【猫が鼠を狙うよう】
人生何事も、万事予定通りというわけにはいかない。
これはつい先月身に染みて分かった事なのだけれど、それでもある程度の目安というか、この場合はこうする、こう返ってくればこう返す、といったシミュレーションを頭の中でつい組み立ててしまうのが人間というものじゃないだろうか。
かくいう私も行動より先に思考の方を何歩も進めてしまうタイプで、結果的にはまあ、実際に足を踏み出したその場ですっ転んでしまう場合が多い。これは自分の予測した方向が現実から限りなくズレた位置に着地して暴走してしまうからだという事も、身に染みて分かっている。
分かっては、いる。
「駄目。やる気あるの?」
「……ありまひゅ」
それでも治らないから厄介なんだよなと考えつつ、眉間に皺を寄せながらこちらの頬をつねってくる彼女に情けなく答えた。
彼女の名前は如月千佳子という。黒いセルフレームの眼鏡が似合うインテリクラス委員長様で、下の名前で呼んだ事すらない一方的な片思いだったはずが、ひょんなことから気持ちが伝わりお付き合いを始めて一ヶ月。迫りくる定期考査に向けて日々絶望感を募らせていく私を憂えた彼女が、なんと自宅で勉強を見てくれると言い出したのが昨日の話だ。
緊張のあまり寝付けなかったわりには余裕を持ってセットしたはずの目覚ましよりも1時間近く早く起きてお風呂に入り、いつもより何倍も丁寧に身支度を整えてからお気に入りの洋服に袖を通し、指定された時間のバスにゆらりゆられていた私の心は有頂天になっていて、思えばあれが失敗の元だったのかもしれない。
バス停で待っていた如月さんに例のごとくマフラーを取り上げられても頬がにやけるばかりで、初めて恋人の家にお邪魔するというシチュエーションに舞い上がった私は当初の目的をすっかり忘れてしまっていた。
駅で買ってきた手土産のクッキーを渡してから郊外にある真新しい一軒家の玄関をくぐり、ご両親は出かけていると聞いて心拍数が急上し、大きくてふさふさとしたゴールデンレトリバーを思うさま触らせて貰って、待ちに待った彼女の部屋へと通される。
中央にこたつがでんと置かれている事を除けば、如月さんの部屋は意外なほど可愛らしかった。ピンク色が好きなんだなぁとか、ぬいぐるみ集めてるのかなぁとか、なんでこんなに良い匂いがするのかなぁとか、如月さんは私服姿も凛としててかっこいいなぁとか、一度舞い上がった心はどこまでもどこまでも飛んでいってしまう。
斜め向かいへ座っている彼女の顔にじっと見惚れて、15年間生きてきて一度も口にした事のなかった台詞を、勇気を振り絞って言った。
「……きっ」
「き?」
「き、キスしていい?」
「駄目。やる気あるの?」
「……ありまひゅ」
情けなく答える。
きっぱりと拒否した如月さんは、これが終わるまで無駄話は禁止ね、と事務的な口調で言いながらずらずらと私の目の前にプリントと問題集を並べていく。思わず泣きそうになった私の顔を冷たい目で睨んで、溜め息をついた。
「桑野さん、うちに勉強しに来たんでしょ?」
文句があるなら帰れとばかりに赤ペンのお尻でプリントを叩かれ、何も反論出来ない私はしょんぼりと肩を落として筆箱を取り出した。
こんなのって、あんまりだ。
だって付き合って一ヶ月の恋人同士が密室に二人きりで、ちょっとくらい甘い期待を抱くのも仕方がないわけで、手は繋いでくれるけどちゅーはほっぺに1回されたきりだもんな、そういうのってどんなタイミングで言えばいいのかな、なんてこの頃の私はずっと考えてしまっていたのに、よりにもよって駄目の一言で拒絶されるとは思ってもみなかった。
昨日寝る前に立てたシミュレーションだと、まず私が一番苦手な数学を如月さんはすらすらと分かりやすく教えてくれる。猫みたいに気まぐれな人だから学校では振り回されてばかりだけれど、自宅でくつろいでいるという安心感からかいつもより甘えん坊で、一生懸命勉強する私の肩にもたれてきたり、ノートに落書きをしたりして悪戯するわけだ。可愛い。本当に可愛い。でもって少し休憩する事になって一緒に仲良くお昼ご飯を食べて、また勉強をするんだけれどすぐにはそんな気になれなくて、楽しくお喋りをしているうちに如月さんがじっと私を見つめてきて頬を染めながら近付いてくる唇に心臓がドキドキして私も目を瞑って如月さんに身を任せてそんでもってそんでもってこう――
「――ちょっと。ちゃんと集中してよ」
「はひっ!」
呆れた声で言われて、めくりめく夢の世界に突入していた私は慌てて背筋を正した。
いけない、悪い癖だ。分かっていても治らない、妄想癖というやつだ。このままではせっかくのチャンスも強制帰宅で終了してしまうと雑念を振り払い、改めて目の前の数字の羅列へと思考を切り替える。
「……あの、如月さん」
「何?」
「ぜ、ぜんぜんわかんない。もっと簡単なやつないかな……」
自分のノートを読み返していた彼女を涙目で見上げながら、おずおずと問いかけた。
何故こうも現実の彼女は私に厳しいのだろう。数字が並んでいるのは理解出来るが、それの意味するところが全く理解できない。ろくに授業も聞かずにぼんやり夢想に耽っていた私も悪いが、出来ないと知っている人間にいきなりこれを解けと強要する教え方はいかがなものだろうか。勉強をみてくれると聞いていたのに、文字通りみているだけだ。
如月さんは全く動き出す気配のない私の手元を一瞥して、
「……」
「……うう」
何も答えてくれないまま、ぷいと横を向く。
氷のような意思表示に涙腺が決壊しそうになるのを堪えて、私は呻きながら教科書に手を伸ばした。出題範囲に該当するページを1からめくりながら、独り黙々と数式と格闘する。こんなの、わざわざ如月さんの家でしなくたって自分の家でやるのと同じじゃん、と思いつつ。
――やっぱり、如月さんは私の事がそんなに好きじゃないんだろうか。
付き合うきっかけだって事故のようなものだったし、お互いの事もまだ全然知らない。一緒に帰りはするけれど、お弁当は別々のグループで食べる。好みだと言われた事はあるけれど、好きだと言われた事はない。キスだって、駄目。
じゃあなんで私達って付き合ってるんだろう。
これもただの気まぐれなら、如月さんが飽きた時、私は一体どうなるんだろう。
土曜日も日曜日も、お正月もバレンタインもそれからずっとずっと先の未来も、片思いしていた頃はあんなに考えるのが楽しかったはずなのに、なんで、今はこんなに悲しくなるんだろう。
「手。止まってる」
「ん」
顔を伏せたまま、いつの間にか固く握り締めていた指を緩めた。
インクのにじんだノートを見つめて、声だけ、聞く。
「ねぇ、何で泣いてんの?」
「……言いたく、ない」
「桑野さん、泣くほど勉強嫌いなんだ」
「ちが、うもん」
どうせ、如月さんには分からない。さっき無視をされた時、私がどれだけ寂しかったかも。キスがしたいと言った時、私がどれだけ緊張したのかも。家に誘って貰えた時、私がどれだけ嬉しかったのかも。
毎日私が、どんな気持ちでいるのかも。
「あのさ。はっきりしない人、嫌いだって言ってるよね?」
全部自分から説明させないと、分かろうとしない癖に。
「きらい、で、いい」
「……ふぅん」
ぼろぼろと涙を零しながら肺の中の空気を絞り出しても彼女は無感動に呟いただけで、余計胸が苦しくなる。
初めはほんのちっぽけな疑問だったはずなのに、一度膨れ上がってしまうと後はもう、止まらなくなった。収まりきらない言葉が、嗚咽と一緒に口から漏れてしまう。
心のどこかで、少しは気にかけてくれるんじゃないかと期待していた私がばかだったんだと思った。私達が付き合ってる意味なんか、ないんだと思った。
やっぱり、如月さんは。
「――さいしょから、私のこと好きじゃないって知ってるもん。ずっとずっと、わたしだけが、好きだっただけだもん。も、こんなのやだ。いっしょにいても、ぜんぜん、うまくいかないし、きさらぎさん、すぐ、怒るし、わがまま、だし。前の方が、たのしかった」
「そっちだって、別に私が好きなわけじゃないじゃん」
「っわたしは、ちゃんと、好きだもん」
「ちゃんと?」
目を擦っていた左腕を強く掴まれて、痛みに顔をしかめる。
知らなかったと毒づいてから、彼女は軽蔑するように鼻で笑った。
「人を勝手に美化しておいて、理想と違うからって怒るのがちゃんとした好きなんだ。それって、すごい傲慢だよね。私の事何も知らない相手から文句ばっかり言われてもさ。我が儘なのは、私じゃなくて桑野さんの方でしょ?」
「ちがっ……」
違う、だって、知りたくても教えてくれないから。
言い終えるより先に、如月さんが私の腕を引いた。熱でも測るような格好で無理やり額を押しつけてきて、整わない呼吸が彼女の唇にぶつかっていく。
私を蔑む声だけが、鼓膜に刺さった。
「お望みなら、このままキスでもなんでもしてあげるけど。上手いよ、私」
「――っ!」
弾かれたように身体を離した瞬間、右手の爪に嫌な感触が残る。思わず振り上げた手のひらが勢いよく滑って、指先が彼女の頬を強く引いたからだ。
興奮で真っ白になった頭の中に、赤く滲んだ4つのラインがじくじくと沁み込んでくる。自分が何をしたのか理解できずに動けなくなった私を静かに見つめたまま、如月さんはゆっくりと傷口に触れた。
「あー……結構痛いね、これ」
拭った液体を舌で舐め取ってから、困ったように笑う。
「ご……ごめん、なさい。そんな、つもりじゃ」
「私さ」
震えた声で謝る私に、あっけらかんと続けた。
「ちょっと異常かもしれないけど、私の事好きな人が好きなんだよね。顔の好みくらいあるけど、私が何やっても盲目的に愛してくれる人じゃないと駄目なわけ。だから、どこまで許してくれるか試しちゃう」
馬鹿じゃないんだから、はっきり聞かなくても桑野さんが怒る理由くらい分かるよ、と言う。わざとこんな真似をして、相手に好かれるとは思っていない、とも。
私はまだ、如月さんの事を全然知らなくて。
ただ、黙ってじっと話を聞いた。
「桑野さんが落とした手帳読んだ時、警戒したって言ったの覚えてる?」
「……うん」
「私、中学ですごく好きな女の人と付き合っててね。嫌われたくないからずっと猫被ってたし、結構無理して色んな事やったの。でもまあ、相手は面白半分だったからすぐ捨てられちゃったし、学校でも噂になってあれこれ言われて、引っ越しついでに逃げて終わり。だから、桑野さんに好きって言われてもあんまり本気にしてなかった。それだけの話だよ」
感情的になるわけでもなく、あくまで淡々と説明してから如月さんは眼鏡を外した。それを涙でぐしゃぐしゃになった私の顔に、ひょいとかける。
度が強いレンズはあっという間に視界を歪ませてしまって、目の前にいる彼女がろくに見えなくなった。
「私が好きなら、キスさせてあげる」
整った顔も、長い睫毛も、薄茶色い瞳の色も、今まで好きだった如月さんの外見はろくに分からないのに、今見えているのは理想と全く違う、泣くほど嫌いになったはずの如月千佳子だけなのに、そっと握られた手を離す事が出来ずに握り返した。
――好きだと、伝えてはくれないけれど。
私の彼女は、私を愛して下さい、と耳元で囁く。
初めて貰えた、彼女の、愛の言葉だった。
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