【恋のかけひき】

 怖いものを素直に怖いと言えるのは可愛い女の子だけなんじゃないかな、と時々思う。
 高いところが苦手。暗いところが苦手。ジェットコースターには乗れないし、おばけは怖くて泣いてしまいそう。
 これを告白するといつも冗談でしょと笑われて、信じて貰えた事がない。背が高いのも女の子らしい格好が似合わないのも目付きが悪いのも、全部私のせいではないのに、イメージじゃないと決めつけられる。
 結果、何度も嫌われた。
 私は言ったはずなのだ。確かにどうしても嫌だとは断りきれなかったけれど、苦手なものはきちんと教えたはずなのだ。
 それを無理やり付き合わせておいて、デート中に泣き出してしまった私にこんなに情けない人だとは思わなかったと怒って吐き捨てた可愛い女の子達は、今でも私のトラウマで。
 饅頭くらいしか、怖いと言えない。
「大槻さん。どうかしましたか」
「……いえ、別に。何でもないです」
 急にこんな事を思い出したのは、春日先輩が差し出してきた二枚のチケットが原因だった。バイトの休憩中、店の外で一人煙草を吸っていたところに先輩がやってきて、友人に映画の前売り券を貰ったのですが期限が明日までなので一緒に行きませんか、とそんなお誘いを受けたわけだ。
 先に、春日先輩について説明しておく事にする。
 大学生となって地元を離れた私は心機一転周囲のイメージ通りの自分になってやろうと決心していて、苦手なコーヒーも飲めるようになるため美味いと評判の喫茶店に通い詰めた。淡々と注文を取る、無愛想だが美人のウェイトレスに一目惚れした。後日アルバイト募集の広告を見つけ、お近づきになりたいという不純な動機でキッチン補助のバイトを始めた。同じ大学に通っている一つ上の先輩だと知った事と、ミルクと砂糖一つずつでもコーヒーを飲めるようになった事以外は特に進展もなく3ヶ月が経ち、今に至る。それが春日先輩だ。
 メールアドレスすら交換出来ていない私にとっては願ってもないお誘いで、例え先輩にその気は全くなく、ただチケットを使いあぐねた気まぐれだとしても断る理由がない。二つ返事で首を縦に振ろうとしたところで、気が付いてしまった。
 彼女が手にしたタイトルが、テレビのコマーシャルを見ただけで卒倒しそうになったぐちゃぐちゃのスプラッタホラーと同じだという事に。
「あ、あの、これ、最近よく話題になってるやつですよね。か、春日先輩、ホラー好きなんですか?」
「あまり見ませんが、頂き物なのでこれしかないんです」
「そ、そぉなんですか」
 震える声を押し隠そうと尋ねると、相変わらず淡々と先輩が答える。動揺のあまり煙草を上下逆にくわえてしまい、フィルター側に火をつけそうになった私を見て、僅かに首を傾げた。
「……ひょっとして苦手ですか?」
「いいいえ、全然、大好きです。行きます。あ、ほら、待ち合わせどうしますか? 映画館があるモールって電車だとちょっと離れてますよね? バスにします?」
「大丈夫です」
 せっかく出来たチャンスだけはふいにすまいと必死に話を逸らすと、先輩が誇らしげに胸を張る。
 表情の変化は分かりづらい彼女だけれど、制服のエプロンに包まれたたわわな膨らみがぽよんと揺れた。
「免許を取りましたので、中古ですが車があります」


「ちがっ、先輩ここ追い越し禁止です! 信号黄色! バス! バスが前にいますから!」
「……赤はふかせ、黄色は抜けろ、緑は飛ばせと姉が」
「ぜ、絶対やめて下さい!」
 困り顔でハンドルを握る先輩に、助手席のシートベルトにしがみつきながら叫ぶ。
 約束のお昼過ぎ。
 バイト先の駐車場――分かりやすいからと待ち合わせ場所に指定された――に現れた先輩を見た時から、何となく嫌な予感はしていたのだ。中古車とはいえ、やけにへこみや傷が目立つんじゃないかと。先輩、車庫入れ角度が斜めすぎやしませんかと。
 気のせいだろうと流してしまったのは、たぶん寝不足で頭が働いていなかったせいだ。さすがに泣くのはまずいだろうし少しは慣れておくべきだとバイト帰りに軽めのホラー映画を借りてきたものの、怖くて怖くて一睡も出来なかった。食欲もなくて、冷蔵庫にあったミネラルウォーターを飲んできただけだ。
 加えて、先輩の荒々しい運転と小刻みに揺れる座席のシート。何か口にしていたら、危うく戻してしまうところだったかもしれない。
「着きました」
「……はい」
 天国にですか? なんて軽口を叩く気にもなれず、よろよろと車を降りた。いくら大好きな先輩と二人きりでも、帰りもこれに乗るのかと思うと気が滅入る。
 平日とはいえ、ショッピングモールはそれなりに混んでいた。エレベーターで一緒になった小さな子どもは、なんとかレンジャーかっこよかったねー、などと興奮してはしゃいでいたし、擦れ違ったカップルは泣けると話題の純愛映画を見たらしく、腕を組んでいちゃついている。
 元々無口な先輩と憔悴しきった私は、黙々と並んで歩くだけだ。正直、私もスプラッタなんかよりそっちがよかった。
「大槻さん、何か飲みますか。奢ります」
「いや……いいです」
「そうですか」
 チケット売り場の隣にある売店を指差す先輩に力無く笑う。今さら帰りたいと言い出したら嫌われるだろうなぁと思うと、胃がキリキリと痛んだ。
 席に座りながら落ち着いて考えてみる。映画の長さは、せいぜい90分程度だろうか。せめて場内をもう少し明るくしてくれれば、スクリーンがぼやけて耐えられるかもしれない。それが無理でも、眼鏡を外せば直視しないで済む。元から眼鏡はかけていないし、私の視力は両目で1.5あるけれど。
 何より問題なのは音だ。先輩にバレないように目を閉じていても、耳を塞ぐわけにはいかない。第一、上映後に感想を求められたらどうすればいいのだ。怖かったですね、だけで話題を逸らす手もあるけれど、せっかく誘ってあげたのにボキャブラリーの貧困なやつだと失望されては困る。
 結論から言うと。
 私はこれほど脳裏に焼き付く映画を、生涯他に見る事はないだろう。


「大槻さん、顔色が良くないです」
「……」
 寝不足に、車酔いに、視聴覚の暴力。
 不安そうにシャツの裾を引く春日先輩の声も遠く、虚脱状態に陥ってしまった私は頼りない足取りで俯きがちに歩いた。
 怖いものは、怖い。でも、話すと嫌われてしまう。それも怖い。
「つまらなかったですか」
 帰りは何か言い訳を探して、先輩の車に乗るのはやめた方が賢明かもしれない。具合が良くなるまでは、いっそ一人で休んだ方がいいだろう。
「大槻さん」
 ああでも、駐車場までもうすぐじゃないか。ここで引き返すのは不自然すぎる。
「私の事、嫌いになりましたか」
「……へ?」
 泣き出しそうな声にようやく我に返ると、いつの間にか自分が先輩より随分前を歩いていた事に気が付いた。
 慌てて振り向くと、先輩は拳をぎゅっと握りしめて小さく肩を震わせている。いつも無表情に、ただ淡々としている彼女のこんな姿を見るのは初めてて、狼狽えながらそばに駆け寄った。
「え、せ、先輩? 何? どうしてですか? 私何かしました?」
「だって、ずっと怖い顔してます。いつもみたいに喋ってくれません」
「いや、顔が怖いのは元からでですね」
「無理しなくていいです」
「だから無理してませんってば」
 頑として聞き入れてくれない先輩の手首を勢いで掴んだものの、どうしたらいいのか分からず口をつぐむ。
 悪いのは、私だ。何かしたわけではなくて、何もしなかったのが悪い。一緒に出かけた相手が始終不機嫌そうに黙り込んでいたら、嫌な気分になるのは当たり前だ。
 初めから正直に言えばよかった。ホラーは泣いちゃうくらい苦手です。それでも先輩と一緒に映画が見たいので、他のやつにしませんか。
 笑われてもいいのだ。自分のために小さな嘘をつき続けて先輩を悲しませるくらいなら、私が傷付いた方がましだ。
 それでも何も言えない自分に、昔の事を思い出す。確かに、私がこんなに情けない人だとは思わなかった。嘘をつく意味すらないじゃないか。
 変わりたかったから、嘘を本当にしたかったから、情けない自分を隠そうとしていたはずなのに。
「――っせんぱ」
「大槻さんが好きなんです」
「いい?」
 振り絞ろうとした勇気が瞬時に萎む。先輩が何を言っているのか理解できなくて、さっきまで開かなかった口が今度は塞がらなくなった。
「吊り橋理論なんて信じて、ずるしようとした私が悪いです。不愉快だったら謝ります。嫌われるのは嫌です」
「……つりばしりろん」
「一緒に怖い思いをすれば告白が成功しやすいって、て――友人が言ってたんです」
 おうむ返しに呟く私に、先輩が珍しくつっかえながら説明する。彼女にチケットを渡した友人とやらが全ての元凶なのかと、脱力しながら肩を落とした。
「先輩、あの、そんな理論試さなくてもですね。私もう好きな人いるんです」
「……そうですか」
 同じく肩を落とす先輩に首を横に振って、無言で指差す。先輩の視線が私の人差し指から彼女の胸元まで辿るのを見て、耳まで熱くなるのを自覚した。
「とりあえず、メアド交換しません?」
 こくこくと頷く先輩の顔も赤いのかな、と照れ臭くなる。
 饅頭怖い、お茶が怖い。
 今度は可愛い、彼女が怖い。


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