昔から何かある度に、郁はお姉ちゃんでしょうと両親に叱られた。
 未来はあんなにしっかりしてるのに、どうして郁はいつもそうなの、だとか。未来は学校で賞まで貰ってきたのに、郁のこの成績は何? だとか。未来はよく家の手伝いをしてくれるのに、なんで郁は怠けてばかりなの、だとか。自分達がそういう順番に産んだくせに、とにかくことあるごとに妹と自分を比べたがる。
 未来自身が郁に悪意を持っているわけではないから、姉妹仲は良い方だとは思うけれど――それでも時々、両親には未来さえいれば良いのではないかと考えてしまう事がある。
 友人達は妹をよく知らないから、比べられたりはしないけれど。
 例えば好きな人の話や、流行りの音楽の話や、服装や化粧の話。そういう話題についていけないと子供っぽいと馬鹿にされてしまいそうで、無理にでも大人の真似ごとをしようと躍起になった。見てくれだけでも誤魔化せれば良くて、中身が伴っていない違和感を押し殺そうとした。
 きっと、誰かに自分を認めて欲しかったんだと思う。
 仲間に入れてもらいたくて、必要とされたくて、えらいねと褒められたくて、流されるまま他人に迎合する。
 みなみは郁が欲しがるものを全て与えてくれた。郁は親友。郁じゃないと駄目。郁はえらいね。郁が、好きだよ。
 彼女の言葉はまるで魔法だった。口に出された途端に頭の中がじんと痺れて、何も考えられなくなって、そばを離れられなくなる。
 だから。
「ねぇ、郁ってさ。みなみとずっと一緒で疲れない?」
「え?」
 教師に呼び出されたみなみが教室を離れている間に友人から尋ねられた言葉の意図が上手く理解できなくて、郁は思わず聞き返した。同じような事は、過去に何度もある。
 ぼんやりと椅子に座ったまま見上げる郁に、「だって」とひっそりと声のトーンを落として彼女は続けた。
「わがままじゃん、あの子。外面はいいけどさー、結局自分が一番っていうか、うちらの事勝手にまとめたがる所あるでしょ。ウザくない?」
 要するに、陰口を聞かされているのだ。相手がいない場所で不満を漏らす事は確かによくあるけれど、自分もひょっとすると裏では何か言われているのかなと考えると胸の奥が痛くなる。みんなには好かれていると思っていた彼女でさえこうなら、尚更だ。
「……そう、かな」
「ね、郁もやっぱそう思うよねー」
 考えた事ないよと否定の意味で繋げたかったのに、何がやっぱりなのだろう。
 同調者を見つけたと勘違いした友人は更に不満を連ね続けて、適当な理由をつけて抜け出せないかなと曖昧な返事ばかりしながら爪の先を弄る。聞いていたくないならそんな話はもうやめようとだけ言えばいいはずなのに、流されるまま困った顔しか出来ない自分が一番嫌だった。
「――ねぇ、何の話してんの?」
 視界の外から肩に触れてきた手のひらにぎくりと身を強張らせる。戻ってきたみなみが長い髪の毛をかきあげながら笑顔で友人を見据えているのが気配で伝わってきて、目の前の彼女は一瞬息を詰まらせてから取り繕うように笑った。
「その、昨日テレビでやってた映画の話。ね?」
「ん」
 変り身の早さに呆れながら合わせるように郁も頷く。みなみは興味なさそうに「ふぅん」と呟いて、そそくさと離れていく友人を見送った。
 少しだけ考え込むように唇を指でなぞるみなみに、どうしようと不安になる。内心はどうあれ郁が友人と彼女の陰口を共有してしまったのは事実で、不愉快に思っているかもしれない。
 何か言おうとしても空気の塊が喉を通り抜けるだけで声は出なかった。その場しのぎの嘘をついたって、すぐに見抜かれてしまうだろうから。
「なんていうか、分かりやすいよね。あれも、郁も」
 斜め前の方にある席に戻っていく間際に、俯いていた郁の頭をくしゃくしゃと撫でていった彼女の声がやけに耳に残る。始業のベルが鳴ってからも、みなみの横顔ばかりをうかがってしまった。
 教師の話を聞きながら黒板を眺めていたり、隣りの生徒と小声で話をしたり、ノートにすらすらと文字を書き写していたり。一見いつもと同じなのに、時折唇を指でなぞっては小さな悪戯を思い付いた子供のようにこっそりと笑う。
 何を考えているのか、郁には分からないけれど。
 きらきらと水面が光る代わりに暗い底が見えない湖みたいで、綺麗だった。


 用事が出来たから一緒に帰れない。
 みなみにそれだけ告げられて、中身が殆ど入っていない鞄をぶら下げながら今日は一人で昇降口を出た。何か手伝おうかとは尋ねてみたけれど、郁が気にするほどの事でもないからと一蹴されては仕方が無い。声が聞きたいし夜に電話するねとは言われたから、見捨てられたわけではない――と思う。
 他の友人を誘おうにも、みなみがいないとなると気が乗らない。考えてみると郁が誰かと遊ぶ時は決まって彼女も一緒で、郁個人で成り立つ交友関係は無いに等しい。別に独りでも回路はきちんと繋がるのかもしれないけれど、間違いを犯してしまった時にそれを正してくれる存在がいないと不安でたまらなかった。
 外は、少しずつ涼しくなってきている。
 この頃は寝付きが悪いせいか家族に何度起こされてもベッドを抜け出せなくて、今朝は母親が運転する車に乗って登校してきたから自転車を家に置いたままだ。鞄の中に突っ込んでいた携帯電話を取り出してバスの時間を確認しながら校門を出ると、少し先に見慣れない乗用車が停まっているのが見えた。真っ赤な色をしていて、車高が低くて、二人くらいしか乗れそうにない。詳しくはないからよく分からないけれど、なんだか高そうなスポーツカーだ。
 誰かを迎えに来たのかもしれないけれどこんなに派手だと逆に恥ずかしいだろうなぁと思いながら右側を通り過ぎようとしたのに、足が動かなくなる。
「久しぶり」
「……あ」
 窓から伸びてきた腕に引き止められたのだと、声をかけられてからやっと気付いた。一人だと気が緩んでしまっていてどうも駄目だ。
 運転手は20代後半ほどの、縁無し眼鏡をかけた神経質そうな女性――佐和子の叔母である冴子だ。正直に言えば二度と会いたくはなかった。雨宮佐和子に関連しているからというのも勿論だけれど、彼女にはあまり良い印象がない。
「その、雨宮さん待ってるなら一緒じゃないですけど」
 出来るだけ素っ気なく答えて離れようとしたのに冴子は眉間に皺を寄せるばかりで、剥きだしの腕を余計に強く掴んでくる。苛つきながら靴底を鳴らす郁を怪訝そうに眺めて、確認するように尋ねた。
「……あなた達って同じクラスじゃないの?」
「え?」
「あの子、今日は学校休んだんだからいないに決まってるじゃない」
 そう、だっただろうか。
 言われてみれば確かに佐和子の姿を見かけていないような気もするけれど覚えていない。郁が教室に入ったのは担任が出席を取っている途中だったし、みなみに注意されるのが嫌で彼女の席がある方へはなるべく目を向けないようにしている。
 佐和子がいないのなら冴子に一体何の用があるのだと思ったけれど、大体の察しはついた。彼女は随分と姪を溺愛しているようだから、調子を崩した佐和子を心配して郁に様子でも聞きにきたんだろう。
「乗って。話があるから」
 案の定助手席を顎で示されてうんざりする。人には誰かに頼ろうとするななんて言っていたくせに、自分には守ってくれる大人がついているのだから勝手な話だ。
「……妹と約束があるから、早く帰らないと」
「なら家まで送っていくわ。その間に話を済ませばいいし、問題はないはずよ」
「でも」
 遠回しに断ろうとしているのに、一度車を降りてまで強引に助手席に押し込められる。すぐに火をつけられた煙草の匂いと、慣れない芳香剤の匂いが混ざりあった独特の臭気に顔をしかめながら鞄を膝に抱いた。
 サイドミラーに映る学校がどんどん遠ざかっていって、エンジン音が鳴り響く世界で彼女と二人きりになる。
 冴子は、しばらくの間何も言わなかった。
 面倒事なら早く終わってしまえばいいのに、じりじりと赤く燃えながら灰になっていく煙草が備え付けの灰皿で揉み消されるまでの時間は気が遠くなるほど長いように思える。
「――佐和子に何をしたの?」
 始めから決め付けているような口調で問われて気分が悪い。
 紫煙を吐き出しながら前を見据えている冴子の声は随分と冷淡で、こちらの事情なんて何も気にしていない様子だった。ハンドルをきる角度だって郁の家とは見当外れな方向ばかりだし、送るなんて言ってもこちらの家がどこにあるか把握しているわけがない。
 ハメられた。これでは実質、軟禁されているようなものだ。
「別に、何も……」
「本当に? 私、前に言ったわよね。あなたのせいで佐和子に何か起きたら、許さないって」
「だから何もしてませんってば!」
 手のひらに感じた痛みを思い出して、つい語尾が荒くなる。郁は何もしていない。郁のせいじゃない。彼女が、拒絶したのが悪い。
 第一、不満があるなら直接言えばいいではないか。他人からどう言われようと本人から伝えてもらわなければ釈然としなくて不愉快なだけなのに、自分は安全な場所に隠れておいて別の人間を盾にするだなんてそんなの卑怯で――
 ぎり、と奥歯を噛み締める。
 これはあの日、郁が佐和子に求めた行為そのままだ。彼女からの遠回しな仕返しだとすると、随分とひねくれた事をしてくれるじゃないか。
「……雨宮さん、体が弱いんでしょう? 彼女の具合がどうだって、私には関係ないじゃないですか」
 声を絞り出しても、冴子からは鼻で笑うような短い溜め息しか返ってこない。
 苛立ちが車内に蔓延していて息苦しかった。立場を順位付けるなら、弱いのはきっと郁の方だろう。
 このまま逆らっているよりも今だけ適当に流されて相手の命令を聞いておいた方が楽だよ、と器官の中でもう一人の自分が言う。どうせ、責任逃れしかお前には出来ないんだから。主体性なんて、かけらも持っちゃいないんだろう?
 全部本当の事だ。そんなの、郁が一番良く分かっている。
「なんで姉さんも佐和子も、ろくでもない奴ばかり引っ掛けるのかしら」
 新しい煙草に火をつけながら冴子が小声で独りごちた。
 本人を隣りにして、よく平気でろくでもないなんて言葉が出せる。もっとも、わざと聞かせているのかもしれないけれど。
「体が弱いなんて都合良く解釈するのやめてくれない? 自慢じゃないけど、あの子人一倍丈夫なのよ」
 じゃなきゃあんな寒い部屋に平気な顔して住めるわけないでしょ、と腕を伸ばしてエアコンの設定温度を下げてくる。冷たい風が前から吹き出してきて、郁の胸元をからかうように叩いた。
「様子がおかしくなったのは、あなたが来てからよ。あなたが馬鹿みたいにびーびー泣いて家に来た日から、具合が悪いってご飯も食べない。佐和子は何も言ってくれないけど、あなたのせいとしか考えられないじゃない。それとも何? 佐和子が急にダイエットでも始めたってわけ? そんなはずないわよねぇ」
 敵意を剥き出しにした獰猛な笑みと共に一気に捲し立てられて体が竦む。冴子個人の感情でここまでするわけがないと思っていたから「佐和子は何も言ってくれない」というのが気になるけれど、どっちにしろ第三者からこんなにも責め立てられるなんて割に合わなかった。
 郁は、佐和子を好きになっただけだ。
 始めはただ綺麗な子だなと思って眺めていたけれど、言葉を交わすようになってからは素のままでいられる事に安らぎを覚えて、彼女の少し強引で――それでも決して強制する事のない不思議な気紛れさにもっと惹かれていって。でもその分、前まで上手くやれていたはずのみなみとの関係がこじれてきた。郁が素であればあるほど違和感と圧迫感に耐えきれなくなって、みなみから逃げ出したい一心で佐和子に縋りついてしまって、結果的に今度は佐和子との仲がこじれてしまう。だからまた、嫌で堪らなかったはずのみなみに飼い慣らされる事を選んでしまった。
 佐和子を好きにさえならなければこんな事にはならなかったかもしれない。みなみだって今ほど郁に執着する事もなくて、多少ぎこちなくとも普通の友達として接していられたかもしれない。
 それでもやっぱり、好きになってしまったんだからどうしようもなくて。独りになるのが怖いんだからどうしようもなくて。
「……うっく」
 急に、ぼろぼろと涙が溢れてきた。どうしようもないわけじゃない。どうしたら良いかが分からないから、こうなったんだと思う。
 佐和子が郁を拒絶したのにはたぶん彼女なりの理由がある。みなみが郁を束縛するのにもたぶん彼女なりの理由がある。冴子が郁を責め立てるのにもたぶん彼女なりの理由があるだろう。
 流されてばかりの郁には、それがないのだ。
「あのね、私は佐和子と何があったかを質問してるだけ。泣かれてたんじゃ答えにならないじゃない」
「ごめ、なさ……」
「だから泣くなって言ってるの。嫌よね、ガキは泣いて謝ればそれで済むと思ってるんだから」
 吐き捨てるように言われても涙は止まってくれなくて、混乱した思考ではごめんなさいと途切れ途切れに繰り返す事くらいしか出来なかった。
 もう、何に謝っていて誰に許して欲しいのかも分からない。泣いて謝れば全て済むならどんなに楽だろうか。嫌でも体は大人になっていって、子供のままじゃいられないのに。
「……ほら、家どこ? ああもう、調子狂うから泣くのやめなさいってば」
 がりがりと頭を掻きながら吸い殻を灰皿に押し込む冴子に、大まかな地名と目印だけをなんとか告げる。学校の周辺をあてもなくぐるぐる回っていただけのようで、近所の見慣れた道まで差し掛かってからは指で指し示しながらゆっくりと進んだ。
 少しくらい歩けばいいと思ったのだけれど目立つだろうしみっともないと家の前まで送り届けられて、手の甲で瞼を擦りながら車を降りる。殆ど無言だった冴子は、郁が助手席のドアを閉めるとすぐに来た道を引き返していった。
 幸いまだ誰も帰っていなかったようで、牛乳の配達箱に入れてある合鍵を使って中に入る。薄暗い廊下と階段を通り抜けて、着替えもせずに自室のベッドに潜り込んだ。慣れ親しんだマットの感触が心地良い。
 うつらうつらとしていただけのつもりが、聞き慣れた電子音が鳴り響いて気怠い体を起こす。階下から聞こえてくる両親と未来の笑い声と真っ暗になった部屋の景色からすると、随分長い時間眠ってしまっていたみたいだった。
 鞄に入れっ放しにしていた携帯電話を開いて、着信先を見ないまま耳に押し当てる。
「もしもし……?」
『あ、郁? どしたの、ひょっとして寝てた?』
「ん……」
 みなみの声だと、一瞬遅れてから気付いた。そういえば夜に電話すると言っていたっけ。
 会話の内容は特に取留めのない普通の世間話で、調子からすると上機嫌そうに聞こえる。本当にただ郁の声が聞きたいだけの、不安に思う事なんて何もない電話だった。頭の中がぼやけたままで、相槌しか打ててはいないのだけれど。
『なんか、元気ないね。具合悪いの?』
「まだ、ねぼけてるだけだと思う」
『そう? 別に明日も会えるんだし無理しなくていいからさ、辛くなったらちゃんと言うんだよ』
 いつものように顔を覗き込まれるのではなくて機械越しだからなのか、みなみは純粋に郁を心配してくれているだけで裏側まで勘繰ろうとしている感じはしない。何度か相槌を打った後、おやすみと互いに声をかけたのを合図に通話を切った。
 少しずつなら、親友でいられる。少しずつなら、優しいみなみでいてくれるのに。
 彼女との関係に間違った部品を混ぜてしまったのは郁なんだろうか。欲しいものが多過ぎるからと欲張りになって、大事な部品をそっちのけにしてしまったから。
 器官からは相変わらず甘い声がする。周りがそうさせているんだから郁は悪くないよ。少しずつでも積み重ねていけば見た目はそんなに変わりないじゃないか。欲しいものさえちゃんと受け取れているなら満足したらいい。
 ああ、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 どうしたら良いか、分からなかった。


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