【君とはじめて会った日は】

 戸籍も血縁も繋がってはいないけれど、生まれた時からずっと一緒に育ってきた人間が千春にはいる。俗に言う幼馴染みというやつで、何をするにもどこへ行くにもいつでも二人、幼稚園から小中高と同じ学び舎へ通ったが、ついには学部は違えど大学まで揃えてしまい、共同生活を始めることと相成った。
 今まで通り笑って泣いて、時には喧嘩もしながら楽しく過ごす毎日で、それが、ほんの少し前の話。
 気付けば桜も散ってしまって、暖かくふくらんだ雲から雨粒が落ちはじめてきそうな、そんな季節だ。
「あなたわー、もーおっ、わすれタカシラー」
 ただ、彼女の頭の中は年中春らしいが。
 お隣に住んでいる美夏を含めた三人で先日行ったお花見の事など思い返しながら夕食の準備をしていたわけだが、酷く調子外れな歌――と呼んでいいのかも怪しい――を口ずさみながら部屋から出てきた歩を半眼で見つめる。リビングの中心まで進んだ彼女はその場でくるりとターンを決めて、両手に持ったアヒルのお風呂セットを高々と頭上に持ち上げた。
 腕を掲げた恰好のまま、びしりと千春に向けて指を突きつける。
「――そんなわけで千春ちゃんの大好きな歩さんは、こないだ新しく出来たスーパー銭湯に行きたかったり行きたくないわけなかったり!」
「家でいいでしょ」
 どんなわけだか知らないが、相変わらず唐突に物事を始めようとする女である。グリルに入った鯵をひっくり返しながら一蹴すると、指の形はそのままに続けてきた。
「本当はぱーっと温泉旅行にでも行きたいんだけど、予定立てるの面倒くさいしお金勿体無いでしょとか言われそうだから精一杯の譲歩案です」
「……いや、そんなに行きたいなら銭湯くらい別に」
「ほんと!?」
 実際その通りの事を答えるとは思うのだけれど、温泉と銭湯のあまりの落差に情けなくなる。確かに千春の財布の紐は固いが、小学生の小遣い程度の金額さえも渋るほどケチだと思われたくはない。
 ぱっと顔を輝かせる歩に、肩を竦めながら手招きした。
「ご飯食べたら行こうか。大根おろしてくれる?」
「千春ちゃん大好き! 世界一好き!」
「はいはい」
 上機嫌で大根の皮を剥く彼女をそのうち本当の温泉にでも連れて行ってやろうか考えつつ、千春は小さく苦笑いした。
 こんな約束で喜ばれては、言葉が安っぽくも聞こえるので。

  □ □ □

「――いやぁ、結構よかったね。思ってたよりかなり豪華だったし、また行こうよ」
 玄関の明かりをつけながら靴を脱ぎ、千春は満足そうに背筋を伸ばした。
 たかが銭湯と侮っていたけれど、なるほど現代の娯楽施設だ。様々な種類の風呂があるのはもちろんマッサージや岩盤浴の施設まで併設してあり、元々風呂好きなせいもあってか随分と長居してしまった。
 何度も通うよりいっそ住みたいくらいだねなどと笑いつつ、後ろの歩を振り返る。
「いやいやいや、おかしいよね?」
「……いや、そっちこそおかしいでしょ。行く前は喜んでたくせに何怒ってんの」
 真顔で手のひらを横に振られてため息をつく。どうも、先ほどからずっと姫の機嫌が悪いのだ。思い当たる理由は特に無く、むくれたままの彼女に首を傾げながらソファーに腰掛けた。
 無言のまま冷蔵庫から取り出した牛乳をパックのままあおって、どすりと歩も隣に座ってくる。
「わかんないの!?」
「え」
 珍しく真剣な顔で迫られて、思わず冷や汗を垂らした。
 気心の知れた仲とはいえ、いや、だからこそ自分でも知らないうちに彼女を傷つけてしまった事は、正直なところ何度もある。近頃は気をつけるように心がけてはいたのだけれど、ひょっとすると、また何かしでかしてしまったのだろうか。
 うろたえる千春をじっと見つめて、歩が問いかける。
「いい? 千春ちゃん、私のこと好きだよね?」
「……や、まあ、うん。改めて聞かれても、その、恥ずかしいんだけど」
「なのにだよ? 何、さっきの千春ちゃん。しんじらんない」
「え、と……」
 まずい。
 動揺して上手く働かない頭で必死に原因を考える。彼女の言い分から推測するに、歩を好きなはずの千春が信じられない行動を取った、ということだろうか。
 行動、といえば。
 そりゃ少しくらいは他の人を見たりはしたのだけれど別に浮気というわけではなくて単なる好奇心と言うべき些細な、いや、他人に好意を持っていると誤解されては困るがやはり気にはなるものだと思うわけでつまり。
 考えれば考えるほど言い訳がましくなる思考に硬直する。返事がない事に業を煮やしたのか、歩は静かに息を吸ってそばにあるローテーブルを力強く叩いた。
 ばしっと小気味よく響く音に、どきりとしながらあとずさる。
「――なんでせっかくの一緒にお風呂! かっこハートかっこ閉じ! 的な展開なのにラブっぽいイベント全然起きずに普通に帰っ痛いっ!」
「――アホか!」
 怒鳴られた言葉が終わる前に頭をはたく。
 あれだけ引っ張ってそれか。何を考えて生きていたらそんなしょうもない理由で真剣になれるのだ。馬鹿じゃなかろうか。付き合わされる相手の身になった事はあるんだろうか。もう一度言うと馬鹿じゃなかろうか。
「うう……だ、だってぇ」
「だってじゃない」
 沈んでいたソファーから涙目で起き上がってきた歩の頬をつねる。ゴリゴリと額を押し付けて近距離からしばらく睨み付けると、力無く背もたれによりかかって煙草に火をつけた。
「……なんかもういちいち怒るのも面倒くさいけど、今更銭湯行ったくらいで何かあるわけないでしょ。ていうか公共の場で何しろって――」
 はた、と考え込んで煙を吐き出す。
 ぎこちない動きで灰を落として、顔を赤らめながら彼女を眺めた。
「え、ひょっとしてその、そういうプレイ? が好きなわけ?」
「ばか」
 今度はこちらが軽いビンタを喰らわされて黙り込んだ。
 千春ちゃんのむっつりエロ助、とまで付け加えられて少々落ち込んでしまった千春に、歩はこぶしをふるって熱弁する。
「もっとこう、初々しくて甘酸っぱい感じを味わいたいじゃない! そわそわしながら服脱いだりとか! 恥ずかしいけど背中の流しっこしたりとか! 湯上り玉子肌な私に見とれてもらったりとか! 寒くない? って帰り道で抱き寄せてもらったりとか!」
「無理」
「即答しないでよぅ!」
 それであんな歌を歌ってたのかと納得しつつ、シャツの襟元にしがみついてくる彼女から視線を逸らす。妄想は、頭の中だけでやってほしいものなのだけど。
 とはいえいつまでも拗ねられたままでは困るので、出来る限りは説明してやるべきだろうかと肩を落とした。
「でもさ、やっぱ今更じゃないの? こっち来てからも銭湯はたまに行くし、修学旅行はずっと一緒だったし、家族旅行もあったし。小学校まではお泊りする度にお風呂一緒だったでしょうが。初々しさを求められても困るよ」
「そこ! そこだよ!」
「はぁ?」
 大人しく受け入れるどころか、ひらめいたとばかりに目を輝かせる歩に眉根を寄せる。
 まさか銭湯が駄目なら家のお風呂に一緒に入ろうなどと言い出されても困るのだが。いくら好き同士でも、あの狭い空間で二人きりになるにはまだ千春の心の修行が足りないわけであって。
――が、そこはさすが、自覚もなしに淡い期待を裏切ってくれる歩の事で。
「思うに千春ちゃんは、幼馴染みって環境に慣れすぎだと思うの。幼馴染みやめよう!」
「……いきなり私達の関係と思い出を全否定されても」
「あ、ほんとにやめるわけじゃないよ?」
 寄せていたはずの眉を情けなく下げる千春に能天気な声でフォローを入れて、人差し指を振りながら先を続ける。
 正直、本当に縁を切ると言われていたら泣きそうなところだった。
「あれだよあれ、しみゅれーしょんってやつ。はい、目閉じてくださーい」
「……」
 馬鹿らしいと思いつつも結局付き合ってしまう自分がいて、仕方なく煙草をもみ消してから瞼を閉じる。うっすらとした赤い光が透ける視界の中で次の指示を待った。
 隣から立って正面に移動したらしく、影が覆う。
「えーと、じゃあ千春ちゃんは今高校生です。入学式です。お互いの事ぜんっぜん知りません。で、生まれて初めて私を見た時の第一印象を言ってね」
「ん」
 言われるままに想像してみるけれど、なかなかイメージが掴めない。
 第一あの高校を選んだのは歩がいたからであって、他に進学したい理由は特になかったのだし。お遊びの設定についていちいち考えていても仕方が無いのでつっこまないようにするにしろ、千春の人生から歩を切り離すのは難しい。
 初めて、初めて、と心の中で復唱する。
 要は、思った事をすぐ口に出せばいいのではないだろうか。
「はい、どうぞ!」
「でかい?」
 ぴし。
 素直になってみたというのに、思い切りデコピンをされて身悶える。あえてどこがとは言わないが、印象に残ったものは仕方ないだろうに。
 恨みがましそうに額をさする千春を歩は笑顔で見下ろしてくるが、目の奥は笑っていないのが異様に怖い。いつもふざけてばかりのくせに、時々妙に乙女チックな思考回路に切り替わってしまうから困ったものだ。
 どんな答えを期待されていたのか知らないが、ここで千春が「すごく綺麗だ」だの「世界一可愛いよ」だの「君を一目見た瞬間に世界がばら色に変わったんだ」だのと言い出したら自分でも相当に気持ち悪いと思うのだが。
 でもって、こちらがその気の時に限って「え? あ、ごめんね、聞いてなかった。もう一回言って?」なんて言われたりもするので、タイミングが図りづらいことこの上ない。
――これはまあ、わざとやっているんじゃないかと感じる時もあるにしろ。
「……見るとこ違うよね? 私の顔はもっと上にあるよね?」
「高校の入学式っていえばさ、校門の桜のところで写真撮ったじゃん。前にアルバム見てて気付いたんだけど、うちの母さん歩にピント合わせてばっかで実の娘は適当にしか撮ってなかったんだよね。こっちは必死で受験したっていうのに、さすがに親としてどうかと思ったよ。そうそう、歩もこれやってみたら?」
「うん。露骨に話逸らす前にもっと言うことあるよね?」
「いいから目閉じなって」
「……」
 せっかく穏便に済ませようとしたというのに、しぶとく食い下がろうとする彼女の腕を引いてソファーに座らせ、今度は自分が立ち上がる。手のひらで半ば無理やりに瞼を下ろした。
 少し間を空けて、手を離す。
「はい、どーぞ」
「……怖っ」
 ぴし。
 開口一番失礼なことをほざいた歩の額に指を打ち付ける。自分から始めた遊びなのだから、もっと可愛げのある台詞くらい用意しておくべきだろうに。
「怖くない」
「ええー。なんか全然知らない人だって思うと怖いよ? すごい睨まれてるっぽい。目つきわるい。見下ろされてる感がすごい」
「……」
「……」
 犬歯を剥き出して否定したが、心外な答えに無言で皺の寄った眉間を揉む。
 どすりと隣に座りなおして、互いに長いため息をついた。
「ていうか、多分幼馴染みじゃなかったら歩とは一生話すことないと思うんだけど」
「あー。千春ちゃん、自分と合いそうにないって思ったらもう徹底的に関わらないよね」
「歩は?」
「私も多分、避けられてるなら無理に仲良くすることないかなーって思う」
「あー。昔っからそういう勘はいいもんね。誰とでも話すけど別にしつこくはないし」
「……」
「……」
 また、二人でため息をつく。
 当初の目的が何だったのか忘れそうになっていたが、これでは全然駄目ではないか。千春は歩の顔をろくに見てもいないし、歩は千春に対してマイナスイメージしか持てていない。仲良くなりたいという気持ちもきっかけもない。
 つくづく、幼馴染みでよかったと思う。
「……で、どこに初々しさがあったの?」
「あ、そういう話だったよね。おっかしいなぁ、どこで間違ったんだろ」
「音程から全部」
 首を傾げて考え込む彼女へ投げやりに呟いてからソファーに寝転がる。さすがに、これ以上付き合ってやるのはサービス過剰というものだろう。
 腕を伸ばしてテレビのリモコンを取る千春に歩がむぅと唇を尖らせるけれど、無視してチャンネルを切り替える。夜も更けてきたことだし、いい加減サスペンス劇場でも見ながらのんびりとしたいのだ。
「やだやだ。あきらめきれなーい」
「無理だっての」
 駄々をこねるように上に乗っかられてそっけなく答える。彼女自身もう無駄だと分かっていたのか、案外すぐにおとなしくなった。
 ただ千春から降りる気はまるでないらしく、抱き枕よろしくされたままの状態で頬に頭を押し付けてくるので鬱陶しいのに変わりは無いが。
 しばらくそのままぼんやりとしていて、手持ち無沙汰に歩の髪の毛を指でいじる。犬を飼っていたらこんな感じかなぁ、となんとなく思った。どちらかと言えば、つんとした態度の猫よりも思い切り甘えてくれる犬の方が好きだ。でもって、利口そうなやつよりも少しアホっぽいやつが可愛い。
 と。
「……何?」
「え、意味はないけど。ちゅーしたいなーって思って」
「あっそ」
 犬について想いを馳せていたところに突然キスをされて呻くと、あっけらかんと言われてそっぽを向く。この程度でいちいち照れていてもきりがないのかもしれないけれど、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
 変に抵抗するのも格好悪いかと平気なふりをしてみせたが、頬へ耳へと何度も唇を落とされるのがくすぐったい。身じろぎしながら耐えていると、あ、と小さく声をあげたので、いぶかしげに彼女を見上げた。
「千春ちゃん、こういう時の反応だけ初々しいよね」
「……ばーか」
「痛いってばぁ」
 誰のせいだ、誰の。
 納得顔の歩にもう一度デコピンを喰らわせてから体を離す。わざとらしくあくびをして立ち上がると、背伸びをしながら洗面所に向かった。まったく、ちょっと甘やかすとすぐ調子に乗るのだから。
「ねー、待ってよぅ。もう寝ちゃうの?」
 しょげた様子で後ろをついてくる彼女が、ますます犬みたいで笑えてくる。
 考えてみると、小さな頃からペットが飼いたいと親に我が侭を言ったことがなかったのは歩がいたせいかもしれない。本人に話せば拗ねてしまうだろうけれど、実際彼女の相手だけで十分楽しかったわけなのだし。
 昔からお互いをよく知っていて、ずっと一緒だったからこそ安心していられる。
 無理に変わらずとも、これはこれですごいことなのだ、と思う。


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