【文目】

 生き物を拾ってきたからには、それが大なり小なりどんな命であろうとも責任を持って飼わねばならぬ、というのは幼い頃から父によく言われた言葉だった。
 父は商いに忙しく、母も生まれてすぐに亡くしていた私は広い屋敷で一人暇を持て余すことも多く、寂しさ――通いのお手伝いさんはいたものの、私の遊び相手にまではなってくれなかったのだ――を紛らわせるためか何でもすぐに拾ってきてしまう癖があった。庭で捕まえた蛙から、縁日ですくった金魚、餌をねだりにくる野良猫や野良犬まで、大小様々な生き物をこっそりと持ち込んでしまうわけだ。
 子供のやることだから当然一人で飼いきれるわけがなく、結局は家の者に見つかって、その度にこっぴどく叱られた。近所にいる年老いた犬猫は大抵がうちから貰われていったもので、納屋の中に隠れて生きるよりよっぽどよかろうと今では思う。
 次第に私も落ち着いてきたのか、はたまた叱られるのには懲りたのか、大きくなるにつれて草花を愛で楽しむ喜びを知り、いかに庭を美しく造形するかに熱中するようになった。暇さえあれば土をいじり、四季折々の色合いを眺めて息をつく。他人の手を借りねば生きていけぬという歳でもなくなったのでお手伝いさんにも暇を取ってもらい、大抵の家事は上手くこなせるようになった。
 父が初めて我が家に生き物を拾ってきたのは、そんな頃だ。
「その、なんだ。すまん」
 腕組みをしながらそっぽを向いた父は、玄関先でぽかんと口を開いたままの私に短く告げた。幼い頃の私とそっくりで、拗ねているのか開き直っているのか、まるで分からない態度だった。


「ひぃ、ふぅ、みぃ……はい、ちゃんと揃ってますね」
「当たり前だ。私はやる時はやる女だからな」
「普段からしっかりしてればこうはならないんですよ」
 どうだとばかりに胸を張って答える旭さんに、私は受け取った家賃を仕舞いながらため息をついた。先日ちょっとした勘違いが原因で――いい年をした大人が現金の代わりに体で払うなどと言い出したのだ。私は悪くないと思う――少々手厳しく接したのが逆に功を奏したのか、思ったより早く溜め込まれた家賃を回収することが出来たので、夕食は何か彼女の好物を用意してあげてもいいかもしれない。
 実を言えば我が家は、旭さんの収入をあてにするほどお金に困ってはいない。贅沢さえしなければ千代を含めた家族三人と猫一匹、十分に暮らしていけるだけの蓄えはあるのだ。
 ただ、旭さんは手元にあればあるだけすぐに浪費してしまうふしがある。前にもそのせいで死にそうな目に遭ったわりにどうにも無駄遣いの悪癖が抜けきらないので、こうして家賃という名目で管理しておかなければ安心できぬ、というわけだ。
「あ、お嬢さん」
 ふきの煮物でも作ろうかしらと考えながらお茶を淹れていると、旭さんが手のひらを差し出してきたので軽くはたく。
「何ですか? お小遣いの前借りなら駄目ですよ」
「……」
「冗談ですってば」
 眉間に皺を寄せられたので誤魔化すように笑って、そばに置いていた紙箱を改めて渡した。昨夜頼まれて、物置から探しておいたものだ。
「昔使った余りですけど、端切れなんて何に使うんですか?」
「ふん、もうお嬢さんには教えてやらん。見せてもやらん」
 旭さんはすっかり拗ねてしまったのか、頬を膨らませたまま器用にお茶を啜る。もっと歳相応の落ち着いた仕草をして、その上何も喋らないでさえいれば同性の私でも惚れ惚れしてしまうほど綺麗な顔立ちをしているというのに勿体無いことだ。もっとも、そんな旭さんを私は見たことがないけれど。
 そのうち千代と一緒に部屋の隅で不貞寝をはじめてしまったので、こちらもただそれを眺めて過ごすだけというわけにもいかない。少し買い物に行ってくると千代に告げて、家を出た。
 買い物といってもお昼を済ませたばかりなので食材に用はなく、出かけた先は町のはずれにあるからくりの工房だ。どうせ旭さんが存分に迷惑をかけていただろうから、先生にお礼がてら何か買っておこうというわけである。少しばかり値は張るけども、悪戯に使えないまともな品さえ選べばそこらのまじない師よりよっぽど質の良いものが買えるのだし、こちらも損はしない。
「霞ちゃん、先生いらっしゃる?」
 店先を箒で掃いていた若い女のからくりに声をかける。
 千代といい霞ちゃんといい、先生のからくりはまるで人間と区別がつかない。型が古いらしい千代はうなじにぽつりと開いた穴でなんとか分かるものの、霞ちゃんに至ってはそれすらないのだ。随分と愛想の悪い人だなとはじめの頃は思っていたけれど、からくりと知って驚いた。
「霞ちゃん?」
「……あ」
 返事もせずに同じ場所ばかり掃き続けるのを訝しんで再度声をかける。ようやく私に気がついたのか、ぼんやりと見つめ返された。ぼんやりといっても霞ちゃんは表情を変えないので、声の調子だけで判断する。
「だからね、先生――」
「せ、先生っ?」
「ええ、先生は中に」
「あっ、そのっ、いるけど、えーと……ごめんなさいっ!」
「はい!?」
 続けて尋ねる私からじりじりと距離を取ったかと思うと顔を両手で覆いながら脱兎の如くどこかへ逃げ出してしまったので、地面を転がっていく箒と共に唖然として彼女の背中を見送った。旭さんのことで叱られこそすれ謝られる覚えはないわけで、一体全体、どういうことだろうか。
 首を傾げて工房の入り口へ向き直る。少し、嫌な予感がした。
「お、やっと来たのかい。待ってたんだよ」
「……はぁ」
 中へ入るなり明るい声で出迎えられて曖昧に微笑む。上機嫌な先生に勧められるまま店奥にある座敷に上がると、ところで、といきなりに切り出された。
「お嬢さんにね、いいものをあげようと思うんだ」
「いいもの、ですか」
 言ったものの、どうも尻の辺りが落ち着かない。旭さんは彼女を先生先生と慕って懐いているが、正直なところ私は彼女が少しだけ苦手なのだ。いい人には違いないと思うのだけれど、腹の底の知れない感じと言えばいいのか、早い話が深く考えれば考えるほどに胡散臭い。
 以前旭さんに先生はおいくつなんですかと尋ねたら、さぁ? 私と同じくらいじゃないか? という答えが返ってきたけれど、それならば千代は先生が十四、五の歳に作られたということになってしまう。才がある者なら案外出来てしまうものなのかもしれないが、若く見えるだけで歳を誤魔化しているのだと言われた方がまだ納得がいった。ひょっとするとあやかしかもしれぬと、町では評判の人なのである。
「まあ、これを見ておくれよ」
 後ろにまわした腕をすっと差し出して、私の前に何かを置く。
 薄い紙の包みを開くと、中には赤子のこぶしくらいの大きさをした栗色で丸い――
「饅頭ですか」
 いや確かに饅頭は好きだけれど、いいものという程でもない。先生が趣味で作ったのをおすそ分けしたくなったのかしらと首を傾げていると、いやいや、と美貌のまじない師は事も無げに言った。
「ただの饅頭じゃない。惚れ薬さ」
「……ただの饅頭でしょう?」
「本当だよ。老いも若きも男も女も、これさえ食わせて一目見りゃ、たちまちあなたの虜でござぁいってね。ちゃんと効き目は実証済みだよ」
 眉根を寄せる私におどけて告げると、お嬢さんだって意中の相手の一人や二人いるだろ? と付け加えられる。慌てて首を横に振った。
「い、いませんよ。大体ですね、まじないで好かれても、別にその、嬉しくないですし」
「そうかい? ま、どうせ半日も効かないんだ。きっかけにはなると思うけどね」
 言い訳がましく呟きながら包み直した饅頭を、ひょいと掴んで引っ込める。そわそわと爪先を動かす私を一瞥して、わざとらしく独りごちた。
「じゃあ、これは後で旭にでもやるとして――」
「どうしてそうなるんですか!?」
「お嬢さんはいらないんだろ? 試作を改良するための資料を取りたいんだから、知り合いに頼むしかないじゃないか」
「いりませんよ、いりませんけど、旭さんだけは駄目です!」
 ろくなことにならないのは目に見えているのに、この人は何を考えているのだろう。春に庭を台無しにした薬といい、その前の失礼にも程がある軟膏といい、自分に実害さえなければ問題はないと進んで旭さんの悪戯に加担しているではないか。似たもの同士馬が合うのはいいけれど、被害を被るのは大抵が私だというのに。
 息も荒く反論する私に、先生はおおげさに肩を落として息をついた。
「なんだ――欲しいなら欲しいと、はじめから素直に言えばいいのにさ」
 こうやってからかいの対象にされるのも、苦手な原因の一つだった。


 旭さんはもう離れに引っ込んでしまったらしく、帰宅した私は先生から押し付けられた饅頭を相手に一人にらめっこを続けていた。
 効果は半日ももたぬという。今から使ったとしてもすぐに日が暮れて寝てしまうだろうし、実際はその半分といったところだ。後日改めるには饅頭が日持ちしないだろうし、かといって朝から饅頭を食わせるというのも――
「いやいやいや」
 どうして使うつもりでいるのだ。ここはやはり、失敗作でしたよとだけ告げて、密かに処分してしまった方がいいのではないだろうか。
 そもそも、旭さんに惚れ薬を使う理由がない。断じてない。ひとかけらもない。
 頭を抱えていると、ぺたぺたと気の抜けた足音が聞こえてきたので慌てて姿勢を正してお茶を注ぐ。これなら、どう見てもくつろいでいるようにしか見えまい。まるで自分にやましいことがあるように思えてしまうけれど、興味を持たれるよりよほどましだ。
「なぁ、指に針を刺さない方法を教えてくれ。そろそろ泣きそうだ」
「……何をやってるんですか」
 私の隣に千代と揃ってあぐらをかきながら、べそをかいた情けない顔で端切れと裁縫道具を渡してくる旭さんを呆れ顔で見つめる。
 千代のために守り袋を作ろうとしたもののどうにも上手くいかないらしく、こういうのが作りたいんだが、と実演してみせようとするうちにまた刺した。心配そうにうろたえる千代を押しとどめてしばらく無言で静止してから、涙目で指を咥えるのを見かねて、針と糸を取り上げてやる。
「慣れないことをするからですよ。ほら、これくらいなら私がやってあげますから」
「おお、上手いもんだなぁ……む、うまいなこれ」
 ちくちくと針を進める私を横から覗き込んで、感心した風に言う。そのまま嬉しそうに咀嚼すると、満足そうにお茶を啜った。
 はた、と手を止める。
「――ちょっと、何食べてるんですか!?」
「ま、饅頭くらいで目くじら立てなくてもいいじゃないか。けちなお嬢さんだな」
 針を放り出して座卓を叩く私から逃げるように退いた旭さんが困った顔をするけれど、どうして一言の断りもなく人のものを食べるのだ。食事の支度を手伝わせてもすぐにつまみ食いをする彼女のことだ、子供よりも行儀が悪いのをすっかり失念してしまっていた。
 覆水なんとやらで、一度飲み込んだものを吐き出させるわけにもいかない。
 おそるおそる、確認する。
「……なんともないですか?」
「もしかして腐ってたのか? 変な味はしなかったぞ」
「腐ってはないんですけど……」
「あれだ、ほら、代わりの菓子なら今度やるから、そう怒らないでくれ」
 けろりと答える旭さんはいつも通りと言っていい。いつも通りの、傍若無人で気まぐれな、甲斐性無しで顔だけが取り得で千代にやたらと甘い旭さんである。
 失敗作、という言葉が頭を過ぎる。ひょっとすると惚れ薬というのも嘘で、先生の悪戯にまんまと引っかかってしまったのかもしれない。どうもお嬢さんは血の気が多いなぁ、などと千代に呟きながら横になる旭さんを見ていると悩んでいた自分が馬鹿らしく、頭を抱えたい気分だ。
 文句の一つも言ってやりたいが、それではますます相手の思うつぼだ。気を取り直すためにも針仕事に専念しようと、無心で糸を布に通した。
 四半刻ほど過ぎた頃だろうか。
 ふいに膝の上に重みを感じて、手を止めながら視線を落とす。
「あの、旭さん?」
 太腿に載せられた旭さんの頭に遠慮がちに問いかけた。具合の良い位置を探っているのか、落ち着きなく動かれるせいでこそばゆい。
 昼寝でもしようと寝惚けているのかもしれないが、膝枕なら千代がいるではないか。
「どうした、姉様」
「……ね、ねえさま? 誰がですか?」
「姉様は姉様だろう。変な姉様だな」
 硬直する私を不思議そうに見上げてあくびをする。寝惚けているにしては、妙だ。
 まさか薬が効いたのだろうか。即座に効果はなくとも消化をするにつれて、というのは合点がいく。さぁっと顔から血の気が引いていった。
――効き目が切れる前に夜が来てしまうではないか。
 実証済みだという先生の言葉を思い返すと、自分で試したということも考えられる。工房にいるのは先生と霞ちゃんの二人きりのはずで、加えて霞ちゃんのあの態度。
 からくり相手とはいえ、下世話な想像をしてしまうというものだ。枕を並べておやすみなさいというわけにもいかないのではないだろうか。
「そっ、そうだわ。お夕飯の支度をしないと――」
「まだ早くないか? たまにはゆっくりしても」
「ちっとも早くないです!」
 不満げな様子を無視して、わざとらしく手を打ち合わせながら立ち上がる。とにかく、旭さんから離れておかなければ。こんな形で一線を越えてしまっては、きっかけもなにも全てが台無しになってしまうではないか。
 そばで首を傾げている千代に旭さんを押し付けて、そそくさと台所に向かった。今日は手の込んだものを作るのはやめにして、早めに夕飯を済ませてしまおう。旭さんには悪いけれど、いざという時に身を守るための鍋くらいは手にしておきたい。自分から勝手に食べたのだから、自業自得というものだ。
 心を鬼にしよう。たった半日、耐えればいいだけだ。
「だから! なんで付いてくるんですか!? というか、危ないからくっつかないでくれませんか!?」
「なんでって、姉様がかまってくれないから寂しいんじゃないか」
 腰に腕をまわしてぴったりと背中にしがみついてくる旭さんを押しのけようとするものの、背丈の高い彼女と私では力負けしてしまってびくともしない。おまけに旭さんの真似をしているのか千代までそれに続いていて、親亀子亀孫亀の有様である。
 これでは炊事をすることもままならず、第一旭さんの体温が非常に心臓に悪い。甘えた声を耳元で出されるのが、これほどまでに恥ずかしいとは思わなかった。
 そうだ、こうしましょう、と苦し紛れに提案してみる。
「後で遊んであげますから、支度が終わるまではあっちで良い子にしていてくれませんか? 私はその、我が侭を言わない素直な旭さんが好きですよ?」
「むぅ」
 出来るだけ優しくたしなめるような口調で言ってやると、しぶしぶ旭さんが腕を解く。どうも今の旭さんは、いつにも増して子供じみたところがあるようだ。その分、扱いさえ気をつければ御しやすいとみえる。
「行こうか、千代。少し喉が渇いてしまったよ」
 そう落ち着いた声で話して千代の手を引く旭さんは普段と変わらず見えるのだが、
「姉様」
「は、はい?」
「さっきから気になってたんだが、旭さんなんておかしいぞ。旭でいいじゃないか」
 あなたの言動の方が、よほどおかしい。


 まじないのおかげで今ではどこの家でも簡単に火を起こし、湯も沸かせるようになったけれど、手間がかからないというのはつまり、他にまわす時間が余計に増えてしまうということだ。
「あれだなぁ。やはり、まだ早かったんじゃないか?」
「……そうですねぇ」
 まだ日も暮れないうちから支度を済ませてしまって、湯気のあがる膳を前に肩を落とす。向かいの旭さんもあまり食欲は湧かないようで、困りあぐねたように箸を振った。
 とはいえ、せっかく作ったものを冷めるまで放っておくわけにもいかない。無理にでも口を動かしていると、なぁ、と旭さんが声をかけてきた。
「このままじゃ嫌だ。むしってくれ」
「……」
 焼き魚の載った皿をずいと差し出されて黙り込む。いつもなら魚くらい一人で綺麗に食べられるではないか。
 しかしこうなった原因は私にもあるので、要望通り骨から身を剥がしてほぐしてやる。惚れ薬の効能が、私が思っていたのとは随分違う気がした。もちろん思っていたのと同じでも困るのだけれど、これではなんというか、独身のうちから我が侭で甘えん坊の子供を育てているようなものだ。身の危険はないとしても非常に複雑な心持である。
「千代? どうしたんだい?」
 ちょこんと座っていたはずの千代が、しきりと旭さんの袖を引く。
 私が手にした皿と自らを交互に指差しながら懸命に何かを伝えようとして、ぷいとそっぽを向いてしまった。千代のそんな態度を見るのは初めてなので、旭さんが目を白黒させる。
「な、なんだ? 魚が食べたいのか? しかしね千代、お前は――ああっ、こら、どうして怒るんだ、可愛い顔が台無しだぞ。いや、怒っている千代も可愛いが私としては」
「拗ねてるんじゃないですか?」
「は?」
 おろおろとわけのわからないことを口走る旭さんにぽつりと言った。助けを求める視線を受けて、続けてやる。
「だって旭さ――旭の世話を焼くのは千代の役目じゃないですか。急に仕事を取られるのは誰だって面白くないでしょう」
「ぬ……姉様にはかまってほしいが、千代にも嫌われたくないぞ」
 千代に対する気持ちに変化はないようで、苦い顔で呻く。全く、気の多い人だ。
 残りの膳をさっさと平らげた旭さんは千代のご機嫌取りのために風呂へ向かい――背中を流してもらうことにしたようだ――、姉様も一緒に、という誘いを無視した私は後片付けをはじめた。食器を洗いながら静かに息を吐く。
 人の繋がりというのはそれぞれに役割があって、お互いに上手く釣り合いを取ってこそ成り立つものだ。自由気ままに笑っている旭さんがいて、その笑顔を曇らせないために千代がいる。私は時折、二人がはめを外しすぎないようにと手綱を引くだけでいい。べたべたと纏わり付かれてしまっては、手元が狂って調子が出ないのだ。
――ひょんなことから出来た家族とはいえ、急に造りを変えたいとは思わない。
 続けて風呂を貰い、寝るには随分早いけれどと部屋を引き払おうとした私の手を旭さんがぐいと掴む。じっと見つめられて、あっさりと根負けした。
「……旭も一緒に寝る?」
「いいのか!?」
 やはり顔だけが取り得の人なので、輝かんばかりの笑顔にたじろいでしまう。私がこんな態度ではいけないと思いつつも、今の旭さんを見ているとひたすらに甘やかしてしまいたい衝動にかられてしまうのだ。
 咳払いをして付け加える。
「その、ええと、寝るだけよ?」
「他に何かあるのか?」
「ないわよ!」
 赤くなった顔を俯かせたまま、旭さんの手を引いて離れに入る。千代は千代でまだ私に対抗心を燃やしているのか、私がやるよりも早く寝床を整えてしまった。
 何か面白い話をしてくれとねだる旭さん相手にそういう気が起きるわけもなく、家族三人川の字になって昔話なぞを聞かせていると一気に歳を取った気分だ。おまけに感想を聞くと、姉様はお話がへただなと笑われてしまう始末である。
「……大体何よ。姉様姉様って、名前で呼んでくれてもいいじゃない」
「名前?」
 惚れ薬の効果として一番気に食わないのはそこだ。私は別に、姉妹遊びがしたいなどとは望んでいないのである。
 こっそりと毒づいた言葉を聞いていたのか、旭さんがおうむ返しに呟いた。
「……姉様の名前?」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。まさか旭さん、覚えてないんですか!?」
「何言ってるんだ。私の姉様の名前は――」
 跳ねるように起き上がって肩を揺する私にむにゃむにゃと答えると、かくりと旭さんの体から力が抜ける。一文字もかすっていない名を残したまま、眠ってしまった。
「……」
 泣いてしまいたい。
 どうせ私はお嬢さんなのだ。これから先、一生そうとしか呼ばれないのだ。
 幸せそうな寝息を立てる旭さんの隣で枕を濡らしていじけていると、千代が布団をかけ直しに起きてくれた。その優しさが身に染み――
「う」
 何の前触れもなく背中の上に重みがかかる。布団を直す途中で、千代の香が切れたのだ。助けを求めようとも旭さんはまるで起きない。動かぬ千代も、当然起きない。
 結局私は、一晩中うなされながら長い夜を過ごすことと相成った。


「……なんでお嬢さんがいるんだ? 甘えんぼさんか?」
 なんとか千代の下から抜け出したものの、全身疲労困憊のまま動けずにいた私をまじまじと眺めて、旭さんがのんきにあくびをした。彼女にだけは、死んでも言われたくない言葉だ。
 千代を膝に乗せて香を焚きながら、そういえばな、と顔をしかめる。
「久しぶりに姉様――いや、姉の夢を見たんだ。やけに怒りっぽい性格になっててなぁ、全くたまったもんじゃ……いかん、なんだか千代まで姉に見えてきたぞ」
 幻覚を追い払うようにかぶりを振った旭さんは、大体いつの間に寝てしまったのかも覚えていないと言う。記憶がないだけ、ありがたいと思うべきだろうか。
 考えてみるに、昨日の旭さんは薬の効果か、私を彼女の姉と重ねていたのかもしれない。あそこまで慕っている姉がいるなど初めて知ったし、姉様なんて呼んでいる柄には見えないのだけれど。
「あの、旭さん」
「ん?」
「……私の名前、覚えてます?」
 ごくりと喉を鳴らして、意を決して尋ねてみる。汗ばむ手のひらを握り締める私に旭さんは首を捻って、
「あやめだろう? 変なお嬢さんだな」
――すんなりと答えた。
 それだけ聞ければ十分である。昨日何があったのかを彼女が気にするよりも先に、そそくさと離れを逃げ出して母屋に戻った。
 自然と足取りも軽く、庭に水を撒くために勢い良く障子を開ける。
「おや、ご機嫌だねぇ」
 不審者を見つけてすぐに閉めた。
「こらこら、せっかく心配して来てやったのに締め出すこたないだろ」
 誰だって庭先に他人が忍び込んでいたら警戒するだろうに。焦りながら縁側に上がる先生を半眼で見下ろしていると、いやね、と困ったように頭を掻いた。
「昨日やったあれだけど、自分で試した時は問題なかったんだよ。一晩中霞の出来について、よくぞここまでのことをやってのけたってな具合に褒めちぎってたみたいでね。惚れるというか、相手が自分にとって一番尊敬する人物に見えるわけさ」
「……へぇ。先生には霞ちゃんが大好きなご自身に見えたと」
「自分に自信がなきゃ腕は上がらないよ」
 せいぜい嫌味っぽく言ってやったものの、実際うちの霞はどこに出しても恥ずかしくない自慢の子だしねとさらりと返される。霞ちゃんの様子がおかしかったのは、面と向かって一晩も褒められたのを照れていたせいだろうか。
 しかしまあ、なるほど考えていた通りだ。尊敬する相手にならまさか手を出したりはしないだろうし、悪戯に使ったとしても危険な目に遭うことはないだろうと踏んで渡してきたに違いない。
 すっかり呆れてしまった私に笑って続けた。
「ただ心配した理由がね、さっき猫に使ってみたらどう間違えたのか交尾を」
 最後まで聞くまいと再び障子を閉める。
 しばらく先生の店では何も買わないことに決めて、私は水の代わりに庭へ撒くための塩を取りにその場を離れた。犬猫と同列に扱ってくるような友達と遊ぶんじゃありませんと、後で旭さんをきつく叱っておかなければ。
 もっともあまり私もえらそうに言える立場ではないが――父が拾ってきたからには、責任を持って家族を守るのが、私の役割というものだろう。


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