七月も半ばとなれば茹だるような暑さと格闘しなくてはならなくて、それもこれから始まる授業は炎天下の中行われる体育なのだと考えると尚更に憂鬱だった。
 冷房の効きにくい更衣室で友人達と並んで制服からジャージへ着替えながら、郁は天候に対する愚痴をこぼす。言ってもどうしようもないのは分かっているけれど、口が勝手に動いてしまうのだ。どんな事でも口にしてみると会話の幅が広がるし、ただ黙って着替えているよりもこうしていた方が友人達は喜ぶから。
「郁はほんとバカだねー」
 おどけるように笑ってみせる郁の頭を、まるで動物でも可愛がっているような仕草で友人が撫でる。そうされる度に自分はきちんと周囲に溶け込めているのだと安堵していた。友人達に囲まれ保護されている安定した生活から外れてしまうのは酷く怖い。だから働くたびに疲れを覚えてしまうあの器官も、いつの間にか郁にとって生活に無くてはならないものになってしまっている。
「来週からやっと夏休みじゃん。郁どうする?」
 友人の一人である柴みなみが聞いてきたので、バイトでもするつもりだと答える。奇跡的にも今年は補習に引っ掛かる事がなかったのだと自慢してみせた。
 みなみは友人達の中でも、一番多くの時間を郁と共にしている。クラスの中でも一目置かれたリーダー的な存在であり、地位も権力もある彼女に気に入られているのは正直ありがたかった。同時に、彼女に見放されてしまえばもうどうしようもなくなるのだという恐れもある。
「えー。バイトすんの? そんなのあたしに全然話してくれなかったじゃん」
 途端に不満そうな顔を見せる彼女に、しまったと思った。
「ん、いや、しようかなってだけで具体的には決めてないよ」
 郁が取り繕うように苦笑いすると、仕方がないといった様子でみなみが抱きしめてくる。言い含めるように耳元で囁いた。
「あたしら親友じゃん。今度からはさ、ちゃんと言ってよ」
「……うん」
 バイト先も教えてねと付け加えられたけれど、それは権利でなく義務のように思えた。
 彼女は口癖のように自分と郁は親友であると言う。だから学校ではどんな時も共に行動するのが当然であるし、悩みがあればまず初めは彼女に相談しなければいけない。郁がみなみに隠し事をするなど以ての外だと言う。
 親友というには束縛されすぎているようで、息苦しかった。
「あ、もう時間ないじゃん。今日サッカーだっけ? 行こうよ郁」
 時計を見たみなみから解放されて頷く。離れたのも束の間ですぐにまた手を引かれた。殆どの生徒が着替えを終えたようで、ぞろぞろと更衣室を出てから下駄箱に靴を履き替えに行く。
「あ」
 ふと気が付いたように郁が声をあげる。手を繋いだまま前を歩いていたみなみが、どうしたのかと首を傾げた。
「ちょっと、先に行ってて」
 指輪やネックレスといった類のアクセサリーを外し忘れたので更衣室に置いてくるのだと説明する。自分も付いて行くと彼女は主張したけれど、すぐに戻るからとみなみを置いて小走りで来た道を戻った。
 更衣室のドアを開くと、やっと涼しくなり始めたマイペースな空気が頬を撫でる。さっきまでのざわざわとした騒々しさとは打って変わって、がらんとした静けさに安堵した。
「郁?」
 隅の方でぽつりと一人残って着替えていた佐和子がこちらに気付いた。転校してきて一ヶ月と二週間が経つというのに、彼女は未だに誰かと群れようとはしない。
「佐和子さん」
 一週間前、彼女の家でアイスコーヒーを飲んだあの日から、郁は佐和子の事をこう呼ぶようになった。その方が雨宮さんと呼ぶよりも自然で当たり前の事であるように感じたからだ。彼女は変化した呼ばれ方について特に気にする様子もなく、相変わらず郁と呼び捨てる。
「……佐和子さん、つかれた」
 アクセサリーを外してくるだなんて、ただみなみと離れて佐和子と会うための口実だった。呟きながらまだ制服のままでいる佐和子に寄りかかり、そっと甘えるように彼女の肩に頭を乗せる。同じくらいの身長だと思っていたけれど、こうしてみるとわずかに佐和子の方が郁よりも背が高い。黙ったまま背中に腕をまわされて心地が良かった。
 学校で郁と佐和子が話をする事は全くと言って良いほど無い。
 郁は友人達の前だとまるで他人のように佐和子と接するし、佐和子も郁が友人達といる時には決して話しかけて来なかった。朝の教室と放課後の図書室で郁がじっと佐和子を眺めている時以外、二人が互いを意識する事すら少ない。
「ん」
 小さく口付けられて目を細める。まだ恥ずかしさはあるけれど、何度か繰り返しているうちにこれは安心出来る行為なのだと思うようになった。佐和子の唇はあの器官を休ませ、縛り付けていた鎖を解きほぐしてくれる。
「郁って、妙に器用ね」
 呆れたように言われた。きっと彼女は、郁が周囲に合わせて器官を働かせながら自分を変えているのに気付いているんだろう。佐和子の前では郁は絶対にあんな風に冗談を言ったりはしないし、道化のように笑ったりもしない。
 だから前にも『私を眺めている時の郁』が好きだと言ったのだ。友人達の方を向いている郁には興味が無いから、話しかけて来ないんだろう。
「お友達はどうしたの?」
「待たせてるから、もう戻るよ」
「そう。残念ね」
 身体を離してからもう一度口付けられる。その割りには、特に名残惜しそうな顔を見せる事も無かった。
 佐和子こそ早く着替えを済ませないと授業に遅れるのではないかと指摘すると、体育に出るかどうか迷っていたのだと言う。暑いと人一倍弱ってしまうたちなのだそうだ。
 急かすようにチャイムが鳴ってしまったから、佐和子を残して慌てて更衣室を出ていく。下駄箱まで駆けていくと、みなみがつまらなそうな顔で座り込んでいた。
「ごめん!」
「遅いー。すぐって言ったじゃん」
 立ち上がりながら頬を膨らませる彼女をなだめるように両手を顔の前で合わせる。その時やっと違和感に気付いて手を後ろに隠そうとしたけれど、遅かった。
「……指輪、外してきたんじゃなかったの?」
 素早くこちらの右手首を掴んできたみなみが、怪訝そうな目で郁の指を眺める。中指と小指に、郁がよく付けている指輪がはまったままだった。慌てて更衣室を出てきたから、本当に外し忘れてきてしまったのだ。
 一瞬、頭の中が真っ白になる。彼女に見つめられたままの指が凍傷を起こしてしまったみたいに痛くなった気がして、どうしていいか分からなくなってしまう。
「ほらこれ、みなみがくれたやつだから」
 それでも器官が勝手に働いて、すらすらと言葉が口をついて出た。
――更衣室まで行ったけど、やっぱり外したくなくなってさ。
――サッカーするなら、あんまり邪魔にはならないし。
 他にも、いかにこの指輪が自分にとって大切なのかを冗談めかして言ってみせる。確かにみなみにプレゼントしてもらった指輪のデザインは気に入っているけれど、そこまでするほどでも無かった。犬や猫が主人に貰った首輪を付けているみたいに、彼女に隷属してしまったようでげんなりしてしまう時もある。
「ふぅん」
 十分に納得したわけではないようだけれど、掴んでいる手の力を弱められてほっとする。郁の指を綺麗に整えられた爪先でなぞるようにしながら、金属の輪を軽く引っ掻いた。僅かに伝わる感触にぴくりと腕が震える。
「郁」
 佐和子と違って、みなみに名前を呼ばれると背筋が伸びてしまう。どんな隠し事をしていてもすぐに見透かされてしまいそうな、そんな空気を孕んでいて。
「待たせたお詫びに、今日は帰りにクレープ奢ってよ。最近、一緒に帰らないしさ」
 放課後は佐和子のいる図書室に行きたいけれど、その事は友人達には一切話していなかった。友人達は、特にみなみは佐和子の事をあまりよく思っていない節がある。そんな相手と黙って会っているのだと知られたら何も起こらないわけがないなと思った。
 その上、郁は佐和子の事が好きで口付けまで交わす。あまり一般的な行為でない事はいくらなんでも分かっていた。
 何より今のみなみは、何故かぞっとするほど恐ろしいのだ。
 いつも通りの何でもないような笑顔を浮かべているけれど、抵抗する事の出来ないような威圧感が滲んでいる。
「やば、先生もう来てるよ。早く行こ」
 腕を引かれて、力無くそれに付いて歩く。
 みなみは郁と手を繋ぐのが好きだ。それほど力が入っているようには見えないし、振り払う事も出来るはずなのに、違う方向へ行きたくても彼女に付き従ってしまう。
 それは例えば犬の散歩だとか、子供が引いて遊ぶ玩具だとか、そんなものを連想させた。
「ねぇ郁。爪噛む癖さ、直した方がいいよ」
 歩きながら、ぼろぼろになった指先を慈しむように撫でられる。
 あの夢みたいに、錆が浮かんで崩れてしまえばこうして縛られる事もないだろうに。


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