【桜が咲いたら会いましょう】

 包み込まれるような、染み入るような。少し低くてまっすぐ通る唄ちゃんの声が、私はすごく好きだ。お腹空いたよとか、今日はあったかいから眠いねとか、もう何でもいいから一日中聞いていたいくらい大好きで、その事を伝えると唄ちゃんはいつも顔を真っ赤にしながら「からかうのはやめてよ」とぽそぽそ呟く。私はそれを聞いて、ふふー、と笑う。
 これはたぶん、恋だ。男の子の逞しい腕でも不器用な優しさでもなく、唄ちゃんの声に私は恋をしている。ただの空気の振動のはずなのに身体の奥まで響いてくる気がして、幸せでたまらなくなる。これが恋でないなら、他の何だっていうんだろう。
 彼女と出会えた高校二年生の春から一年と半年ちょっと、高校三年生の冬を過ぎてもまだ、私は唄ちゃんの声以外に心を奪われない。
「はぁ」
 昼休み。所属している――といっても引退はした。推薦だったから受験もとっくの昔に終わっていたし、あとは卒業を待つだけの気楽な身分だ――バスケ部の部室に転がしてある折り畳みの小さなテーブルを引っ張り出して、向かい合わせに座りながら二人でお弁当をつついていると、あんぱんを囓っていた唄ちゃんはミニパックの牛乳を注ぎ口から豪快に飲み込んでから大きく溜め息をついた。
 私と食事をする時は大体、半分くらいの確率でこのメニューを食べている。張り込みしてる刑事みたいで格好良いからというのが本人の弁だけど、私には同年代の女子の中でも比較的ちっちゃな唄ちゃんが身長を気にして積極的にカルシウムを摂取しようとしているみたいに見えた。
 そんな唄ちゃんが可愛いから、おやつだよと言って家から持ってきたいりこを与えてみたりするのだけど、むくれるとあまり喋ってくれなくなるので最近はあまりからかわないようにしている。私は平均より高い方だから特に気にした事はないし、ちっちゃなままでも唄ちゃんは十分可愛いと思うんだけど、彼女にとっては深刻な悩みらしい。
 悩みといえば、そう、溜め息だ。
「唄ちゃん、こないだから溜め息多いねぇ」
 眠いと勉強教えての次くらいによく聞くねと付け加えると、そこまで教えてもらってないよと不満そうに唇を尖らせる。実際唄ちゃんの成績は私に教わる必要なんてないくらいのはずだから確かにそうなんだけれど、眠いの方は否定しないらしい。居眠りしてばかりだから卒業させてあげませんよってな事になったら、笑えないのに。
「まあ、呑気そうな葵ちゃんと違ってかなり憂鬱だからね。こうやって溜め息をついて、憂鬱そうな気分を増幅させてるの。はぁ」
 今度は、わざとらしく溜め息。
 彼女の理屈は時々よく分からない。そういう所も、可愛いなぁと思う。
 眉間に皺を寄せてばかりの唄ちゃんの頭を撫でて、ふふー、と笑った。
「卒業しちゃうの、そんなに寂しい?」
 あと一ヶ月もすれば大学生になる。毎日のように唄ちゃんに会えないのも、大好きな声が聞けないのも、寂しい。今だって教室の違う彼女と少しでも一緒にいたくて毎日無駄に登校しては昼休みを待ち望んでいるくらいだし、相当深刻な度合いの唄ちゃんの声中毒なんだ、私は。
 でも、唄ちゃんの答えは至って可愛げがない。寂しくなんかないよーだなんて言って、私の腕を鬱陶しげに払い除ける。そのくせ手だけ握ったままでいて、やっぱり可愛い。
「別に死に別れるわけでもないし、県外にも出ないじゃない。そうじゃなくてね、卒業式が嫌なの。もっと具体的に言うと、卒業式で歌うのが嫌なの。音痴だから。唄う子で唄子なのに名前負けしてるから。はぁ」
 一気に言い切る唄ちゃんはまた溜め息。彼女の歌声は聞いた事がないけれど、様子からすると相当深刻な度合いの音痴らしい。
 一人一人ソロパートがあるわけでもないんだから口パクで済ませればいいんじゃない? と尋ねてみると、クラスの中でも特に盛り上がってるやつが隣りにいるからバレると怒られるんだよと唇を尖らせた。
「やだなー。ドとレとミとファとソとラとシの音が出なくたって人は生きていけるのにね」
「クラリネットじゃないからねぇ」
「うん。歌いたく、ないな」
 やけ酒のように牛乳をあおる唄ちゃんに合わせて最後まで取っておいた卵焼きを口に運ぶ。結局、卒業するまで彼女に背を追い抜かれる事はなかった。
 三月とはいえまだまだ寒いし、プレハブの寄せ集めみたいな部室にはエアコンなんて上等な設備なんてないから厚着をしているのだけど、お弁当箱を片付けた私は唄ちゃんの隣りに座り直して家から持ってきた膝掛けを一緒に広げる。肩が触れて、声が近い。
「私は、唄ちゃんの歌が聞きたいなぁ。卒業式だもん」
「……みんなで歌うんだから聞こえないよ」
「そう? 唄ちゃんの声なら、私は世界のどこにいても分かるよ」
「音痴だから?」
「ふふー」
 否定もせずに笑ってみせると、葵ちゃんはすぐからかうから嫌い、と頬をむくれさせる。自分より背が高い男が好きと私が言った頃から苦手な牛乳を飲み始めるくらい好きで好きでたまらないくせに、可愛い。
「唄ちゃんの声はねぇ。それだけでもう、歌なんだよ。生意気な口も、溜め息も、心臓がとくとく言ってるのも、全身これ楽器です。ボール追っかけてじたばたする手足とか、すぐ真っ赤になる顔は、楽譜です。そんな唄ちゃんの声が私は愛しいわけなんだなぁ」
「ま、またそうやってからかうんだから」
「ほら、真っ赤だ」
 膝を抱えてぽそぽそ呟く唄ちゃんを見て笑いながら、あれ? と思った。
 私は、唄ちゃんの声に恋をしていたはずだけれど。
 もしも彼女とは全く別の人間が、彼女と同じ周波数を持っていたとしたらどうだったんだろう。その人の声にも、私は恋をするだろうか。世界のどこにいても分かるくらい大好きな声を辿って行ってみた先が唄ちゃんじゃなかったら、がっかりするんじゃないだろうか。
 なるほど、私はこの二年間、大変な思い違いをしていたらしい。
「――なんか、私、声っていうか。唄ちゃんが好きみたい」
「へ!?」
 納得して両手を打ち合わせる私とは対照的に彼女は大袈裟にのけ反る。こうもびっくりされるとは思わなかったから、少しおかしかった。
「え、葵ちゃん、なに、またからかってる?」
「ちゅーしていい?」
「はい!?」
「今のはちょっと、からかってた」
「そ、そっか。……いや、だからえっと、その前のは? ラブ? ライク?」
「唄ちゃんはどっちがいい?」
「だ、だからぁ」
 耳まで真っ赤になった唄ちゃんは怒ったような呆れたような泣き出しそうな、こんがらがった声でからかうのはやめてよと言う。ふふー、といつものように笑ってから彼女のおでこにキスをした。
「じゃあねぇ。卒業式に歌ってくれたら、教えてあげる」
 小さな声でもいいから、私だけにまっすぐ響くように。
 いくら体育館の前の方にいるからって、唄ちゃんなんてすぐに見つけられるんだから誤魔化しても駄目だよと念を押すと、二人の時だけタメ口をきく生意気な後輩は額を両手で覆いながら、あーとかうーとか返事のようなそうじゃないような奇怪な声を発しながら頷いた。大袈裟な所も、可愛い。
 晴れやかな気分で卒業できたら毎日は会えないけれど、たまには一緒に街をぶらついて、アイスの一つや映画の一本は奢ってあげよう。歌が聞こえてこなければ、寂しいけれど。それもまあ、返事として頑張って受け止めよう。
 葵ちゃんって普通よりだいぶズレてるよ、なんて小声で呻いている辺り、この恋に望みはあるかもしれない。
 届け、届け、私のことば。


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