【家出とは、ひそかに自分の家を出て帰らないことである】

「もう家出してやるんだから!」
 歩がそんな事を言い出したのは本当に唐突だった。
 日曜日だから二人で昼食を食べて、適当にだらだらとテレビや雑誌を眺めて過ごして、煙草を切らしたからとコンビニに出かけていた千春が帰宅してすぐの事だ。
 何故急にそんな事を言い出すのか、千春にはわけがわからない。
 顔を見れば一目で分かるほどに歩はふて腐れている。生まれた時からずっと近所に住んでいて、幼稚園も小学校も中学校も高校も、そして今通っている大学すらも同じだから歩の事はよく分かっているはずだ。
 実家から遠く離れた大学に入学してからなんて、歩が「ルームシェアってなんかいいよね」なんて言い出したから、千春も「別にいいけど」なんて承諾してアパートで共同生活を始めたくらいだ。
 今言った家出というのは、実家の事じゃなくてここの事だなというのは理解出来る。
 理解できないのは理由だけだから、とりあえず尋ねてみた。
「なんで?」
「千春ちゃんが悪いんじゃない。胸に手を当てて考えてみなよ!」
「んー」
 仁王立ちでもするように腕を腰に当てる歩に、千春は横柄に頷いた。言われた通り胸に手を当てて瞼を閉じる。
「――歩が楽しみに残していたプリンを、コンビニに出かける前に私がこっそり全部食べてた事に気付いたくらいで家出するの?」
「なんでそこまで分かってて食べるのよぅ!」
 すらすらと答える千春に、歩は子供のように地団駄を踏みながら怒鳴る。下の住民から苦情が来ないかなとぼんやり考えてしまった。
 ちなみにプリンを食べたのは、昼食の時楽しみに残しておいたエビグラタンのエビを千春が目を離した隙に歩に勝手に食べられたからその仕返しなのだが、彼女は自分がした事はとっくの昔に忘れているらしい。
「だからもう家出する! 千春ちゃんのばか!」
「出かける前はどこに行くかきちんと言っといてね。おばさんがよく言ってたから」
「それは子供の時の話でしょ!?」
 ぎゃーぎゃーと騒ぐ幼馴染みに付き合うのが面倒になってしまって、コンビニで買ってきたものを適当に冷蔵庫に仕舞う。煙草を買うだけのはずが他にも色々と買ってしまって予想外の出費になった。コンビニの魔力は恐ろしい。
 ソファーに寝そべりながら歩を見ると、彼女はべそをかいたような顔で荷物を鞄に詰めている。どうせいつも通り準備だけで何時間もかけたあげくやっぱりやめたとなるはずだから放っておく事にした。
 でも、今日の彼女は予想外に行動派だ。
 カチカチと携帯をいじくってから鞄を持って立ち上がる。千春をソファーから蹴り落としてから、乱暴に玄関まで歩いていった。しゃがみ込んで一生懸命に靴を履く。
「千春ちゃんなんてもう知らないんだから!」
 そしてばたんと扉を開けて出て行ってしまった。
 床に這い蹲りながら思わず呆然とする。いつもなら「夕飯までには帰ってきてね」とでもからかっておけばムキになって言い返してきて、そのまま口喧嘩を続けたあげくに諦めるのに。
 まさか本当に出て行くとは思いもしなかった。
「ちょっと歩――!」
 慌てて玄関まで走って扉を開けるけれど、もう歩の姿は見あたらない。アパートから出て辺りを見回したけれど、影も形も無かった。
 やりすぎたかなと反省しながら、とぼとぼと家に帰る。いくら親しくても、お互い許せない事くらいあるのだ。子供じみた仕返しなんてしなければよかった。
「……一応、謝っとこ」
 電話はさすがに出てくれないかもしれないけれど、携帯メールくらいなら読んでくれるかもしれない。
 本文に『ごめん』とだけ入力して送信する。携帯の操作は苦手だから、普段からあまり使わない。せめて返事くらいは返してくれるかなと思いながら新しい煙草に火をつけた。
 と。
――ピロピロピロリン。
 なんとも間抜けな電子音がすぐ側から聞こえてくる。具体的には、お隣さんの家の方から。この間歩が設定していた、浮き足だったイメージのするメロディだ。
 無言で食器棚からコップを取り出して壁に当てる。コップの底に耳を押し付けた。
(うわ、今の聞こえたかな!?)
(ちゃんとマナーにしといた方が良いって言ったじゃん!)
(だってぇ。あ、でもほらごめんだって。私が家出したと思って焦ってんだよ)
(見せて見せて。ほんとだ、結構可愛い所あるんだね千春さん)
 心配して損をしたと心底思った。
 歩と話をしているのはお隣さん宅の一人娘である、高校生の美夏の声だ。家を出る直前に携帯をいじくっていたのは、美夏とメールで連絡を取っていたんだろう。
(返事したげよっと。今新幹線の中だからとか言ったら焦るかなぁ?)
(実家に帰ってる途中って設定にしようよ)
(そうだねー。もうあなたとはやっていけないわ実家に帰らせていただきます、みたいな)
 楽しげな会話が聞こえてくる。コップを耳から話しても大体の内容は分かった。隠れているつもりなら、そんな大声で喋るんじゃないと思う。
 直後に千春の携帯が振動してディスプレイに歩の名前が表示された。一応、メールを開いてみる。
『今新幹線で実家帰ってる途中だからね。もう帰ってあげないから』
 本当に帰ればいいのに、この馬鹿は。
 うんざりとしながら携帯をいじって、少々時間はかかったけれど返事をしてみた。
(あ、返事きた! 『そんなこと言わないでよ。お願いだから帰ってきて』だって!)
(ひゃー旦那から捨てないでのラブコールですよ歩さん!)
(美夏ちゃんったらー。旦那なんて照れちゃうじゃない)
 千春はそっとその場を離れて、足音を立てないように玄関の方まで歩いていく。
 鍵を閉める音っていうのは結構響くものだから、代わりにチェーンロックをかけておいた。
(可哀相だし帰ってあげようかなー。どうもありがとね美夏ちゃん)
(いえいえ。また遊んでね、歩さん)
 あちらは足音を気にもせずばたばたと玄関まで走っていった。ばたん、と音がしてお隣から出てくると、ひとまず家の前で立ち止まったようだ。
「千春ちゃんっ! 反省してるみたいだから帰ってきてあげ、あ、あれ?」
 がちゃんがちゃん。
 歩は勢いよくドアを開けようとしたみたいだけれど、先程千春がロックをかけたために数センチ程度しか扉は開かない。
 彼女の想像では、帰ってきた自分を千春が泣いて謝りながら迎えてくれるようなハッピーエンドでも用意されていたんだろうか。
「ち、千春ちゃーん? 可愛い可愛い歩さんが帰ってきましたよー?」
 冷や汗を垂らしながらドアの隙間から必死に身体をねじ込ませようとしている歩を無視して、冷蔵庫からコンビニで買ってきた荷物を取り出す。
 一応歩に買ってきておいた、いつもよりワンランク上のプリンだ。
「ひょっとして寝てるの? 泣き疲れて寝てるから反応ないの? 千春ちゃんってばー!」
 全部食べた。
 美味しかった。


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