ゆるりゆるりと動いていたはずの世界が、いつの間にか停滞している。
 半透明になった肌に纏わりつくのは粘ついたタールのように重い感触で、一定のリズムを刻みながら脈打っていたはずの心臓の音の代わりに聞こえてくるのは不愉快な耳鳴りだけで、瞼を閉じれば視界には鈍い輝きをした赤色だけが広がっていった。
 そんな状況の中では歩き出すのも億劫になって、郁はぼんやりと地面にしゃがみ込む。世界が停滞しているのなら、自分だけが動き出してしまうのは不自然だ。
 不自然という事はつまり周囲に溶け込めていないという事だから、上手く馴染むためには決して流れに逆らってはいけないのだという強迫観念めいた思いばかりが胸に膨らむ。
 誰か別の人間が手を引きに来てくれるまでこうしていようと考えて、辺りに散らばった砂を両手いっぱいに掻き集めた。幼い頃砂浜に埋まって遊んでいたように両足を塗り固めて、束縛される重みに安堵する。一人やみくもに歩こうとするよりも、ずっとずっと楽だ。
 思考を止めた瞳に映るのはただ、鈍く赤い、錆の色だけ。

   □ □ □

 俯せになっていた後頭部を何か平たいものでぺしんと軽く叩かれて、その衝撃で目が覚めた。
 腕に押し当てていたせいで光の調節がうまくいかない瞼を擦りながらぼんやりと顔をあげる。出席簿を手にした老年の女性教師が、呆れ顔で隣りに立っているのが見えた。
「……おはようございます松屋先生」
「はい、おはようございます。もう4時間目ですけどね」
「え」
 机の上で広がったままになっていた数学の教科書を指でつつかれて慌てて掻き集める。そういえば彼女が受け持っているのは古典であって――
「あれ」
 次の授業は現代文のはずなのに、何で松バァが1組まで来ているのだろうと一瞬首を捻る。ついにボケたのかとクラスメイトに目で合図を送ろうとして、納得した。夏休みボケしていたのは郁の方だ。
「目が覚めたなら、早く自分の教室に戻った方がいいですよ」
「……はい」
 赤くなった顔を俯かせながら筆記用具を掴んで、くすくすと堪え切れない様子で忍び笑いを漏らしている2組――隣りの教室を後にする。英語と数学は1組と2組の合同授業で成績別にクラスが二つに分かれているから、つまり郁は教室移動をしたまま居眠りをしてしまっていたのだ。
 忍び笑いが爆笑に変わった室内をなだめる松屋の声を廊下で聞きながら、先ほどの教室にいた友人にメールを送る。気付いていたはずなのに何故起こしてくれなかったのか、恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
 返事はすぐに返ってきた。一応起こしてはみたけど郁が起きなかったのだという内容と、でも今のは面白かったよという内容に脱力する。あんなに簡単に目が覚めたのだから、絶対わざと悪戯をされたに決まっている。
 おかげで現代文を教えている担任教師には新学期早々たっぷりとお説教をされてしまったし、クラスの連中にも散々笑われてしまって最悪だ。
「郁、まだ怒ってんの?」
 登校途中にコンビニで買ってきたおにぎりをそっぽを向いて囓っている郁に、みなみがけらけらと笑う。昼はいつも机を何個か寄せあって5、6人で食べているのだけれど、みんな休憩時間を跨いで寝こけていた自分の事を話の肴にしているのだから、怒っていない方がおかしいと郁は思う。
 ろくに咀嚼しないままガツガツと一つ目を食べ終えて、みなみが飲んでいたペットボトルのお茶を半分近く飲み干してやった。
「……何で起こしにきてくれなかったのさ」
 確かに数学の授業ではみなみと別のクラスだけれど、郁が教室に戻っていない事には気付いていたはずだ。彼女が迎えにさえ来てくれれば恥をかく事もなかったのにと不機嫌そうに唇を尖らせると、ごめんねと軽い口調で謝りながら頭を撫でられた。反省する気はないらしい。
「行ったけどさー、郁ってばマジで寝てるんだもん。机占領されてるせいで藤川が座れないって困ってたのは悪かったけど、起こしたら可哀相じゃん?」
「私なら、先生に怒られる方が可哀相だと思うけど」
「だからごめんって」
 相変わらず、悪戯の首謀者は軽い口調で謝りながら笑った。
 こちらが心底腹を立てているわけではないと分かっているせいか友人達もみなみに同調して再び笑い始める。その中の一人が、二つ目のおにぎりに手を伸ばした郁にこんな事を言った。
「でも、松バァに言われるまで気付かないのがウケるよね。郁ってやっぱ反射神経鈍いんじゃない?」
「別にそんな……」
 そんな事ないよと返そうとしたのに、頬が引きつって上手く笑えない。きっと、同じような台詞を誰かに言われた事があるからだ。
――あなた、少し反射神経が鈍いんじゃないの?
 ビニールパックに包まれた昼食が手のひらの中でぐちゃりと潰れて歪む。食欲が急に失せてしまって、友人達に見られないようにそっとコンビニの袋に腕を突っ込んだ。
「そんな事、ないよ。それより松バァって最近さ」
 どこか人を小馬鹿にして楽しんでいる意地の悪い言葉が自然と口から流れでてくる。あのまま澱んだ空気に沈められるより、それを誤魔化すために他人をけなして優越感に浸る方が楽だと思った。
 ひとしきり笑って、また別の話題へ。そして、また次へ。
 飽きやすい友人達の話の種から自分がすっかり除外された事を確認して安堵する。適当に愛想笑いを返していると、ふいに隣りに座っていたみなみに腕を引かれた。
「行こうよ」
 どこへ行くのかは尋ねない。ただ何でもないような素振りで頷いて手を繋ぐ。
 トイレにでも行くんだろうなと周りが二人を気にする事はなかったし、気にされてもいけなかった。あくまで仲の良い友達同士として振る舞うのが彼女とのルールだ。
 手を引かれたまま教室を出たけれど、移動する先は決まっていなかった。人がいない方へいない方へと歩くのが、みなみはとても上手だ。まだ夏休みが終わって数日しか経っていないけれど、何度も一緒に行動していればすぐにその事に気付く。
 2階から、最上階である5階まで。美術室やパソコンルームがある階で、生徒が普段から集まる教室は配置されていない。昼休みだからか、やけに閑散としていた。
 彼女が選んだのは一番端にある空き教室だった。予備の机や椅子がいくつも隅に積んであって物置に近い。当然冷房も作動していないから、扉を開けた途端じっとりとした熱い空気が肌に纏わりついた。
「郁」
 静かに名前を呼ばれて身を竦ませる郁の頬に手のひらを添えて、背伸びをしながら口付けられた。そのまま、抵抗する事なく受け入れる。
 要するにこれは、単純なゲームなのだ。主催者が彼女で、参加者が自分。ルールも至って簡単なもので、郁はただみなみの機嫌を損ねないように言う事を聞いてさえいれば良い。そうすれば独りになる事はないし、弱い自分を守って貰えた。
 室温のせいか、頭の中がぼんやりと濁る。唇を離した後も彼女は体をこちらに預けたままで、指の先を弄ぶように撫でた。
「休み明けのテスト、いつもより成績良かったね。えらいよ」
「……みなみが教えてくれたとこ、出たから」
「そうだね」
 実際、自分でも驚いてしまうくらい問題はすらすらと解けた。回答用紙を返却している時の教師の顔を思い起こしてみるけれど、誰かに褒められるというのは何だか自分の価値が上がったような気がして気分が良い。
 彼女がいなければ、こうもいかなかったろう。
「でも」
 逆剥けを千切ってしまったせいで血が滲んでいた箇所を押さえられて、小さく痛みが走る。失敗したなぁと他人事みたいに内心で呟いた。
「爪噛むのも、治ってないし」
 だらりとぶら下げていた手首を掴んで顔の前まで持ち上げると、爪の具合を一つ一つ確認するように唇を寄せられるのがくすぐったい。
 注意を払っていても、無意識に行ってしまうのだからどうしようもないのだ。
「……あいつの事も、考えてたみたいだし」
 本当に、どうしようもないのに。
 彼女に満足して貰えるラインが分からない。いくらルールに従おうとしても些細な事ですぐに咎められて、神経が少しずつ磨耗していくのを感じた。
 以前に比べて、みなみは随分と過敏になってしまったような気がする。依存される事に依存していて、思い通りになるほど不安になる。独りになるのを恐れているのは郁の方なのに、見ていて哀れだ。
「郁はあたしと、親友でいたいよね? 見捨てられたくないよね?」
「うん」
「郁が好きなのは、あたしだけだよね?」
「うん。みなみが、好きだよ」
 もう、何度も同じ事ばかり尋ねられている。
 それなら許してあげると彼女は微笑んで、郁が腰を屈めるとまた口付けてきた。舌を絡めて浅く呼吸をしながら、ただの親友ならこんな事はしないんだろうなと考えるけれど、あの人と同じかそれ以上の事まで競り勝つように彼女は求めてくる。
 疲れてしまうのは確かだけれど、今はみなみが可哀相だった。
 必要とされているなら、それで良い。


 5時間目の予鈴が鳴る前に何食わぬ顔で教室へ戻って、荷物を持ってまた外へ出た。
 次の授業は2組と合同の体育だから離れた場所にある更衣室で着替えてこなければいけない。男子は教室で着替えるから、早めに用意をしないと好いてもいない人間のパンツを見なければいけないはめになるのだ。
 九月とはいえまだまだ外は暑くて、ジャージのシャツを引っ張ってだらしなく体を扇ぎながらグラウンドに並ぶ。今日は直接日に晒されながら球技でもするみたいだけれど、男子のように蒸し風呂状態の体育館で一時間過ごすのとどちらがマシだろうか。
「……あ」
 背の順に二人一組になってストレッチだなんて面倒臭いなぁと思いながら後ろを振り返ると、佐和子と目が合ってしまって戸惑った。彼女は良く体育の授業を休んでいたし、今までも郁とペアになる事は無かったのだけれど、欠席や見学の関係で人数が変わって相手がたまに入れ替わる事があるのをすっかり忘れていた。
 夏休み以来まともに話をした事は無かったし、何よりあんな切り捨て方をしてしまったせいで動けなくなる。なのに佐和子は、気まずそうに俯く郁を平然と見つめて溜め息をついた。
「何をしているの? 早く済ませないと、先生に注意されてしまうわ」
「ご、ごめん……」
 謝った途端サボるなよ椎名と教師の野太い声が飛んで来て慌てて佐和子に触れる。細い肩が、印象的だ。
 その先は本当にただの流れ作業だった。無口で無愛想な、取っ付き難いクラスメイトと接しているだけだ。もう彼女とは何でもないんだなと、喉の奥がひりつく。
「じゃあ、そのままサッカーボール持って来てパスの練習しといてくれ。休み明けだし、お前らも楽でいいだろ」
 豪快に笑う教師にキリキリと胃の辺りが痛んだ。何が、楽なものか。
 佐和子と距離を取ってから土埃と一緒にボールを蹴飛ばす。他のペアからは楽しげな笑い声が聞こえてくるのに、炎天下の中無言で動き続ける自分達は少し異様だ。
 出来るだけ何も考えないようにしようと思ったのに、汗で湿ったシャツが纏わりついてきて集中力を奪っていく。
 そういえば彼女は暑いのが苦手で――
「ど、どうした雨宮。大丈夫か?」
 狼狽えた様子の教師の声にはっとしながら正面を向くと、地面に膝をついて口元を抑えている佐和子が見えた。ただでさえ白い肌をしているのに、遠目にも分かるほど顔色が真っ青だ。きっと、気分が悪くなってしまったのだろう。暑いと無気力になるだけなわけではなくて、体があまり丈夫ではなかったのかもしれない。
 気付いた時には駆け寄ってしまっていた郁を教師が指名するのも当たり前だった。保健室で休ませるように言われて、付き添いながら腕を組む。
「さ……雨宮さん、あの、大丈夫?」
「平気よ」
 道すがら遠慮がちに尋ねてみたけれど、とてもそうは見えない顔で答えられる。どうせすぐに治るのだからあの先生も大袈裟に騒ぎすぎだわなんて、吐き気で肩を震わせている人間の言う台詞ではない。
 下駄箱まで歩いてから靴を履き替えようと腕を離す郁に、場所は分かるのだからもう着いて来なくても良いと佐和子は首を横に振った。
「大体、あなたの方こそ大丈夫なの? 早く戻った方がいいわ」
「でも」
「命令した方が早いかしら。戻りなさい」
 馬鹿にされてしまったような気分に下唇を噛んで、彼女を残したまま来た道を引き返す。一人が良いと望んだのは彼女なのだから、勝手にすればいい。
 半ば自由時間に切り替わっていたのか、数人で輪を作ってお喋りをしながら適当にボールを蹴飛ばしていたみなみ達のグループに混ざる。早かったねと不思議そうに聞かれたので、付き添いを断られて先に戻ってきた事を簡単に説明した。
「なんか感じ悪くてさ。ウザいよ」
 こちらをじっと見上げていたみなみの手のひらをぎゅっと握って苦笑しながら友人達に告げる。元々佐和子を良く思っていない連中ばかりだったから、今更何を言っても特に気に留められる事はない。
 郁が彼女に対する不満を口に出したのは初めてだという事も、強く手を握り返してきたみなみ以外気付いていないんだろう。
 運動部に所属している仲間の一人が試合をしたいと言い出したので、散らばっていた生徒を呼び集めてぎゃあぎゃあと騒ぎながらグラウンドを走り回るのは楽しかった。少しくらい欠けていても、案外何の問題もなく歯車は回る。
 夏の間あんなにうるさかった蝉も、きっともうすぐ死んでしまうんだろう。
 だから何もかも、一緒に消えてしまえ。


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