【そして幸せになるのだ】
一度だけ、駆け落ちをしようと誘われた事がある。16歳の時だ。
当時の私は筋金入りの劣等生で、かといって要領が良いわけでもなくて、仲間と呼んでいいのかも分からないくらい曖昧で希薄な友情で結ばれた知り合いとつまらない悪さをしては一人だけ矢面に立たされるような、そんな存在だった。ありていに言うと不良の下っ端で、使いっぱしりで、そのくせ自分が利用されているなんてこれっぽっちも気付いちゃいない、馬鹿な奴なのだ。
望月さんは、私より2つも年上の先輩だった。いつもつまらなそうな顔をした人で、冷たい目をしていて、どんな酷い事も大体は平気でやる。気に入らない後輩を呼び出して陰湿な手口で痛め付けているところを目の前で見せられた時は、私の奥歯がかたかた鳴るだけで何も喋れなかった。理解出来たのは、望月さんに嫌われたくないという絶対的な恐怖だけだ。
幸いにして、私は彼女によく可愛がって貰った。望月さんのそばにいるようになってからは誰も私にコンビニで何か買ってくるように言い付けたりしないし、無駄に頭を小突いたりしない。2年生にトラノイをかるなんとかだと言われたけれど、意味がよく分からなかった。
普段はえらそうにしている大人達も望月さんに対しては知らぬ存ぜぬを通していて、そんなのも私は気分が良い。どこかのお偉いさんだとかいう望月さんの親は一人娘の個室に立派なマンションをあてがっていて、暇だからと呼び出されてはよく遊びに行かせてもらった。初めて部屋に入った時にすごいですねと口にしたら、隔離されてるのよと彼女が冗談めかして笑ったのを覚えている。
大人はみんな、望月さんを見ない。私は大人が疎ましかったから、一緒にいると見られないのが、うれしい。
「ねぇ、リオ」
望月さんが、床にぺたりと座った私の髪を後ろからブラシで梳きながら呼びかけた。
彼女の部屋に来た時の私は大抵いつも着せかえ人形にして遊ばれる。望月さんのお古だとか全然似合わないふりふりのお洋服だとかを着せられて、髪の毛だって丁寧に丁寧にセットされて、そんでもって笑われる。たまに写真まで撮られて、次に遊びに行った時は壁に乱雑に飾られている。望月さんのためだけにあるはずの家は半年もする頃には私がいっぱい詰め込まれていて、変だった。
でも私といる時の望月さんはつまらなそうな顔じゃなくて楽しそうな顔で笑ってくれるし、自分が特別扱いされるのが分かるし、嫌じゃない。嫌じゃないけど、変なものは変だ。
「リオ?」
「あ、はい。なんですか?」
一度目の呼びかけにすぐ答えなかったものだから、怪訝そうな声を出されて少し慌てる。私達の顔はそれぞれ同じ方向を見ていたから、何を勘違いしたのか彼女はくすくすと笑った。
「やだ、寝てたの? 声が寝ぼけてるわよ」
「……はぁ」
私の声はそんなに間が抜けて聞こえるんだろうかと思いながら曖昧に返事をする。放課後に呼ばれてかれこれ2時間は着せかえ人形をしていたものだから、多少の疲れは出ていたのかもしれない。
服を渡される度に他の部屋に移動して着替え、髪を整えられ、立ったり座ったりを繰り返しながら撮影。彼女が満足すると、また違う服を渡される。正直何が楽しいんだか分からないが、口には出せなかった。私にとって、望月さんは絶対である。
「リオは私といるの、好き?」
「はい」
相変わらず髪を梳きながら尋ねられて、はっきりと答えた。
望月さんは怖いけれど、私にはすごく優しい。優しくて、強い人と一緒にいるのは好きだ。
「じゃあ、私の事は好き?」
「はぁ」
嫌いでは、ない。嫌いだったら、何時間も二人きりで過ごしたりはしない。
かといって好きかと問われるとどうだろう。私が望月さんに抱いている感情は畏怖に近いものがあって、怖いものは苦手で、一緒にいてくれる優しくて強い人という立場を含めて彼女が好きなのだ。もしも私が不良の下っ端じゃなく一般生徒の立場だったら、好きだ嫌いだと思う以前に怖いから近付きたくないなぁと思う。
だから、曖昧な返事だ。
「私の言う事、なんでも聞ける?」
「はい」
これは、はっきりと。
先輩の命令は絶対だ。さすがに誰かを殺せだとか死ねだとかは聞けないけれど、メロンパン買ってきてとか何時にどこどこへ来いとか、そういう子どものおつかい程度の事ならいくらでも聞ける。それに私は物覚えがあまり良くないので、難しい事は滅多に頼まれない。
なんで急にこんな事を聞いてくるのか首を傾げたが、望月さんは私を後ろから抱きすくめるようにしながら質問を続ける。彼女がいつもつけている香水の甘い匂いと、耳元にかかる息がこそばゆかった。
「こうやって、ぎゅってされるのは、好き?」
「はぁ」
好きというほどでもないけれど、嫌いではないので曖昧。
「じゃあね、大型犬は好き?」
「はぁ」
私は猫派だけれど、犬も嫌いなわけではないので曖昧。
「田舎の、広くて縁側のある静かなお家は好き?」
「はい」
都会の狭苦しいアパートよりも、そういったのんびりした雰囲気が好きなのではっきり。
「もし私と一緒に、そういうお家で大きな犬を飼って、ずっとぎゅっとできたら嬉しい?」
「はぁ」
できれば猫が飼いたいし、ずっとこうされていても困るけれど、嫌ではないので曖昧。
本当に、なんでこんな事を聞くんだろう。
「……リオ、さっきから「はい」と「はぁ」しか言わないじゃない。「いいえ」はないの?」
「……はぁ」
困ったような望月さんに、肯定の意味を込めて返す。確かに、「いいえ」は私の中にないのだ。
望月さんがそういう質問しかしてこないせいもあるのだけれど、いちいち否定を混ぜ込むのはどうも気が咎める。私の感情は、曖昧でゆるいものばかりだ。
「それなら、もう一度聞くけれど」
「はい」
一呼吸置かれて、思わず姿勢を正す。
望月さんの腕の中にいるまま背筋を伸ばしたせいで、彼女の唇が軽く耳に触れた。
「リオは私と一緒にいるのも、私の事も、私にぎゅってされるのも好きで、私の言う事なら何でも聞けるのよね?」
「はい、まあ」
相変わらず曖昧だが、まとめて聞かれるとこう答えるしかない。実際、嫌ではないのだから。いいえとは言えない。
「……どこか遠くで私と暮らすのも、嫌じゃないのよね?」
「……嫌じゃ、ないですけど」
そんな言い方はずるいと思った。私がはっきり否定できないと分かっているくせに、わざと言い回しを変えている。
――いくら馬鹿な私でも、望月さんが何を言いたいのか分かるじゃないか。
「お金なら、しばらく暮らすくらい持ち出せるし。荷物だって途中で買えばいいわ。リオはね、私についてきてくれるだけでいいの。だから」
聞かないで、聞かないで。
「――だから、私と一緒に逃げて?」
私は、あなたを拒絶できないんです。
どこからとも、誰からとも聞き返せずに小さく頷いた私の体が震えていたのは、私を抱き締める体が震えていたからなんだと、後で気付いた。
それからの望月さんは本当に嬉しそうで、思い立ったが吉日とばかりに次々と計画を話して、私は黙って頷くばかりだった。
とにかく、北へ行きたいのだと彼女は言う。駆け落ちといえば、北へ行くものなのだそうだ。今は秋だけど向こうは寒いかもしれないから、お揃いの上着を買おうだとか。犬を飼うならどんな種類で、どんな名前にしようだとか。家庭菜園をしてみたいだとか。
今思えば計画と呼ぶにはあまりに稚拙な空想ばかりで、だから私も頷いていたのかもしれない。現実味のない未来に憧れる望月さんにいつもの強さはなくて、ただのか弱い、綺麗なお姉さんに見えた。
明日の夜8時に、駅で待ち合わせましょう。
結局はっきりと決まったのはその数字だけで、私は望月さんと指切りをして、暗くなった家路をとぼとぼと歩いた。見慣れた狭苦しいアパートに帰っても冷めた夕食が置いてある以外誰もいなくて、味も分からないまま乱暴にご飯を飲み込む。シャワーだけ浴びると、敷きっぱなしの布団に潜ってすぐに眠った。
明日、学校から帰って、また冷めた夕食を食べて。
ちょっとそこまでと出かけてくればもう、新しい生活を始められる。望月さんと一緒に暖かいご飯を食べて、熱いお風呂に入って、他愛のないおしゃべりをしながら眠れる。学校だって行かなくていい。二人でのんびりと犬の散歩をして、家庭菜園で何を育てようか。苦い野菜よりも、甘い果物がいい。スイカとか、イチゴとか、どうやって育てるのかよく知らないけれど。
明日からは、寂しくなくなる。
明日から。
朝起きて顔を洗っていると、これが最後になるんだと無性に悲しくなった。
居間からは付けっ放しのテレビの音と朝帰りをした母親の寝息が聞こえていて、安いお酒と香水の臭いがする。私は母さんが嫌いだった。普段は自分に子供がいるだなんて忘れているくせに、たまに気が向くと誰がここまで育ててやったと思ってるのとヒステリックに泣く、アル中一歩手前の若作りなおばさんだと思っていた。産んで欲しいなんて頼んでないし、旦那と別れたのはあんたの勝手じゃないかと言うと、余計に泣かれた。
でも、叩かれた事はなかった。夕食だけは毎日手作りだった。そこだけ嫌いじゃなかった。
私が学校から帰る前に母さんは仕事に行くだろうから、化粧の崩れた寝顔だけ眺めて家を出る。大嫌いな通学路のはずなのに、また悲しくなった。
いつも吠えてくる犬が嫌いだ。スカート丈の長いお嬢様学校のやつも嫌いだ。ぎゅうぎゅうに詰め込まれる電車も、ゴミが投げ捨てられたアスファルトの道路も、ここにしか入れなかった学校も嫌いだ。
嫌いなものでも、最後だと思うと悲しい。少しは嫌いじゃないところもあったから、二度と見られなくなるのは悲しい。
どうせもう勉強なんかしなくてもいいんだからと、大嫌いな数学の授業を真面目に受けてみた。先生が何を言っているのか意味が分からなくて、隣りの席の子に何度も何度も説明してもらった。
自分で解いてみた簡単な問題の答えが一つだけ合っていて、嬉しかった。
お昼はいつも通り望月さん達と食べて、彼女とは目配せだけを時々交わす。本当はみんなに色々と話したかったけれど、駆け落ちというのは秘密にするものだそうだから、頑張って我慢した。
午後の体育はマラソンで、体力がないくせにがむしゃらに全力疾走した私は何も喋られなくなるくらいへとへとになって、帰りの電車で立ったまま居眠りをした。学校でこんなに疲れたのは、初めてで。
駄目だ、すぐに悲しくなる。
「――あら、今日は早かったのね? おかえりなさい」
帰宅してドアを開けた途端に声をかけられた私は、思わず顔をしかめた。
いつもより薄い化粧をした母さんが居間にコタツを出していたところで、普通の母親のように見えるのが嫌だ。私の母さんは、アル中一歩手前の若作りなおばさんであるべきなのに。嫌な大人であるべきなのに。
「……なんでいんの?」
「母さんだって、たまには休んでいいじゃない。最近はお店の子も頼りになってきたし」
尖った声で尋ねると、母さんは背伸びをしながら笑う。私の記憶の中の母さんは、こんなに皺が増えていなかった。大きくなるにつれて私は母さんと顔を合わせるのも嫌だと考えるようになっていたから、当たり前かもしれない。
台所に立つ母さんを見たのも久しぶりで、後ろ姿がやけに小さく見えたのも私の背が昔より伸びたからで、母さんのご飯を16年間食べていたからだ。
制服を着替えて、電気の付いていないコタツに入って、二人で寄せ鍋をつついた。私が好きな、魚肉ソーセージが入ったやつ。そんなの鍋に入れないよと同級生に笑われた時はかなり衝撃的だった。うちの鍋には、絶対欠かせないものなのに。
「美味しい? あ、ちゃんと野菜も食べなさい。大きくなれないわよ」
「……うん」
もう子供じゃないんだから、すぐに大きくなるわけないよ。
そう言い返したいのを、白菜と一緒に飲み込んだ。母さんからすれば、やっぱり私はいくつになっても母さんの子供なんだろう。
雑炊を作って明日の朝に食べようと話す母さんに頷きながら、ちらりと時計に目をやった。――まずい。いつの間にか、7時半を過ぎている。
「あの、ちょっと、コンビニ行ってくるから。立ち読みして帰る」
「そう?」
財布と携帯だけ掴んで立ち上がる私を見上げる母さんに、心の中でさよならを告げた。だって私は、望月さんと駆け落ちをしなければいけない。明日の朝は、北にいなければいけない。
夜の風は冷たくて、背中を丸めて歩きながら財布の中を覗いてみた。レシートと、小銭しか入っていない。
貯金くらいしておけばよかったけれど、お金は望月さんがどうにかしてくれる。それで、電車に乗って、北へ、北へ行って。
北へ行った、その後はどうするんだろう。
親の承諾もない未成年に、一軒家を貸してくれる人間なんているんだろうか。仮にいたとしても、家賃は? 持ち出したお金がなくなったら、どうやって生活していけばいいんだろう。お金がないなら、働けばいいんだろうけれど。私は、働いた経験なんてない。今までずっと、自分で何かをやらなくたって大きくなれた。
そりゃ、立派にやっていける人だって世の中にはたくさんいると思う。でもそれに、私と望月さんが当てはまるだろうか。本当に、望月さんが話してくれたような生活ができるんだろうか。すぐに警察に補導でもされて、連れ戻されるんじゃないだろうか。
朝からずっと不安で、悲しかった。一度考えてしまうと余計に止まらなくなるから、考えないようにしていた。私には、駆け落ちなんてできる気がしない。怖い。無理だ。
駅の入口に、望月さんが立っているのが見えた。彼女はちゃんとこちらに気付いているのに、すぐにでも行かなければならないのに、足が動かない。指切りまでして約束したのに、いざとなると踏み出せない。
立ち止まって下唇を噛んでいる私のそばを、帰宅中の大人達が一瞥しながら通り過ぎていくのが悔しかった。ばかにするな、ばかにするな。私は、これから駆け落ちするんだ。お前らなんかいなくたって、生きていけるんだ。私を見るな。ばかにするな。やってみないと分からないじゃないか。
膨らんでいく被害妄想から逃げるように前に進む。少し歩いただけなのに、もう息が苦しかった。心臓が壊れそうで、指先が痺れる。マラソンとは違う、不安と緊張を伴う疲れだ。
「……望月、さん」
挨拶もせずに彼女の手を握る。正面を向くと決意がそがれてしまいそうで、俯いたまま声を絞った。
一緒に逃げると、約束した。約束だから。
「私、望月さんのこと好きです。怖いけど、優しいから好きです。一緒だと寂しくないから、好きなんです」
「リオ」
「好きだから、駆け落ちくらいできます。望月さんのためなら、なんだってできます。遠くに行って、二人で――!」
「本気にしないで、リオ」
「……え?」
ようやく顔をあげた私を、望月さんはつまらなそうに眺めていた。本気にしないでって、どういう意味だろう。
察しの悪い私に、彼女は大きな溜め息をつきながら続ける。
「駆け落ちなんて、するわけないじゃない。あんなのそうそう上手くいくものじゃないし、馬鹿みたいだわ」
「でも、だって昨日は」
「ただの冗談よ。リオをからかってただけ。……やだ、ほんとに信じてたの?」
握っていた手から力が抜けて、だらりと下がった。その場にへたりこみそうになるのをなんとか堪える。
私はただただ、安堵していた。怒るでも悲しむでもなく、嬉しかった。
ちゃんと約束は守れたのだ。望月さんの言う事は、聞けた。
「そう、ですよね。冗談に決まってますよね。ばかだなぁ、私」
朝から何を一人で悩んでいたんだろうと急に照れ臭くなって頭を掻くと、望月さんも小さく唇の端を上げる。本当に来て待ちぼうけをされても夢見が悪いから、念の為に迎えにきていたのだと彼女は言った。
人通りもまばらになってきた駅に用もなく突っ立っているわけにもいかないので、そばのコンビニで少しだけ雑誌を覗き込んでからアイスを1つ買ってもらった。この時期に外で食べるには冷た過ぎる気もしたけれど、昔から好きな当たり付きのアイスバーを囓りながら、反対側の手を繋いでぶらぶらと夜道を歩く。
「リオ」
「ふぁい?」
分かれ道の手前で名前を呼ばれた途端、食べかけのアイスが手から落ちた。覗き込むように近付いてきた望月さんの顔が、私の顔とくっついて離れたせいだ。
街灯の明かりで薄く照らされた彼女は、今まで見た事のあるどんな表情とも違う、怖くもないし楽しそうでもないしつまらなそうでもない、寂しそうな表情で笑った。
「――来てくれて、ありがとう。嬉しかったわ」
ぽかんとしたままの私は、繋いでいた手のひらを解いて、分かれ道を去っていく望月さんの背中を黙って眺めていた。何故だろう。心の中でさよならを告げられた気がして、追いかけてはいけないと思ったのだ。
地べたで溶け始めたアイスバーはやっぱりはずれで、私はそのまま家に帰ってしまって。
私を駆け落ちに誘った彼女が結婚すると知った頃には、全てが終わってしまっていた。
□ □ □
アイスのあたりくじを引いた事が、私は一度も無い。
ただ単に運が無いだけかもしれないけれど、昔から投資し続けてきた本数を考えるならそろそろ当たっても良さそうな頃じゃないかとはずれが出る度に拗ねている。
それくらいで、と同僚には笑われたけれど。雨の日も風の日も雪の日も、めげずに一年中挑戦し続ける私を神様はいい加減評価すべきだ。
今日もあの日と同じアイスバーを買って、眩しい日差しに顔をしかめながらコンビニを出た。アイスといえばやはり夏に食べるものだろうけれど、暑いのは好きじゃない。寒いのも、好きじゃないけれど。
曖昧な、春と秋が好きだった。秋にはあまり良い思い出が残っていないから、今は春が一番好きだ。
丁度前から歩いてくるあの人だって暑さでうんざりしているように見えるから、この気持ちを少しは理解してくれるはずだと勝手に仲間意識を持ってみたりする――
「――望月さん!?」
目の前を通り過ぎていった彼女を後ろから慌てて呼び止めると、彼女は不思議そうに首を傾げながら振り向いた。視線が、誰? と問い掛けている。
人違いではなさそうだけれど。
当たり前か、と苦笑しながら小さく頭を下げた。
「橋本です。橋本里緒菜。覚えてます?」
「……リオ?」
「リオです」
高校生の頃によく呼ばれていた名前を復唱する。近頃は橋本とか橋本さんとか、名字で呼ばれる事が多かったので、少し照れくさかった。
「やだ、全然分からなかったわ。なんていうかその……真面目そうなんだもの」
「まあ、8年も経てばさすがにやんちゃ出来ないっていうか。眼鏡はダテですけど。頭良さそうに見えません?」
「見た目だけなら、すごく賢そうよ」
「褒めてないでしょう、それ」
掛けていた眼鏡を外してみせたり、短く切った黒髪を指差したりする私を望月さんが笑う。
ああ、こんな笑い方をする人だった。底抜けに明るいのとは違う、刺々しさの抜けたふんわりと優しい笑顔を私にだけ見せてくれるのが、あの頃の密かな自慢だったのだ。
「望月さんは、ええと……どうしてます? 最近」
ためらいがちに、尋ねる。懐かしさが先に立ってつい声をかけてしまったけれど、彼女が私の前からいなくなった理由を思い出していた。
3年の秋という中途半端な時期に、望月さんは消えた。
親元に連れ戻されて、春からどこかの大学へ通って、卒業したら許婚と結婚するのだと人づてに聞いたけれど、別れ方が別れ方だったものだから今まで連絡を取る機会もなかった。
考えてみると望月さんはもう望月さんではないのだ。私の知らない、別の名字がある。
――彼女が私を橋本ではなくリオと呼ぶように、私も彼女を望月さんとしか呼べないのだけれど。
「どうと聞かれても」
望月さんはつまらなそうに答える。
「何とも言えないわね。お互い、好きで結婚したわけじゃないし。子供も出来ないし。今日は実家の用事で近くまで来たの」
「はぁ」
「リオは? まだここに住んでるの?」
頷きながら、美容師をしている事を伝えた。手に職をつけておけばいざという時に役立つと母さんに言われたのを真に受けたのだけれど、そう楽な仕事でもない。もっとも高校生の頃と違って、自分一人で何かが出来るというのは気分が良かった。
「今日は休みだからアイス買いに――」
提げていた袋を掲げようとして口を噤む。今が炎天下の路上だという事を、すっかり忘れていた。
「……行儀は悪いけど、歩きながら食べる?」
「……そですね」
肩を落とす私に呆れたのか、望月さんが溜め息をつく。あの時とは少しだけ違う道を、あの時よりも溶けたアイスを舐めながら二人で歩いた。あたりくじが出た事がない話を彼女にもすると、そんなものよと笑われる。
さすがに、もう手は繋げない。
「昔、駆け落ちしようとしたじゃない?」
「しましたねぇ」
「結構本気だったのよ、私」
薄々は分かっていた事だから、驚きはしなかった。気付いた時には既に終わってしまった話だし、当時の自分の幼さを考えると情けなくなる話だ。今ならお札くらい財布に入っているし、貯金だって毎月している。税金もしぶしぶ払う。
「本気だったけど」
自己嫌悪に襲われてきた私を尻目に、彼女は続けた。
「駅に来たリオを見たら、やっぱり私も怖くなっちゃって。無理だなって思ったの」
「……あんな頼りない後輩なら、しょーがないんじゃないですかね」
たぶん望月さんのお荷物になるだけでしたよと自嘲気味に付け加えてみる。今の自分なら頼れるのかと言われると困るけれど、あれよりはマシなはずだ。
彼女はきょとんとした顔をして、首を横に振った。
「何言ってるの? あの時のリオ、格好良かったわよ。だからやめたの」
「はぁ……よく分かんないんですけど」
格好良かったら駆け落ちをやめる、その辺の理屈が私には理解できなくて頭を捻った。
ついでに、垂れてきたアイスを慌てて舐める。
「リオにとって、私は先輩だったでしょ?」
「後輩だから当たり前じゃないですか」
「そうじゃなくて」
真顔で返すと、望月さんは少し遠くを眺めながら微笑んだ。
「駆け落ちって好きな先輩とするものじゃないでしょ。好きな人とするのよ。私と駆け落ちした事を好きな人が後悔するなんて、嫌じゃない」
昔の私は、望月さんが怖かった。好きかどうかを尋ねられても、曖昧な返事しか出来なかった。
望月さんと駆け落ち出来ない事を、嬉しく思っていた。
きっと、それは彼女にも伝わっていたんだろう。もし本当に――本当に北に行ってしまったとしたら。頭の良い彼女には、その後の事が私よりも明確にイメージ出来たに違いない。
駆け落ちは幸せになるためにするものだからと呟く望月さんに、今の望月さんは幸せですかと尋ねてみた。
答えは無くて、黙って歩く。
「望月さん」
名前を呼ばれて顔をあげた彼女に、私の顔をくっつけて離した。今度はアイスを落とさないように、しっかりと持ったままだ。
「な……何?」
「いや、前はよく分からなかったから確認っていうか……結構恥ずかしいですね」
彼女がうろたえたようにまばたきするのを見て、頭を掻きながら残ったアイスを一気に囓る。
棒だけになったアイスバーを眺めながら、望月さんの手を握った。
「また、一緒に駆け落ちしましょうか」
今の私は、望月さんが怖くない。
可愛くて、綺麗で、二つだけ年の違うお姉さん。
「――今度は幸せになりに。神様の御墨付きです」
生まれて初めて出したあたりくじを見せつけて笑う。繋いだ手のひらを握り返されて、解けないように指を絡めた。
「……リオ、すごい」
「すごいでしょ」
私と彼女の逃避行は、一度終わっていたけれど。終わりは始まりで、始まりの終わりは自分達で決めてみたい。
あの時とは別の分かれ道を、今度は同じ方角に歩く。
北へ、北へ。
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