頭が痛い。
 何かを考えるという事が致命的に苦手なのかと、最近思う。誰かに付いて歩くのが一番楽で、それが当たり前だと思っていて、感覚を麻痺させていた16年分のツケが今頃になって回ってきている。
 佐和子が好きだ。でも、みなみとも離れたくない。
 欲張りな自分が浅ましかった。欲しいものなんて、結局一つも手に入れていない。あの時ああしていればよかったと嘆く分岐点はいくつもあるのに、郁が選ぶ事を放棄していたせいで、誰かのせいにしてきたせいで、何も変わらない。何も変わらないのは何もしないからなのに、何をすればいいのか、分からない。
 今日は珍しくみなみが風邪で学校を休んだから、帰りはそのまま彼女の家に寄ってお見舞いにでも行こうと思った。これもきっと、自分で選んだ分岐点じゃない。みなみが喜ぶような事を懸命にやろうとする郁を見せたいだけの、彼女のためのルート。
 それに、みなみがいない日の学校はなんだか汚くて気持ちが悪い。子供はどんなに残酷な事だって平気でするけれど、中途半端な大人は潔さが欠けて陰湿になる。
 郁も、人の事は言えないけれど。みんなが叩いている彼女の陰口はどれも的外れで、みなみの事なんて何も分かっていないように思えた。束縛されている分、視点が違う。
 彼女が主導権を握りたがるのは、周りを従える事で安心したいから。
 彼女が気に入らないものを撥ねたがるのは、自分の世界を守りたいから。
 彼女が完璧な上辺を作りたがるのは、簡単に誰かを信じたくないから。
 ああ、こうして考えると、郁とみなみは正反対なようで実はよく似ているのかもしれない。
「いた」
 早く帰ろうと下駄箱にしゃがみ込んでスニーカーを履いていると、頭が誰かの腰にぶつかって小さく声をあげた。考え事をしていると周囲が見えなくなる癖は、まだ直っていない。
「すいませ……」
「別に。気にするほどじゃないわ」
 反射的に謝りかけて体が強張る。タイミングが良いのか悪いのか、どちらなんだろう。透明で涼しげな声が、降ってくる。
「……佐和子さん」
 出来るだけ顔を合わせないようにしていたから、不意打ちばかりを食らってしまう。
 踵を踏み潰したまま立ち上がる郁を佐和子は少しだけ驚いた様子で見つめて、上履きを履き替えるために視線を外した。
「呼び方、戻したの?」
「あ、え、雨宮、さん」
「……郁って、一人の時は馬鹿みたいに正直よね」
 俯いた表情は髪に隠れてよく見えないけれど、苦笑気味の声に気分が和らぐ。仲違いをしているはずだからこんな気持ちはおかしいのに、名前を呼ばれた事が嬉しかった。
 続きの言葉が上手く見つからなくて、佐和子が革靴を履き終えるのを黙って待ってしまう。世間話をするわけにもいかないし、挨拶だけして先に帰るのも違う気がした。他に、伝えるべき言葉があるはずなのに。
「この間は、悪かったわね」
 小さく歩き出しながら伏し目がちに言われて、どきりとした。
「わ、私も――」
「冴子が迷惑かけたでしょう。あれはね、お節介焼きが過ぎるところがあるから」
 そっちなのかと、正直拍子抜けする。
 行き過ぎたお節介にしては随分きつくはあったけれど、郁が気にしているのはそれよりもっと前の事だ。
 眉間に力が入っているのに気付いて下を向く。彼女はもう、気にしてもいないのだろうか。
「……なんだか不満そうね」
「別に、そんなことないよ」
 声音で肯定してしまっているのが自分でも分かった。彼女を追いかけるように歩いていたはずが自然と早足になって、拗ねた子供とそっくりだ。
 だって、だって。
「だって私の方が悪いと思える事は他にないもの。郁こそ、言いたい事があるならはっきり言えばいいじゃない。50年連れ添ったおじいちゃんとおばあちゃんじゃあるまいし、言葉にしなくても全部伝わるなんてただの傲慢だわ」
「なん……佐和子さんに、なんでそんな事言われなくちゃいけないのさ。分かんないならほっといてよ」
 自転車置き場の手前で思わず吐き捨ててしまって立ち止まる。こんな言葉を伝えたかったわけじゃないのに、放っていてなんか欲しくないのに、どうしてこんなに馬鹿なんだろう。
 完全に嫌われてしまったと思うと、自業自得のくせに涙が出そうになる。子供はすぐに泣くから、いやだ。
「――分かるわよ。好きな人の事だもの」
 佐和子の右手が動いたものだから頬でも叩かれるのかと瞼を閉じたけれど、頭を撫でられる感触にそろそろと目を開ける。
 私の言い方が悪いのかしらと、溜め息をつきながら彼女は続けた。
「全部は分からないから、せめて郁が私に伝えたい事くらいは教えて欲しいの。その方が一人で拗ねられるよりよっぽどマシよ。……何か、言いたい事はある?」
 急に、全部は伝えられないと思った。
 自分でも分からない事が多過ぎて、すぐには整理できない。だからせめて、一番伝えたい言葉を探す。子供っぽくても、とびきり簡単でも、佐和子に一番伝えたい言葉を、探す。
「……ごめんなさい」
「なら、帰りましょうか。目立つのは好きじゃないわ」
 下校中の生徒が遠巻きに眺めているのを一瞥してから歩き出す佐和子を慌てて追いかける。止めてあった郁の自転車を勝手に引っ張りだして、鞄を籠に入れながら早くしなさいと小さく笑った。


「郁の嫌いな所はね、結構あるのよ」
 ペダルを漕ぐ郁の腰に腕を回して、荷台に腰掛けた佐和子が言った。
 通った事がないような道をわざと選んで遠回りをしている事に関しては特に何も言われない。疲れるけれど、しばらくこうしていたかった。
「すぐ人の顔色を窺う所が、嫌いだし。すぐ人の考えに流される所も嫌い。ぼんやりした所も、間が抜けてる所も、あまり好きじゃないわ」
「厳しいこと、言うね」
「……自転車を静かに漕げない所も嫌いよ。さっきからずっとお尻が痛いの」
 不満そうに鼻を鳴らされて、それは私のせいじゃないよと唇を尖らせる。荷物を乗せるための席なのだから、どんなに平坦な道を走ってもがたついてしまう事はよく分かっているくせに。
 運転手を替わろうかと提案すると、溜め息をつかれた。
「郁が転びたいならね。私、自転車乗れないもの」
「うそ」
「本当。……昔から運動神経が鈍いのよ。暑いのも苦手だけれど、運動はもっと苦手だわ」
 なんだか意外過ぎて笑ってしまう。インドア派だけれどきっとスポーツも万能なんだろうと勝手に思っていた佐和子が、まさか自転車にも乗れないだなんて。
 単位もあるし、苦手だからって休むのはどうかと思うよと笑いを噛み殺しながら言うと、そんなに笑わないで頂戴と頭を軽く叩かれた。
「……痛いよ。バランス崩したらどうするのさ」
「郁が笑うのが悪いんじゃない。次からはちゃんと出るわよ、文句ある?」
 それに。
 小さく付け足す。
「――格好悪い所、見せたくなかったのよ。もう馬鹿らしいわ」
 走るのが遅いのも、球技でボールを取り零すのも、ハードルを蹴り飛ばすのも、見たいなら勝手に見ればいい。
 知らなかった事を教えて貰うのは心地が良かった。頭の中にまた一つ、好きな人の居場所が増えていく。
 彼女の腕と触れているのがこそばゆい。これはなんだろう。恋だろうか。
「佐和子さんは、どんな事しててもかっこいいよ」
「そう。郁の素直な所は、結構好きよ」
 好きだ好きだ、この人が好きだ。
 二人分の体重のかかったペダルを懸命に漕ぐ。同じ場所で何度も足踏みをしているだけなのに、前へ前へ、ぐんぐんと走っていく。
 このまま時間が止まればいいのにと考えかけて、やめた。時間は勝手に過ぎていって、やらなければならない事はまだまだ沢山ある。
「不思議ね。嫌いな所があっても、それを含めて好きなの。完璧を求めるなら、郁じゃなくてもいいんだもの」
 背中から独りごちるような佐和子の声が聞こえた。追い風が吹いて、甘い匂いがする。
「だから、お願いは一つだけにしておくわ。私を誰かの代わりにするのは、絶対にやめて。私の向こう側に、違う誰かを当て嵌めないで。私を見る時は、私だけをまっすぐ見て欲しいの」
「……うん」
「約束よ。私だけを見てくれる人なんて、郁が初めてだったから」
「うん。約束、する」
 きっとあの時、佐和子が本当に嫌がる事をしてしまったんだろうなと思った。
 理由は教えて貰っていないから、分からないけれど。大切なのはたぶん、そこじゃない。
 郁が嫌な事はなんだろうか。そういえば、口に出して伝えた事はないかもしれない。頭の中で毒づくだけで、言葉にした事は一度もなかった。
 佐和子さん、と小さく名前を呼んだ。
「みなみとはもう、離れた方がいいのかな」
「郁が、そうしたいならね」
「私は」
 みなみが、嫌いじゃない。
 自分が大切だったから、自分とよく似たあの人がきっと。
「私は、みなみと友達になりたいよ」
 少しだけ涙が零れた。
 束縛されるのは嫌だ。でもそんな付き合い方しか出来なかったのは、郁がみなみに甘えてばかりだったからだ。
 ちゃんと隣りに立って、同じ速度で歩きたい。どこに行くのかも、相談してから決めてみたい。
 喧嘩だってしてもいい。次の日になればすぐ仲直りして笑えるような些細な喧嘩なんて、今までした事がない。
「家まで送るよ。今日はね、行きたい所があるから」
 自分が何をしたいのか、何を想っていたいのか、少しずつでいいから考えたかった。
 ハンドルを傾けて、来た道を戻る。自販機を探して、角を曲がる。
「郁。あなた、背が伸びたんじゃない?」
「そうかな」
「そうよ。成長期だもの」
 楽しそうに笑う佐和子に、首を傾げながら答える。もう高校生なのだから、一ヶ月やそこらで見て取れるほど身長が伸びるとはとても思えないけれど。
 それでも、そうだ、成長期だから。
 1センチでも1ミリでもいいから変われたらいいなと、こっそりと笑った。


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