【猫が胡桃を回すよう】
大した必要性もないのに売り場の雰囲気に流されてつい買ってしまったスケジュール帳の使い道を考えていて、一週間ほど悩んだ末に如月千佳夫(仮名)妄想手帳にする事に決めた。
如月というのは黒いセルフレームの眼鏡が似合うインテリクラス委員長様で、無論私と付き合っているわけでもなんでもなく、下の名前で呼んだ事すらない一方的な片思いなのだけれど、妄想ならいいだろうという恥ずかしさ極まりない思考によって脳内ではラブラブである。この手帳は来年私が千佳夫と過ごしてみたい予定を欲望の赴くままに書き連ね、挨拶すらろくにできない現実から限りなく目を逸らした一言日記を残し、誰かに見られたら死のうと固く心に誓っている、いわば青春の黒歴史ノートなわけである。
来年はまず千佳夫と二人きりで初詣に行って(日記によると、寒くない? などと耳元で囁きながらコートを貸してくれるらしい)休日はほぼ毎日のようにデートをして(街へ出かけるよりは自宅でいちゃいちゃするのが好みのようだ)バレンタインには手作りのチョコを送り(その後はじめてのエッチに突入するらしいが日記に書くなよと思う)春には当然のようにまた同じクラスになり(学校側が決める事でも予定に組み込めるのが妄想の良いところだ)夏には海へ山へ出かけ放題で(宿題は千佳夫が手取り足取り教えてくれるので気にしない)秋には小さな喧嘩からすれ違いになり(相手が泣きながら謝ってくる予定になっている)最終的にはクリスマスに結婚の約束をする(我ながら話が吹っ飛びすぎだとは自覚している)、夢のような日々が詰まっている。
「これ、桑野さんのでしょ?」
「……違いマス」
その手帳を如月千佳子に差し出されて、さっきから私の背中は嫌な汗をかきっぱなしだ。常日頃肌身離さず持っていたはずの手帳をうっかり落としてしまった事に気付かなかった私も私なのだけれど、まさかよりにもよって本人に拾われるとは思ってもみなかったのだ。
班ごとに割り振られた教室掃除も終わり、部活へ帰路へと出て行く生徒に混じりながら、さて帰ってこたつでみかんでも食べて夕方6時の地元ニュースでも見ましょうかと教室を出ようとしたところを如月さんに呼び止められた時は正直淡い期待で胸をはずませたものだが、ひょいと目の前に飛び出してきた見慣れた表紙を見た瞬間にそんな甘っちょろい事を考えている場合じゃないと心臓が止まりかけた。
顔面蒼白になって視線を泳がせる私を如月さんは眉間に皺を寄せながらじっと見つめていて、
「違わないじゃん。今あんたが落としたのを拾ったんだから」
意味の分からない嘘をつくなとばかりに手帳を押し付けてくる。
という事は、私が手帳を落としたのはつい数分前の事で、掃除をしている最中だったというわけだ。落とした人間が分かっているから彼女は私を呼び止めたのだし、ただの親切で渡してくれようとしただけであって、この変態と糾弾するためではなかったわけだ。
「あ、今落としたんだ? 中見てないよね? 別に何にも気になるような事は書いてないしね? じゃ、私はこれで――」
授業中は鈍い頭をフル回転させて結論付けると、ほっと胸を撫で下ろして手帳を受け取る。くるりと踵を返してさりげなく別れようとした私の腕をがしりと掴んで、話はまだ終わってないとばかりに如月さんが続けた。
「中は見たけど」
「やっぱり私の手帳じゃないみたいです見間違いでした関係ないんです」
「逃げたら言いふらすわよ」
早口で捲くし立てて振り切ろうとしても、意外と強い握力と冷たい言葉の迫力に一瞬で肩から力が抜ける。ちょっとそこに座りなさいと床を指差されて、背中どころか体中から嫌な汗が出てきそうだ。
わざわざ教室の鍵を閉めにかかった彼女は、私の手に握られた手帳を一瞥して呆れ顔で溜め息をつく。
「何なの、それ?」
「……こうだったらいいのにな妄想スケジュールです。趣味で書いてます」
「千佳夫って誰?」
「……仮名です。そのままの名前だとあんまり変態くさいなと思いまして」
「私の事なわけ?」
「……ノーコメントで。足がしびれてきそうなのでそろそろ帰りたいです」
とりあえず顔を背けながら事務的に答えてみると、彼女がイライラと爪先で床を叩いているのが視界の端に映る。真面目に答えろというのは無理な相談というもので、ちゃらけた態度でも取っておかないと本気で泣いてしまいそうなので勘弁してほしい。
大体、あれを見て引いたなら引いたでそっと距離をとって関わらないようにするのが人情ではないだろうか。わざわざ二人きりで問いただされても、こちらとしては恥ずかしいやら辛いやらでろくな考えが浮かんでこない。私は普段からあまり真面目な方ではないが、だからこそ生真面目で正義感の塊のような如月さんに抱いた恋心を打ち明ける事もなく、自己完結の世界に明け暮れていたというのに。
「はぁ……」
また、一際大きい溜め息。
「あれなの? 悪質な嫌がらせってやつ?」
「嫌がらせであんなの書くほど性格ねじくれてないです……」
刺すように降り注ぐ視線に耐えかねて、しょぼしょぼと俯く。
秋の日は暮れるのが早い。膝から下が直に触れる床は冷たく、窓の外では真っ赤な夕日が燃えている。好きな人に嫌がらせをする女と勘違いされた私の心は、落ち葉のごとく枯れきってしまいそうだ。
背中を丸める私を如月さんは相変わらずじっと見つめていて、手のひらの中で手帳の表紙がくしゃくしゃに歪んだ。
「……如月さん、怒ってる?」
恐る恐る尋ねて見ると、彼女は難しい顔をしたまま首を横に振った。
「意味が分からないだけ。理由言ってくれないと怒れないじゃん」
「でも、怒られそうだから言いたくないし」
「言わないともっと怒るよ。私、はっきりしない人って嫌いなの」
「うう……」
結局、どちらにしろ怒られるんじゃないか。
放課後、密室、二人きり。交わされる言葉の内容は、説教というわけだ。下唇を軽く噛んで、だからぁ、と小さな声で呟いてみる。
「さっきも言ったでしょ。こうだったらいいなーと思って、それで一人で妄想して喜んでたっていうか……書いてたのはきもいけど、でも、私しか見てなかったわけだし……ていうか、如月さんに見られるなんて思ってなかったし……」
「ちゃんと喋ってくれないと聞こえない」
人が勇気を出して答えているのに、ぴしゃりと言い捨てられてかちんとくる。
千佳夫はもっと優しかったはずなのに、千佳子ときたらどうだ。遠目に眺めるだけできちんと話せた事はろくになかったからと性格を美化していたのは私だし、いつも積極的にクラスをまとめて男子にも女子にも間違った事は隔たりなく注意できて格好いいなぁだとか、そういえば教室にある花瓶の水をいつも取り替えてるのは彼女なんだなぁだとか、覚えてないだろうけど私が風邪で休んだ次の日にノートを貸してくれて嬉しかったなぁだとか、如月さんの顔を見てたらなんだかどきどきするなぁだとか、勝手に好きになっていったのも私だけれど、これでは単にうるさ型なだけではないか。
「――だから!」
文句があるなら言ってみろとばかりに手帳を床に叩きつけて、苛立ちのままに続けてみる。
「如月さんが好きだから手帳にきもい妄想書いて喜んでました! ほら、ちゃんと答えたもん! 帰る!」
「ちょっ、桑野さん声大きい……」
「だってさっきは聞こえないって言ったでしょ!? 私だってこんなの言いたくなかったけど、言えっていうから言ったんだし! 大体いちいち聞かなくたって察して欲しいっていうか、空気読んでよ! 人に正座までさせといてどれだけ上から目線でっひうあ」
いわゆる逆切れというのを自覚しつつも、怒鳴りながら勢いよく立ち上がろうとして前につんのめる。正座なんて滅多にした事がない私の足はもうぴりぴりで、生まれたての小鹿のように弱々しく四つんばいになる事しか出来なくなってしまった。
少しでも動いたら再起不能になりそうで、無言で崩れたままの姿勢を維持する。
「……で? 空気の読めない私はどんなリアクションをとればいいの?」
「自分調子にのってまシタ……そのまま動かないでくだサイ……」
しびれた足に向けられた如月さんの爪先を腕の間から逆さまに眺めて、さっきとは別の種類の嫌な汗をかきながら頭を下げる。上から聞こえてくる溜め息に、恥ずかしいやら辛いやら悔しいやらでどうしようもない。
顔は見えないけれど、怒ってるだろうなぁ、と思う。
「そんなに私の事好きだったわけ?」
「は? ……まあ、すき、だけど」
今更そんな事を聞くのかとぽかんと口を開いて、一応答えた。想像の千佳夫と違って、現実の千佳子は一体何を考えているのか見当もつかない。
「私、桑野さんとあんまり話した事ないし、女なんだけど」
「でも片思いって大抵そんな感じだし、今まで女の子好きになったことないけど好きだし……」
「付き合いたいとかキスしたいとかエッチしたいって思うの? 千佳夫として?」
「いや、まあ、千佳子としてですけど……直球で聞かれてもなんか……」
「ふぅん」
「……」
逃げ出したいなぁ、とぼんやり足の指を動かした。まだぴりぴりとして、如月さんに黙って眺められていると思うと居たたまれない。
高校生になるまで生まれて一度もした事がなかった告白を尋問されながらするというのも滅多にない体験だが、私としてはもっとロマンチックでドラマチックな方がよかった。せめて、二本足で立っていたかった。
んー、と頭上で如月さんが呻く。
「――いいよ、付き合っても。桑野さん結構好みだし、見てて面白そうだから」
「はい?」
「返事ははっきりして」
「うひゃん!?」
さらりと言われた台詞にまぬけな声を返すと、ちょんと足を突かれて悶え転がる。教室の床に寝そべって、はっきりとした返事どころか声にならない悲鳴をあげている私のそばにしゃがみ込むと、如月さんはにっこりと微笑んだ。
「私そんなに優しくないけど、いい?」
「は、話がうまくのみこめない」
「とりあえず立てば? スカート短いから捲れてるよ」
伸ばされた手を握って、しびれた足を懸命に起こす。ひーひー言いながらそばにあった机にもたれて体を支えると、私はやっぱりまぬけな顔で彼女を見つめた。
「ごめんごめん。中学の時にちょっとあったからさ、警戒しちゃった」
「いや、だから何が……」
「知らないならいいよ。付き合うんだし、一緒に帰ろ」
もう一度差し出された手を遠慮がちに握る。如月さんは投げっぱなしの手帳を拾ってから教室の鍵を開いて、それからいまだに混乱している私と手を繋いだまま上機嫌に歩いた。
整った横顔が沈んでいく夕日に照らされて、綺麗だ。
「さすがに、スケジュール通りに行動するのは無理かな。私ネコだし」
「あ、うん、猫っぽいよね。つり目だし」
手帳についてこれ以上いじられてはたまらないので、話を逸らそうと頷くときょとんとまばたきをされた。何か変な事を言っただろうかと首を傾げると、にまにまと意地悪そうな笑みを返される。行動が気まぐれで読めないあたり、やはり猫っぽいと思うのだけれど。
――今日分かった事は。
私の隣りを歩く如月千佳子は、鞄の中にいる如月千佳夫と比べるとあまり優しくない。
外に出た途端に寒いとだけ呟いて私のマフラーを取り上げたし、曇るからと駅まで乗るバスであっさり眼鏡を外してしまう。残念がる私を見て、フェチなの? などとからかい始める。
それでも人ごみの中でふざけたふりをしながら頬にキスをされた時は頭が沸騰しそうになって、やっぱり、惚れた方の負けなんだと思った。
私の彼女は手帳と違って、猫っぽい。
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