学校へ行くと、いつの間にか一人では行動の出来ない生き物になってしまっている。
友人達と数人で連れ添っていなければ教室から移動する事が出来ないし、体育の前後に更衣室で着替える事も出来ない。休憩時間を過ごす事も食事を取る事も、トイレに行く事すら出来なかった。一人で行動をするという事はイコール友達のいない暗い奴なのだというレッテルを貼られてしまうような気がして、愛想笑いを浮かべながら『友人達』という一個の生物に寄生させて貰っている。
教室という枠の中にはこうして寄り集まった生物がいくつものグループとして存在していて、漠然とした順位までつけられていた。絶対的な発言力がありクラスの中心となる人物が集まるグループの周りを、それなりの発言権を持った普通の人種が集まるグループが囲む。そして隅の方には発言力の低い寄せ集めのようなグループが点在している。グループに属さない孤立した存在は発言権すら持たされていなかった。
郁が所属するグループは中心に近い場所に配置されていて、そこから排除されてしまうのはやはり恐ろしかった。ここにいるからには安定した生活が送れて、いじめなどの災害に遭う事もないのだから。
こういう事は馬鹿らしいと思いながらも、結局は自分も他人を見下す事で地位を維持しようとする嫌な人間なのだと吐き気を覚えていた。
「ああ、来たのね」
それでも放課後になれば友人達の誘いを断り、冷房の効いた図書室に通うようになってから一週間が経つ。
佐和子はいつものように本を開いていて、郁もいつものようにその隣りへ黙って座った。机に突っ伏して、頁がめくれる音を聞きながら彼女を眺める。
彼女は様々な種類の本を読んだ。辞典を読む時もあれば有名な推理小説やベストセラー恋愛小説を読む事もあり、料理のレシピ本すら愛読する。この日は泣いた赤おにという絵本の頁をめくっていた。
「今日はあまり読みたい本がないの」
彼女が図書室に滞在する時間は日によって違っていた。気に入った本を選ぶとそれをじっと読み耽り、下校時間まで残る事もあれば数十分で切り上げて帰る事もある。
彼女が今読んでいる絵本はもう終盤に差し掛かっていて、これを読み終わったら帰ってしまうのだろうなと思った。郁が図書室にやってきてから、5分と経っていない。
「雨宮さんの家ってどの辺りなの?」
尋ねてみると彼女は学校からあまり離れていない場所に住んでいるのだと言う。徒歩で10分もあれば通学出来るそうだ。郁は自転車で30分ほどかけて通学しているから、それは羨ましいねと答えた。
「だって、一番近いからこの学校にしたのよ」
なるほどそれは納得のいく理由だ。ぎりぎりの点数で入学して、試験の度に冷や汗をかいている郁にとっては賛同できないけれど。
佐和子が立ち上がって鞄を手に取ったので、郁もそれに続くように立ち上がる。特に話をする事もなく下駄箱で靴を履き替え、昇降口を出た。冷房というバリアに保護されていない外は蒸し暑くて、じわりと汗が噴き出してくる。
自転車置き場は校門から少し奥まった所にあって、ポケットから鍵を出しながら歩いた。夕方になっても眩しい陽射しは肌を焼いて、蝉の鳴き声は土砂降りの雨みたいに空から落ちてくる。
「雨宮さん?」
いつもはそのまま校門から出て行ってしまうはずの佐和子が、そのまま後ろを付いてくるので首を傾げる。とめてあった自転車の鍵を開け引っ張り出していると、彼女は前部に設置してある籠に自分の鞄を入れた。
「たまには、自転車で帰ってみたいの」
「……二人乗りは禁止されてるのに」
「見つからなければ大丈夫よ」
ハンカチで額の汗を拭いながら彼女は言い放つ。郁が渋々サドルにまたがると、後ろの貨物を乗せるための板に彼女は横向きに腰掛けた。確かにその板は高校生にとってダンボールや古雑誌を縛り付けておくためのものではなく、人を乗せるのに適した造りとなっているように思う。
「タダとは言わないわ。そうね、うちでアイスコーヒーでも飲ませてあげる」
要するに、それは家まで送るついでにあがっていってという事だと解釈した。
自転車が左右に揺れないように慎重にペダルを漕ぎ始める。校門を抜けてしばらくした頃になって、勢いをつけて漕いだ方が逆に安定するのだとようやく気が付いた。
自分以外の重みを乗せているせいもあって、汗が肌の上を玉になって流れていく。
「そこの角を曲がって。ほら、あの自販機の側」
後ろで佐和子が指示を出してくるのでその通りに進む。彼女は、二人乗りなんて初めてだと楽しそうに言った。ただ、と憂鬱そうに続ける。
「後でお尻が痛くなりそう。もっと静かに走れない?」
衝撃を吸収するための素材の一切無いその席は、自転車のタイヤが受けている衝撃をそのままに伝えている。
郁だけ疲れてしまうのは公平でないから、我慢すべきだと少し思ってしまった。
佐和子の家は実に日本的な造りの一戸建てで、その大きさは郁の父親がローンを組んで買った家など鼻で笑ってしまえるようなものだった。家――いや、屋敷を囲む塀は高く、『雨宮』と書かれた表札のある門の先には立派な玄関と玉砂利の敷き詰められた庭が見える。庭には小さな池があり、植木は見事な形に剪定されていた。
「これは……すごいね」
自転車から降りながらぽかんと呟く郁を置いて、佐和子はすたすたと玄関を通り過ぎた先を歩いていく。早く来なさいとでも言いたげだった。
「祖父の家なのよ。私も最初は驚いたわ」
そういえば佐和子は6月の初めに越してきたばかりだった。まだ、一ヵ月と一週間程度しか経っていない事になる。
この家には彼女の祖父母と叔母、そして彼女の四人で暮らしているという。両親はどうしているのか分からなかったけれど、詳しくは聞かなかった。郁が興味を持っているのは佐和子であって、その家族ではない。
祖父は留守のはずだけれど、祖母と叔母はいるはずだから静かにしていなさいと佐和子に注意された。
「挨拶とかしなくてもいいの?」
「……叔母にね、あなたを会わせたくないの」
苦々しそうに佐和子は答える。自分のような格好をした人間が嫌いなのかと聞いてみるが、そうではないらしい。郁としては周囲と合わせるように髪を染め、ブラウスの裾をだらしなく外に出し、スカートの丈を出来る限り短くするというのはあまり好きでは無いのだけれど。
「私があの人を苦手なだけ。郁は、私だけを見ていればいいわ」
恥じらう様子もなく言われてどんな反応を返せばいいか戸惑ってしまう。結局何も言えずに佐和子の後ろを自転車を押して歩いた。家の塀に沿って歩けば裏口があるから、玄関でなくそこから入るのだという。
裏口は壁の中に板が嵌め込まれただけといった感じの簡素なものだった。郁が脇に自転車をとめている間に、佐和子が鍵を開ける。
「私しか使ってないみたい」
ぎぃと蝶番が錆びた音を立てながら扉が開いた。まだ夕方だというのに、まるで忍び込むように屋敷の後ろ側から回り込むというのは妙な感じがする。
裏口の側にカーテンに閉ざされて中の見えないガラス製の引き戸――我が家では単に窓と呼んでいるけれど――があり、佐和子はそこを開いて中に入った。鍵はかけていないらしい。
手招きをされたので靴を脱いであがらせてもらう。締め切っていた室内は熱気がこもっていて、エアコンの作動し始める音が静かに聞こえた。そこが彼女の部屋のようで、低いテーブルと壁際に置かれたベッド、それにぎっしりと中身の詰まった本棚とタンス以外にはいくつものダンボール箱がうずたかく積まれている。佐和子には悪いけれど、事務的に整理された物置のようだと思ってしまった。
「汚い?」
「いや、まあ……綺麗とは言い難いけど」
「引っ越す時に全部持ってきたのはいいけど、使うものって案外少ないの」
それなら捨ててきてもよかったのではないかと提案すると、自分は物を捨てられない人なのだと彼女に却下された。小学生の頃に使っていた教科書まで残してあるという。
「飲み物を取ってくるから、ベッドにでも座って待っていて」
「ん」
今度はきちんとドアを通って部屋を出て行く佐和子を見送って、言われた通りベッドに腰掛けた。郁の部屋にあるものよりはるかに柔らかく快適な座り心地だった。
一人でぼんやりと考えてみたのだけれど、今日は今までで一番多く佐和子と言葉を交わしている。その笑うでも泣くでもない淡々とした合計時間は郁が友人達に笑顔をふりまいている時間よりもはるかに少ないのだけれど、とても濃厚で貴重な時間のような気がするのだ。実際こうして考えている間も例の器官は働いていて、郁の手は携帯電話に絡みつく友人達のメールに的確な返事を打ち込んでいた。
「郁」
声が聞こえて顔をあげる。ああ、何故こうも同じ事を繰り返してしまうんだろうか。考え事をすると周囲が見えなくなる癖は一週間経った今でも直っていない。
アイスコーヒーの入ったグラスが2つとクッキーを何枚か乗せた皿が載った盆を持ってきた佐和子は、それをテーブルに置いてから自身もベッドに、郁の隣りに座った。
そのまま何も言わずにグラスの中の真っ黒な液体を口にするので、郁も何も言わずにグラスの中にミルクとシロップを垂らしていく。会話がないというのは友人達と過ごしている間は苦痛なものだけれど、佐和子と二人でいる間は何故だかそれすらも心地が良かった。あの器官が無理に働いていないせいだな、と何となく思う。
不純物である白い濁りの一切見えない透明な氷を口に含んで噛み砕いた。冷たさが口内に染みいって、暑さで溶けかけた脳を爽快にする。
「ねぇ、郁は私の事が好きなの?」
「……何を唐突に」
まるで出された料理は好みに合うかどうかを尋ねているような気楽な口調で言われて、思わず氷をカリカリとやっていた口の動きが止まる。
グラスに唇を当てながら、だってと佐和子は続けた。
「私は、私を眺めている時の郁が好きだもの」
だから予定にあなたと過ごす用事を組み込む事にしたのと付け加える。
どう答えればいいのかと郁は黙り込んでしまう。彼女のいう好きとは何のことなのか、それがよく分からないのだ。友人として好きというには自分と彼女は些か交流に欠けている気がするし、友人達が女として使っている好きというのは通常は男女間で交わされている言葉である。
それでは聞き方を変えましょうと佐和子は苦笑する。
「私を見ているのは好き?」
「……好きだよ、すごく」
「私と一緒にいるのは好き?」
「うん、好きだと思う」
少しずつ考えながら答えていく。持ったままでいるグラスの中の氷が溶けて、代わりに浮かび上がる結露が手のひらを濡らした。
顔は、髪の毛は、指の先は、足は、自らの身体の部位を細かく佐和子は聞いてくるものだから、郁はその全てに好きだと答える。
「ほら、つまり私が好きって事じゃないかしら」
勝ち誇るように微笑む彼女に言われて、なるほどとは思う。それでもすぐにそうと認めるわけにもいかず、まだ最初の質問には答える事が出来なかった。
「……案外強情なのね」
溜め息をつく佐和子の顔が急に近付いてくる。唇に何か柔らかいものが触れて、すぐにまた離れた。ああ、今触れてきたのは彼女の唇だったのかとワンテンポ遅れて気付く。
間抜けな顔をしたままの郁に佐和子は不満そうな表情を浮かべた。もう一度顔を近づけてきて、今度は随分長い時間唇に触れる。
「――っあ、あまみや、さん」
「あなた、少し反射神経が鈍いんじゃないの?」
ようやく耳まで赤くなりながらしどろもどろに名前を呼ぶと、彼女は呆れたように自分の唇を指でなぞる。そう言われてもこのような体験は郁にとって初めてで、どのように対応すればいいのかといった情報は脳にも器官にも記されていなかった。
「もう一度私とキスしたかったら、素直に好きと言えばいいのよ」
郁の顎を指先でくいと持ち上げながら言ってくる彼女は、薄々とは思っていたけれどまるで女王のようだと感じてしまう。一ヶ月も眺めていた、一枚の絵画のように透明なイメージの雨宮佐和子はどこへ行ってしまったのだろう。
かといって、これは自分が眺めていたかった佐和子ではないと思う事もなかった。その時見た気分で風景の印象が変わってしまうように、このような佐和子も眺めていたい。
だから郁の唇は自然と佐和子の求める答えを紡ぐために開いてしまっていて、次の瞬間にはすぐにまた佐和子によって塞がれていた。
ミルクもシロップも入っていないその味は、ひどく苦い。
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