【霞】
幸せとは何かと、ぼんやり考える。
味噌汁の香りで目を覚まし、艶やかに炊かれた白米を思いきり口に頬張る事だ。おかずは黄色い玉子焼きに、香ばしい焼き鮭、梅干しなんかもあるといい。
たまには漬物で茶漬けを作り、ざくざくと豪快にかっこむのも美味いだろう。
「……で、これは何なんだ?」
目の前の椀に入った白くどろりとした液体を眺めながら顔をしかめる。箸で掬う事も出来ないので椀から直接啜ってみると、薄い塩味とわずかながらに米の味がした。残りはただの湯だ。
食欲のない病人が食べるような薄い粥であるが、風邪もすっかり治った私にとっては随分と物足りない。小指ほどの大きさをした焼き魚が二匹、ちょこんと上に載っていた。
何って、とお嬢さんは柔らかそうな玉子焼きを口に運びながら素っ気なく答える。
「旭さんのために特別作った朝食ですよ」
対してお嬢さんの前には私の理想通りの朝飯が並んでいた。特別とは、ああいうものの事を言うのではなかろうか。
「……何で私だけ粥と小魚なんだ」
「文句があるなら家賃を払って下さい」
「飯くらいはまけてくれても」
「先月の分も払って下さい」
鮭を分けてもらおうと伸ばした私の手の甲を表情一つ崩さずぴしりと叩き落としながらお嬢さんは味噌汁を啜る。
鬼だ。
このままでは先々月の分まで催促されかねないので、仕方なしに無言のまま粥を飲み込む。液体と大差無いので噛む必要もなかった。
ここ最近の私の稼ぎは殆どが千代の香と趣味の悪戯に注ぎ込まれていたのだが、この調子で三食全てが湯になるのはいただけない。第一、お嬢さんが怖い。
そういうわけで私は、有り余る才能と情熱を使う事にしたのだった。
やはりいつもと同じ内職や小遣い稼ぎ――そこらにいる通行人に財布を落としてしまったのだと適当に困った顔をすれば大抵が哀れむような目で小銭をくれる。人としての尊厳が著しく損なわれるのと、お嬢さんに見つかるとこっぴどく叱られるのが難点だ――よりは割の良い楽な仕事を選ぶべきだろうなと、千代を連れ立った私の行き先はすでに決まっていた。
荷物も無しに田舎を飛び出して来た頃は決まった飯の種もあったのだが、あれは千代と暮らすうちに嫌気が差して辞めてしまった。食い扶持を稼ぐためとはいえ元々気に食わない仕事だったので思い出したくもないのだが、稼ぎだけは良かった。
「喜べ、この私が手伝いにきてやったぞ」
「間に合ってるから帰りな」
「嫌だ」
工房の入口で踏ん反り返る私に先生は一瞥もくれずに冷たく言い放つが、慣れた事なのでこんな事ではめげない。千代も私を真似て同じような格好をするが、視線がちらちらとこちらを向いているせいかいまいち迫力に欠けていた。
土間よりも少し高い位置にある板の間で――中を隈無く見渡せ、会計等もそこで済ませている定位置だ――何かを擦り鉢で潰していた先生は嘆息しながら顔を上げる。なんだかんだ言ってもこれは人が良い。追い返されるのは稀だと知っているからこそ、情けない事に私はしょっちゅう彼女を頼っていた。
「……なら、うちのが河原まで薬草を摘みに行ってるはずだから手伝っておいでよ。三人ならすぐに済むだろうさ」
「霞が? 他の仕事はないのか」
工房の手伝いをしているからくりの名前を出されて露骨に顔をしかめる。草むしりをするのは一向にかまわないが、単に私は霞が苦手なのだ。犬猿の仲とも言っていい。
その事は先生も知っているはずだが、やはり人が悪いのだと訂正させていただく。
「他の仕事って言ってもあんたにゃろくに出来ないじゃないか。細かい仕事をさせれば物を壊す、店番をさせれば釣りを間違える、力仕事をさせればすぐばてる。霞の手伝いくらいしか任せる事はないよ」
「まるで私が駄目な奴みたいに言わないでくれ。ただほんの少し不器用で注意力散漫で体力が無いだけだぞ」
「そこまで自分を理解できてるっていうのは良い事だねぇ」
分かってるならさっさと行ってきなよと枯草で編んだ籠を胸元に投げ渡されて舌打ちする。――しかし、家賃のためなのだ。これも仕方がない事だろう。
「その前にだな」
「……まだ何かあるのかい?」
「何か食べる物を買うから小遣いをくれ。腹が減って動けん」
手のひらを上にして差し出すと「あんた今年でいくつになる?」と半眼で尋ねられたが、爽やかに笑って返しておいた。
霞がいるという河原までは少しばかり距離があるので、千代の手を引いてぶらぶらと寄り道をしながら歩いた。途中の茶屋で買った団子は、もう串だけとなって籠の中に収まっている。
私は基本あまり外を出歩くたちではないから、こうして千代と二人でのんびりと散歩をするのも久しぶりだ。もう妙な雪も降っていないし、うららかな春の陽射しはなかなかに心地良い。
急に、千代がたっと走りだす。お嬢さんと同じような年頃の若い女が川べりにしゃがんで、ちまちまと生えた柔らかそうな草の芽を摘んでいるのが見えた。
こっそりと舌打ちする。霞だ。
「あら、千代じゃない。……いやだ、まだそんなろくでなしと一緒にいるの?」
「誰がろくでなしだ」
「あんた以外いないでしょうに」
嬉しそうに戯れてくる千代の頭を撫でるために立ち上がるが、後ろにいる私を視界に入れた途端に無表情で悪態をつかれて顔をしかめる。こいつの、この微動だにしない整った顔立ちが苦手だ。
千代と違って喋りはするが、霞には表情というのがまるで無い。個性だと言われれば仕方がないが、目の敵のように嫌味ばかりを吐かれれば苦手にもなる。
先生に頼まれて手伝いに来てやったのだとそっぽを向きながら説明すると、あの人はすぐこうして甘やかすんだから、と溜め息をつかれた。無表情なのに器用な事だ。
「……可愛げの無い奴だな。ほら、何をすればいいんだ」
「あんたはとりあえずあれに座って」
「ああ」
指差された岩の上に言われた通り腰掛ける。
ごつごつとした感触が少し痛いが、陽射しで程よく暖まっていてなかなかに心地良い。せせらぎの音が鼓膜をくすぐって、春の風情を感じさせる。
千代と一緒にしゃがみ込んでまた草むしりを始めた霞は、そこで、と背中越しにせせら笑った。
「どうせ邪魔になるだけなんだから、川でも眺めて自分の人生について振り返ってみればいいわ。定職につける方法が思い浮かぶまでそうしてなさい」
「殴るぞ」
「いいけど、壊すと高いわよ」
元よりそんな気は無いが、さらりと受け流された腹いせに水面を蹴飛ばす。履いていた草履が少し濡れてしまったが、この陽気ならすぐに乾くだろう。
先生は、少し霞を甘やかしすぎではなかろうか。
いくら金払いが悪いとはいえ、工房にとって私は立派な客のはずだ。従業員が客を無下に扱い、あまつさえ暴言を吐いて成り立つ商売があるだろうか。他の客にはまるでそんな素振りも見せずに淡々と働いているし、私が工房に通い始めた頃は――千代もまだ慣れていなかったので、一人で訪れる事が多かった――喋っているところをろくに見た事がなかったが、近頃は顔を合わせる度にこのざまだ。
要はぞんざいに扱ってもいい相手なのだと、なめられているのだろう。
「まったく――お?」
舌打ちをしてから更に愚痴を募らせようとして、ふと目をこらした。
この辺りの川の流れは穏やかで、水深も浅い。草履が流されてしまっては困るので一度立ち上がって脱いでから、着物の裾をたくし上げて裸足で水の中に入った。
「うう。つ、つめたい」
「……何やってんのあんた」
じゃぶじゃぶと先へ進む私に気付いて霞が呆れ声をあげる。「まあ、待ってろ」と言い残して、先ほど目星をつけた場所を探った。着物を掴んでいるせいで右手しか使えないのが不便だが、とりあえずめぼしいものを二つほど拾って岸に戻る。
しゃがみ込んでいる霞に歩み寄って、濡れた手のひらを自慢げに開いて見せた。
「ほら、いいものを見つけたぞ。綺麗だろう」
「ただの石じゃないの。ああ、光ってるのを見て小銭と間違えたの?」
「……お前は私をなんだと思ってるんだ」
私が見つけたのはなめらかな曲線を描いた、親指の先ほどの大きさをした小石である。もっともそこらに転げているような灰色のありふれたものではない。一つは白地に薄緑のだんだら模様をした楕円球で、光の反射で時折ぴかりと光る。もう一つは全体的に青白い卵型のもので、こちらは光を受けずともぼんやり輝いてみえた。
しかし霞はまるで興味を示した様子もなくぴしゃりと言い捨てるものだから、私はむっすりと頬を膨らませた。
「もういい、お前にはやらん。そら、二つとも千代にあげよう。嬉しいかい?」
そばで見ていた千代においでおいでをして、小さな手のひらに小石を握らせる。可愛げのない霞と違って、私の可愛い千代はぱっと花の咲いたような笑顔を浮かべ、しげしげと物珍しそうに小石を眺めた。帰ったらお嬢さんに端切れでも貰って、首からぶら下げられるような袋でもこさえてやろう。
「……!」
「よかったじゃない、千代。そうね、あたしも綺麗だと思うわよ」
「おい」
嬉しそうに見上げる千代の頭を優しく撫でる霞に犬歯を剥き出して呻く。私にはただの石だと鼻で笑ったくせに、まるで態度が違うではないか。
何よ、と鬱陶しそうに霞が呟いた。
「あんたの相手はしたくないけど、千代は可愛いからいいのよ」
「私だって可愛いだろうが」
「はいはい。ほら、お姉さん達は忙しいんだから、あっち行って遊んでなさいな」
舌打ちをしながら地面を蹴って、くるりと背中を向ける。やはり、先生の教育が悪い。
千代も少しくらいは庇ってくれてもいいじゃないか、と一人散策しながらふてくされた。
何故だか霞にはよく懐いているので、私が何を言われてもいつもそばでにこにこしながら眺めているだけだ。喧嘩するほど仲が良いというわけではないのだが、せっかくの千代の遊び相手を私の好き嫌いで決め付ける事もできず、霞の悪態を甘んじて受けている大人の私である。
「おい霞。大変だ、肩に虫がついてるぞ」
「ひっつき虫で遊ぶなら一人でやってなさい」
「……」
ちょっとしたお茶目すら相手にしてもらえず、大人の私は拾ってきた植物の種子を無言で剥がす。たくさんもいできたものの握るととげが痛いので、そばに置いてあった籠にばらばらと放り込んでやった。
「おい霞。これは食えるのか」
「食べられるわよ」
「お、結構うま、ぶっふ!」
「でもえぐみが強くて食用には向かないらしいわ」
両手いっぱいに摘んできた赤い実を口にいれた途端吐き出して、そ知らぬ顔をしている霞を睨み付ける。探してきた手間を考えると捨てるのは勿体無いので、これも籠に放り込んだ。
他にも色々と探してきては霞霞と呼んでみるのだが、まるでなしのつぶてだ。
「そうら霞。花かんむりを作ってきてやったぞぅ。はっはっはっ、似合う似合う。霞は本当に可愛いなぁ」
「気持ち悪い」
「さ、千代にもあげよう。え? ああ、大丈夫だよ。泣いてなんかいないさ」
方向性を変えて編んでみた花かんむりをいそいそと頭に乗せてもかまってくれないので、見かねた千代が頭を撫でてくれた。私が持ってきた籠の中は団子の串と、千代が摘んだ薬草と、その他私が放り込んだいらないもので溢れかえっている。もはや自分が何をしに川原まで来たのか首を傾げそうな始末だ。
「……何やってるんだい、あんた達」
せっかく色々と集めたのだからこれでおままごとでもしようと千代を誘っていると、向こうから歩いてきた先生がしかめっ面で声をかけてきた。
すかさず、霞の素行不良を報告する私である。
「それでだな、私が何をしても全く相手にしてくれん。ひどいじゃないか。お嬢さんならもっとかまってくれるぞ」
「そうかいそうかい。要するに帰りが遅いのを心配して様子を見にくるはめになった原因は、旭が霞の邪魔をしてたからなんだね?」
「む? いや、邪魔というかだな。そもそも何で霞と遊ぶ事になったのかが分から――」
胸を張って答えようとした私の頭に、先生が拳骨をくれて。
そういえば家賃を稼ぐために働こうとしていたのだと思い出したのは、遊んで銭が儲かるわけないだろ、とくどくどと説教をされている最中だった。
「おい霞。おかわりをくれ。大盛りで頼む」
「……」
「お嬢さん、まだ怒ってるのかい?」
翌朝。
空になった茶碗を突き出していると、先生が呆れ顔で尋ねてくる。霞が乱暴によそった米を頬張りながら、それがなぁ、とただ飯を食いにやってきた理由を説明した。
「ひとまず家の手伝いでもしてお茶を濁そうと思ってな? 体で払うから許してくれと言ったきり、まるで口を聞いてくれん」
やはり三ヶ月分の家賃を手伝いごときで誤魔化そうとしたのはまずかったかと、溜め息をつきながら黄色い玉子焼きに箸を伸ばす。
「おい霞。玉子焼きが甘いぞ。私は甘くないほうが好きだ」
私が先生の家をつまみ出されたのは、それからすぐの事であった。
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