ああ、随分可愛らしいのが出来たねぇ」
 ぱたぱたとこちらにかけて来た千代が両手のひらに載せた雪うさぎを見せてくれたので、思わずこちらも頬が緩む。熱で溶ける事もない白い塊は、緑色の葉で出来た耳と赤い花びらを丸めたつぶらな瞳を持っており、冷たいはずのそれを眺めていると心がじんわりと暖まるようだ。
 褒められたのが余程嬉しかったのか、千代はまた庭から材料を少しばかり失敬してきたので、先生も交えて三人でせっせと雪うさぎを作っては縁側に並べていく。私の雪うさぎは何故だかどれも大きさがまちまちで、先生はやたらと現実的な造形のうさぎばかりを作ろうとする。千代の作ったものが一番愛らしかった。
 寒さも忘れてつい熱中してしまっていると、ぽんと肩を叩かれて飛び上がる。驚きながら振り返ると、お嬢さんがふくれっ面で私を見下ろしていた。
「旭さんたら、また私だけ除け者にして。起きたなら起きたと言って下さい」
「いや、わざとではないんだが。朝飯かい?」
「とっくに冷めましたけどね」
「……何をそんなに怒ってるんだ」
 知りませんとだけ素っ気無く呟いて、お嬢さんはまた肩を怒らせながら部屋を出て行く。先生に居候なら居候らしく炊事くらい手伝ってはどうだと呆れられたが、私が手伝うと味見にこだわりすぎて食事が出来上がる頃には何故か腹が膨れてしまう不思議な現象について説明してやった。
「あのねぇ。それは味見じゃなくて、つまみ食いって言うんだよ」
 まぁ、そういう説もある。


「いやぁ、お嬢さんは料理が上手だねぇ。特にほらこれが美味しいよ。焼き餅?」
「ふふ、先生ったら、それはただの豆腐ですよ嫌だわうふふふ」
 先生とお嬢さんの分は温め直してある癖に、私の分だけ冷えきったままであるしじみの味噌汁を啜りながら囲炉裏を囲む。千代は私の隣りに行儀良く座って、ちろちろと赤く燃える薪を眺めていた。
 やけに楽しそうな先生と引きつった笑いばかり零すお嬢さんの会話に入り込めず、表面が干からびた米を咀嚼する。そばには団扇が置いてあり、わざわざ炊きたての米を冷ましている辺り嫌がらせだろうか。
「ん?」
 ふと、千代の傍らで白い塊が鎮座している事に気付いて目を凝らす。初めは猫かと思ったが、我が家のミケは名前通りの三毛猫であるし、猫にしては随分と小さい。
 緑色の耳と赤い瞳は、どう見ても雪うさぎだ。
「なんだ、持ってきてしまったのかい?」
 溶けてしまうと可哀相だよと窘めるが、千代は首を横に振って自分ではないと訴える素振りを見せる。
 ならば先生の仕業だろうかと振り向いたが、先生も首を横に振った。縁側に出ていないお嬢さんも当然、犯人ではない。
「旭さんの悪戯でしょう?」
「私でも無いんだが――」
 とにかく外に戻してやろうと雪うさぎに伸ばした私の手が、直前ですかりと掠む。遠近感が分からないでもなし、妙だと思いながら再び手を伸ばすとやはり直前で掠めた。
「……今、動かなかったか? 後ろにこう、すいっと」
「んん」
「ええ?」
 ぞっとしながら退くが、二人からも曖昧な返事しか戻ってこない。様子を見ていた千代がぱっと捕らえようとしたが、雪うさぎははっきりと動いて部屋の隅まで逃げていった。
 物の怪という文字が脳裏を過ぎって、喉からひぃと妙な声が出る。
「は、離れなさい千代。祟られるぞっ!」
 慌てて千代を抱き寄せようとしたが、足に力が入らずにへたりこむ。これは運動不足のせいであって断じて腰が抜けたわけではないのだが、私は怪談話の類いが非常に苦手なのだ。幼少の頃何か悪戯をする度に百物語を一つずつ話して聞かせた祖母を恨むしかない。
 逆に千代は興味を引いてしまったのか、逃げる雪うさぎをはしゃぎながら追いかけ回す。難しい顔をした先生が障子を開けるとそこからするりと庭に出てしまったので、呆然としながら視線で千代を追った。
「ああ、なるほどね」
 納得したような先生の声と同時に、くるくる、くるくると庭で踊り跳ねる沢山の雪うさぎが視界に飛び込んでくる。
 そこで私は、静かに呻きながら瞼を閉じた。


 明くる日になって目を覚ますと、心地の良い春の陽射しが私の体を包んでいた。
 全て、夢だったのだ。そうに違いない。
「雪うさぎの祟りが」
「わー!」
 おどろおどろしい調子で囁かれる先生の声に耳を塞ぎながら布団に引っ込む。そろそろと頭を覗かせると、先生とお嬢さんがくすくすとおかしそうに笑っていた。千代だけが倒れた私を心配そうにしてくれていて、冷たい世間に泣いてしまいそうだ。
「まさか、旭があんなに怖がりだとはねぇ。いやいや、可愛らしくていいんじゃないかい?」
「そうですよ旭さん。まさかいい大人にもなっておばけが怖、こほん、本当に可愛らしくて」
「だ、黙れ」
 にやにやといやらしくからかう二人に、穴があったら入りたくなる。全て祖母のせいだ。
 あれは物の怪なんかじゃないよと先生は香を手にしながら私の布団をめくった。
「迷い雪ってのは、まじないの塊みたいなもんでね。宙に溜まったかけらが、長い年月をかけて耐え切れなくなると一気に零れてくるのさ。
 それだけじゃただの雪と変わらないが、あんた香の煙を漏らしていただろう? 香は人形に使う疑似的な魂だからね。香の染みた迷い雪で作られた雪うさぎを依代にして、戯れていたんだろうよ」
 すると昨日の雪うさぎは、千代と殆ど変わらない人形だったわけである。
 勘違いで腰を抜かし、気まで失った自分は一体何だったのか。
「……何故それを始めに教えてくれないんだ」
「本来は業務機密のようなもんだしねぇ。大雑把に香を焚くあんたも悪いよ」
「そんな事は知らん!」
 不貞腐れてまた頭から布団を被る。千代が中に潜り込んで添い寝をしながら、慰めるように頭を撫でてくれた。
 次の迷い雪までに、繊細な雪像の技術を修得しておかねばならない。
 そしてあられもない姿の先生とお嬢さんを作って恥をかかせてやろうと、私は決意を胸に秘めるのだった。
「くしゅん!」
――無論、雪遊びの際にきちんと防寒対策をするのも忘れてはならない。


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