指先が錆びていく。
 ××に触れた箇所がじわりと熱を持ったかと思うと、深く噛みすぎてぼろぼろになった爪にまず赤い錆がぽつりと浮かぶ。それから赤色は細かな関節を一つずつ丁寧に侵していき、手のひらにもざらざらとした感触が広がっていくのだ。
 手首の辺りまで赤くなったかと思うと、すでに指先はもう無い。風化し、砂となって、飛んでいってしまっている。
 浸食は止まらない。錆が広がる。砂となって落ちる。その繰り返しだ。
 郁は自分の手足が錆びつき、崩れるのを黙って眺めていた。痛みはないのだから取り乱す事は無い。むしろ錆は郁のいらない部分を、優しくそっと削ぎ落としてくれているように感じるのだ。
 もう一度××に指で――いや、厳密に言えば指はもう無いのかもしれない。指のあった場所というだけで――触れてみる。柔らかかった。
 また錆が広がっていくのだろうか。
 考えた所で、目が覚めた。

   □ □ □

 雨宮佐和子は透明な人だと、椎名郁はいつも思っていた。
 教室の一番前の席に座っている。窓際で、強くなってきた陽射しがよく当たる位置だ。夏服の袖から伸びる華奢な腕は陶器のように白く滑らかで、ブックカバーに包まれた文庫本を手にしている。それを読むために俯いている綺麗な顔を、長く真っ直ぐな黒髪がさらさらと流れて半分ほど覆い隠していた。
 それを教室の後ろの方でぼんやりと眺めているのが、初めて佐和子を見た時――つまり梅雨の季節から一月ほどが経つ郁の日課だった。佐和子を眺めていると小川のせせらぎや穏やかな波の音でも聞いているような落ち着いた気分になれる。
 ただ、それが出来るのは一日のうちほんの十数分だ。佐和子が朝学校に登校してきて、ホームルームが始まるまで。それが過ぎると登校してきたクラスメイトのざわめきに紛れて、佐和子との距離は見えなくなるほど離れてしまう気がする。
 だから郁はこの一ヶ月間、一度も遅刻というものをした事がない。この学校に入学してからというもの一年と二ヶ月という長きに渡って遅刻を繰り返してきた郁にとってそれは奇跡に近い事で、周囲の人間は皆一様に驚いていた。友人も今に季節外れの雪が降るねとからかってくるけれど、佐和子を眺めるためなのだと説明したら彼女達はどんな顔をするだろうか。
 時季外れに転校してきた佐和子はクラスから浮いているように見える。友人達は、あまり喋らず冷ややかな顔をしている彼女が気に食わないと話していた。郁は佐和子に話しかけ、もっと近くでその顔を眺めていたいと思うけれど、自分の交友関係を円滑に進めるためにはその行為はきっと歯車を軋ませる錆になるのだろう。
 錆。
 そういえばこの頃よく見る夢にも、錆が出てくる。あれは一体何なのだろうか。破滅願望なんてものはまだ自分には無いはずなのだけれど。
 それに自分は、一体何に触れていたのか。他の部分は明瞭に思い出す事が出来るのに、いつもそれだけがぼやけてしまって分からなかった。まるで夢を映しだすためのモニターに、ぽつんと濃い染みが広がってしまっているみたいだ。
「郁」
 ふいに名前を呼ばれてはっとする。考え事をすると周囲が見えなくなってしまうのは悪い癖だと思っているのだけれど、直そうと思った事は無かった。
「聞いているの、郁」
「え、あ……」
 郁の机の前に立っている人物、つまりは声の主を動揺を押し隠しながらも見上げる。いつの間にここまで移動してきていたのだろう。彼女から垂れ下がる長い黒髪が風に揺れて、郁の頬にわずかに当たった。
「今日の放課後は、図書室にいるから」
 彼女の声をこれほど近くで聞いた事があっただろうか。言葉を交わす事すら初めてのような気がする。透明感のある心地の良い声だ。
 心臓がわずかに脈を早めたのを感じた。あの綺麗な顔だって、今は郁から50センチも離れていないのだ。
「……うん」
 なんとか返事をすると、「それじゃ」と彼女はあっさり自分の席へ戻っていく。一番前の、陽射しがよく当たる窓際の席だった。
 ああやはり、周囲が見えなくなってしまう癖は直すべきだ。
 席について再び文庫本を開く佐和子を、郁はぼんやりと眺め続けた。


 友人達との会話に、齟齬を感じ始めたのはいつ頃からだろう。
 例えば彼女達は実に楽しそうにクラスの男子や芸能人について語り合う。髪型や身だしなみ、性格についてを寸評する。時には気になっている男や付き合っている男についての相談を交わし、その内容はどのように告白をしようかといった甘酸っぱいものから、どのようなセックスをするのかといった生々しいものまで様々だ。
 そういう時、郁は自分一人だけぽつんと取り残されたような気分になる。
 表面上は分かったふりをして相槌を打ち、冗談を言って笑いを取り、悩み相談だってしてみせ、いかにも自分はみんなの仲間なのだといった顔をしているけれど、その間自分が何を考え何をしているのか良く覚えていなかった。
 小さな頃はよかった。男女の区別なんてあってないようなもので、郁もみんなと虫取りや秘密基地作り、ままごとやお人形遊びをして過ごしたのを覚えている。
 しかし、今はもう周りの友人達は全て『女』になってしまっているのだ。
 恋をするし、愛を育むし、子供だって作る。
 郁にはそれがよく分からない。誰かとそういう風になりたいと思った事がないし、思えなかった。身体だけは同じように成長してきたけれど、彼女達と自分の間にある深い深い溝はなんなのだろう。
 そういう話題についていけなければ余計に取り残されてしまうという漠然とした焦燥感があった。だから、自然と郁の中には会話を都合良く合わせられる器官のようなものが成形されてしまっている。その器官が働いているうちは毎日が楽しくなかったし、つまらなかった。
「待ちくたびれたわ」
 数ヶ月ぶりに図書室に足を踏み入れた郁を出迎えたのは、佐和子のそんな言葉だった。
 冷房が程よく効いた室内は快適だけれど、時計を見ると終礼を終えた時間からすでに1時間は経過していた。当番だった教室の掃除を終えたあと友人に捕まってしまって、それをなかなか抜け出せなかった事を簡潔に説明する。彼女達はこれからカラオケに行くそうで、珍しく誘いを断った郁を不思議そうに見ていた。
 図書室には他に誰もいない。佐和子が隣りにある椅子を無言で引いたので、郁も黙ってそこへ座った。彼女は机の上に何やら分厚い辞典を広げていて、読んでいるのか読んでいないのかよくわからないような速さでぺらぺらとその頁をめくっている。郁もちらりと読んだ事がある、新語や流行語などの現代用語が山のように書かれた辞典だった。
「……あの、雨宮さん」
 読書を進めるばかりで一向に話を切り出さない佐和子に、おずおずと声をかける。わざわざ放課後に呼びだすというのは、何か用事があっての事なんだろう。
 さすがに佐和子とは呼べない。出会ったばかりの人間同士というのは、まず一歩引いた立場で呼び合うべきだと思うのだ。
「どうしたの、郁」
 それでも彼女は、まるでそう呼ぶのが自然であり当たり前の事であるとでも言った風に郁の名前を呼ぶ。
 辞典から顔をあげた佐和子からは洋菓子のように甘い匂いがした。騒がしい教室の中では決して届かなかった香りだ。思わずいつものように彼女の顔をただただ眺めていたい衝動に駆られたけれど、実行するわけにもいかない。
「そのさ、用事ってなに?」
「用事?」
 問いかける郁に、逆に彼女は首を傾げてみせる。言うのを躊躇っているというより、何のことだか分からないといった風に。
「そんなもの無いけれど。今日は至って暇よ」
「え? だったら何で呼びだして……」
「私の予定を伝えただけで、あなたも来いとは言ってないじゃない」
 朝の彼女の言葉を思い出してみる。確かに、今日の放課後は図書室にいるという予定を伝えているだけで呼び出しの文句は入っていなかった。
 しかし、それなら郁が今ここにこうして座っている意味はないように思う。今ならまだ友人と合流してカラオケに行けるかもしれない。別にそれほどまでにカラオケが好きというわけではなくて、置いていかれるのが恐ろしいだけなのだ。たかが一度や二度付き合いを断っただけで仲間内から省かれるとは思わないが、そういう事に酷く過敏になってしまっている自分がいる。
 どうしていいか分からずとりあえず佐和子の隣りに座ったままでいる郁に、それならこうしましょうと彼女は付け加えた。
「あなたと一緒に過ごすのが私の用事。ここならお友達も来ないでしょう?」
 佐和子の言う通り彼女達は放課後を図書室で過ごすような種類の人間ではないけれど、どちらかと言えば郁も彼女達と同じ種類に属するので図書室で本を眺めて過ごすというのはうんざりしてしまいそうだ。しかしそれと引き替えにしても佐和子と二人で過ごせるというのはとても魅力的で、断る理由は無いように思えた。
 視線を辞典に戻す彼女の横顔を頬杖を突きながらじっと眺める。遠くから眺める姿も綺麗だけれど、近くで眺めるのも繊細な造りをつぶさに見て取れるようで好きだった。
「――いつも、そんな風に見ていたのね」
「え、あ、その」
 ぽそりと言われて我に返る。つい眺めていてしまったけれど、きっと普通は気分の良いものではないのだ。郁だってクラスメイトの誰かに毎日じっと見つめられているのを想像すると顔をしかめてしまう。
 それでも佐和子の声に嫌悪の響きは含まれておらず、むしろ楽しくて堪らないといった満足そうな響きをしていた。
「明日もここに座っているから」
 彼女の指先が伸びてきて優しく頬に触れる。ひんやりとしていて気持ちが良かった。
「郁がそうしていたいなら来るといいわ」
 それを断る理由は、勿論無かった。


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