【柔らかな刃】

 きっとこれが私にとって、初めての恋だったんだと思った。
 繋いだ手のひらの温度も、見つめあう瞳の輝きも、まどろみの中で触れ合う心地よさも。
 今まで恋だと思っていたものは全てがまやかしで、彼に出会うために私は生まれてきたのだと言われても信じてしまうくらい、互いの心がしっくりと馴染むような気がした。
 だから、だから。
「――まあ、そーゆーこともあるんじゃないですかね」
「まだっ、話して、る、途中なんだけど!」
「要するに男と別れたって話でしょ? 眠いんですよ、自分。暑いし」
 缶コーヒーを啜りながらつまらなそうに口を開いた彼女に、私はしゃくりあげながら赤く腫れた目を擦る。喉がヒリヒリして咳き込んでいると、飲みかけの缶を渡されたので黙って飲んだ。
 確かに、迷惑だったとは思う。彼女と私は2つ違いとはいえ、中学の頃から十年来の付き合いがある、いわば親友とも呼べる間柄だけれど。いい大人が真夏の深夜に泣きながら電話してきて、4つ離れた駅のある街まで呼びつけて、飲みすぎてろくに歩けないものだから公園のベンチまで担ぐように運んで貰って、その上延々と彼との別れ話から思い出話までをされては私だって面倒臭い。
 とはいえ、傷心の先輩にかける言葉がそれしかないのは、あんまりじゃないかなぁ、とも思うわけで。
「ていうか、前も同じこと言ってたじゃないですか。今度こそ運命だとかなんとかで。何回初恋する気ですか」
「……だって好きだったんだもん」
「じゃ、毎回毎回別れる度に呼ぶのやめて下さい。他のことで呼んで下さい」
「……上野は私のこと嫌いなんだ」
 畳み掛けるように言われて、ぐずぐずと鼻を啜る。変な柄のTシャツとぶかぶかのハーフパンツのままバイクで駆け付けてきた彼女は、またそれですか、と寝癖のついた頭を掻いた。
「初美さん、困ったらすぐそれ使いますよね」
「……だって」
「私、前から言ってますよね?」
「……うん」
 月明かりに照らされた彼女の顔は少し怒っていて、それは眠たいせいじゃないことを私は知っている。
 話し方がそっけなくとも、上野は優しいやつだ。昔からそうだ。私が悲しい時、一番に来てくれるのは彼氏でも家族でもなく、いつだって彼女だった。
 彼女に甘えてばかりいる自分が優しくないことも、私は知っている。
「初美さん」
 名前を呼びながら頬に触れられて、びくりと体が強張る。
 しばらくそのままじっと身をすくめていると、ため息と共に私の手から缶を抜き取って、立ち上がった上野は困ったように笑った。
「そろそろ、帰りましょうか」
「……うん」
 左手を差し出されて、頷きながら握る。空になったはずのコーヒーを飲むふりをしながら何も言わずに歩く彼女の隣を、私は何も言えずに歩いた。
――付き合っていた彼とは、上手くやっていた。互いの心が、しっくりと馴染むような気がした。
 ただ、結婚をして、この先もずっと一緒にいられる自信はなくて。はぐらかしているうちに、ふられた。
「あの……上野、帰っちゃうの? 泊まってく?」
「いいですけど、次同じことしたら泣きますからね」
「……ごめん」
「まあ、前も同じこと言いましたけど」
「……ごめんね」
「もう慣れました」
 彼女と繋いだ手のひらはいつも熱くて、痛いくらい強く握られていて。
 これが恋なのかどうかがずっと分からなくて。
 私はいつも優しい彼女を、柔らかな刃で傷付けてばかりいる。


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