【あなたの光が届くのならば】

 彼女に迷惑をかけるのは嫌だ。
 彼女を悲しませてしまうのも嫌だ。
 彼女から、嫌われてしまうのも、いやだ。
「ねぇ。ここにあった消しゴム知らない?」
 給湯室から戻ってくるなり突然そう尋ねられて、カップ麺の容器を手にした私は小さく首を横に振った。
 壁にかかった時計の針を確認してから自分のデスクに腰掛け、向かいで引き出しの中を掻き回している麻美さんを再び見やる。眉間に皺を寄せた彼女が困った様子であちこち探っている姿に心拍数が上がるのを感じて、平静を装いながら答えた。
「さっき見た時はありましたけど。どっか落ちたんじゃないですか?」
「んー、それが探しても全然ないのよ。どこいっちゃったのかなぁ」
「転がって隙間に入っちゃったとか」
 ありえる、と腕を組んでため息をついた彼女に胸を撫で下ろす。代わりといっては何だが、自分のペンケースから取り出した真新しい消しゴムを軽い調子で麻美さんに手渡した。あげます、と付け加える。
「え、いいの? ごめんね、ありがとう」
「いえいえ」
 嬉しそうに顔を綻ばせた麻美さんに、複雑な気持ちで苦笑いを返す。呆れているのだと勘違いした彼女は照れ隠しなのか、カップ麺を啜ろうとした私を咎めるような目付きで見つめた。あっと言う間に、手にしていた割り箸を取り上げられる。
「だめでしょ、またそんなの食べて。なみきちゃん、お昼も夕飯もそれだったじゃない」
「……お腹減ったんですよ。美味しいし」
 一人暮らしで料理も苦手な私にとって、気軽に取れるインスタント食品やコンビニ弁当、ファーストフードは日頃の食卓に欠かせないものだ。もっとバランスを考えなければ体に悪いと口うるさく麻美さんは言うけれど、彼女のように毎朝決まった時間にきちんと起きていたとしても、私には家で弁当を作る余裕がない。
 お預けを食らってきゅるきゅると鳴き始めたお腹を片手で押さえる私に、彼女は怒っているのか笑っているのか、先ほど取り上げた箸をこちらに差し出しながら肩をすくめた。
「……だからさ、無理して残業付き合わなくてもいーの。それ食べたら、先に帰りなさいよ?」
「でも」
「私もすぐ帰るんだから。なみきちゃん朝弱いんだし、夜更かしは禁止ね」
 さて仕事仕事、と呟いてからペンを手に机とのにらめっこを再開してしまった麻美さんを情けない表情で眺めたまま、私はできるだけゆっくりと箸を口元へたぐる。
 少しでも、麻美さんと一緒にいたかったのだ。
 私が二年前になんとか入社したこの小さなデザイン事務所の中でも、一番のやり手である彼女には任される仕事だって人一倍多い。家では集中できないからと言って深夜まで残ることもしょっちゅうで、今ももう、時計の針は午前0時をまわっていた。
 終わったはずの仕事に手直しを加えたり、小さな雑用を請け負ったり、私があれこれと理由をつけていつも帰らないでいるのは、仕事の面で麻美さんに追いつきたいからではない。
 ただ、麻美さんは綺麗だから。
 私が見ていないうちに何か起こってしまうのは嫌だから。
 1分でも1秒でもいいから、彼女のそばに。
「……じゃあ、あの、お先に失礼します」
「うん。気をつけて帰ってね?」
 すっかり柔らかくなった麺と冷めたスープを飲み干してから声をかけると、コートを着込む私に麻美さんはふわりと笑う。どぎまぎして赤くなった顔を隠そうと頷きながらドアを開けていると、ちょっと待って、と呼び止められた。
 言われた通りその場で突っ立っている私の前で彼女は少しだけ背伸びをして、首の後ろに腕を回してくる。何事だろうと硬直してしまった私を楽しそうに見上げた麻美さんが、近頃いつも身につけている真っ赤なマフラーを私に巻いてくれているのだと理解するまで数秒かかった。
「最近、寒いから。消しゴムのお礼に貸してあげる」
「え、でも、悪いですよ」
「うちは近いからちょっとくらい大丈夫だよ。なみきちゃんが風邪引いたら嫌だし」
 うろたえているうちに背中を押されて、半ば無理矢理外へと連れ出されてしまった私は仕方なくジーンズのポケットへと手を突っ込んだ。相変わらずにこにこしている麻美さんに頭を下げて、指先を丸める。
「……えっと、おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
 丸めた指先に触れたのは、すっかり小さくなってしまった消しゴムのかけらで。
 ごめんなさい、と心の中で何度も呟きながら建物を出て、会社の窓から手を振っている彼女に笑いかけて、毎日通勤に使っている自転車のペダルを踏む。
 途中、別の道へと曲がった。
 元来た道から1本外れた通りを引き返すといつもの公園がある。自販機であたたかいコーヒーを買ってからベンチに腰掛け、斜め向かいにあるこじんまりとしたビルの灯りをぼんやり見つめた。
――頭では、わかっているのに。やめられないのだ。
 麻美さんは優しい。大好きな彼女を困らせたくない。
 麻美さんに嫌われてしまうのは、いやなのに。
 それでも彼女が身につけているものが欲しくて欲しくてたまらなくて、いつだって声を聞いていたくて、見守るだけでいいから、私の知らない彼女がいるのはもっと嫌で。
 寒さに震えながら真っ赤なマフラーに顔を埋めて、灯りが消えるのをじっと待った。すぐに帰る、なんて言っていたのに結局麻美さんが作業を終えて帰る頃には指先がすっかりかじかんでしまっていて、自転車を公園に置いた私は足音を忍ばせながらただ、小さな後ろ姿を追うように歩く。
 10分も行けば着いてしまう3階立てのアパートの、一番右上にあるカーテンが明るくなったのを見届けてから、私はほっと息をついた。
 先に帰れと言われたのに待っていたら、困らせてしまうから。
 貴女が好きだから一人で帰すのは心配なのだと伝えたら、おかしいから。
――ああ、違う、おかしいのは、伝えられない気持ちでも、言葉でもなくて。
 どうしようもない罪悪感が麻美さんの匂いと混じって、冬の夜空へ、真っ白く浮かんだ。


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