部屋に二人でいる時でも無意識に携帯電話をかちかちと弄ってしまう郁を見る度に、その機械には必要性を感じられないのだと佐和子はいつも言う。それも、とびきり嫌そうな顔で。
――大切な話がしたいのなら、直接会いに行けばいいじゃない。……面倒臭いですって? 会いに行くほどでもない話なんて、結局はどうでも良い話に過ぎないのよ。メールだってそう。文章を送りたいのなら、きちんと手紙を書けば良いんだわ。大体前にテレビのニュースで見掛けたけれど、何故わざわざあんな暗号めいた文面で……ぎゃる文字? 知るわけないでしょう、そんなもの。……私は使わないだなんて、郁の話をしているわけじゃないのよ。前にテレビで見た話をしているの。それに手紙は届くまで時間がかかるなんて言わないで頂戴。電話と同じでどうでも良い内容なら……もう、郁の所為で話がそれてしまったじゃないの。とにかく、あんな文字で文章を形成するのが理解できないの。もっと簡潔に用事を済ませられないのかしら。それに……(他にも色々と、携帯電話をよほど憎悪している人間ではないと思い付かないような愚痴を零していた)……ほら、携帯電話なんて必要無いじゃない。だから私は携帯電話を持たないのよ――
 そんな内容の話を聞かされた事を覚えている。
 しかしメールを返信する事は郁が交友関係を維持するための癖のようなものだし、それに最近の携帯電話はただ単に通話やメールをするためのものでは無くなってきているのだ。なかなか性能の良いデジタルカメラが当たり前の様に付いているし、インターネットを通じて様々なものを調べる事が出来れば、簡単なゲームで遊ぶ事も音楽を聞く事だって出来る。クレジットカード代わりに買い物が出来る機種もあるそうだし、結構便利だと思わないかと、郁は相変わらず嫌そうな顔をしている佐和子に説明してみせた。
 試しにカメラでも使ってみてはどうだと自分の携帯電話を佐和子に手渡してみると、彼女は余計に眉根を寄せて手のひらの上に置かれた機械をまじまじと見つめる。狸に化かされた札束でも眺めているような、そんな顔だった。
「佐和子さん?」
 そうまで嫌いなのかと呆れながら声をかけると、彼女は意を決したようにクリップ式の携帯電話を開く。落とさないように左手でしっかり握ったかと思うと、右手の人差し指で恐る恐るボタンを押しては切り替わる画面をじっと見つめた。
「……それはメール画面だよ。まあ、別に見られて困るようなものは無いけど一応プライバシーだしさ。カメラはそっちの……いや、今押すんじゃなくて先にクリアして……なんで番号を押すのさ。だからそっちはアドレス帳――」
「うるさいわよ、郁。気が散るじゃない」
 見当違いの操作を繰り返す彼女につい口を出していると、静かに怒鳴りつけられてしまって黙り込む。彼女が携帯電話を嫌うのは、つまりそういう理由なんだろう。
 よく考えれば、相変わらず物置のような部屋の中にはパソコンやゲーム機などと言う機械類は一切無いのだ。
「……もういいわ。使わなくても問題があるわけではないし」
 結局何もする事の無いまま携帯電話を返してくる彼女に、使えないの間違いではないかと小声で指摘するとじろりと睨まれてしまう。
 郁の頬に佐和子がすっと手を添えてきたので、つい怒られるのだと勘違いして余計な事を言わなければ良かったと後悔した。
 郁、と彼女が呼び掛けてくる。
「――仮に私が携帯電話を持っていたとしても、郁に対して使う必要は無いと思うわ。だって私が郁にどうでも良い話をする事はないし、いつでも直接会って過ごしたいもの。違う?」
「え……うん」
 突然顔を近付けて囁いてくるものだから、思わず顔を赤らめて頷いてしまう。
 佐和子はそれでいいのよとでも言いたそうに笑ってから口付けてきたので、郁もおとなしく彼女に従った。制服に包まれた佐和子の背中に腕を回して、ああ、きっとこういうのを誑かされていると言うのだと思いながら。


「……やっぱり必要じゃないか」
 前に一枚だけ撮らせてもらった佐和子の嫌そうな顔を携帯電話の画面で眺めながら、郁は自室のベッドでうんざりと呟いた。開け放った窓の外では蝉が聞き飽きた騒音を垂れ流していて、側では設置されていない冷房の代わりに扇風機が一生懸命働いている。平日の昼前でも学校へ行かずこうしていられるのは、つまり今が夏休みだからだ。
 休みに入って間もないけれど、あれから佐和子に会える機会は一度もなかった。先週はずっとみなみに拘束されてしまっていて、放課後図書室に行ける時間が全く無かったのだ。
 彼女と会う計画を立てようにも相手が携帯電話を持っていないので連絡が取れない。佐和子の叔母が出る事があるかもしれない自宅の電話に直接かけるわけにもいかないし、会いに行くために屋敷の裏口から忍び込むわけにもいかないので、結局は佐和子が郁に連絡を取ってくるまで待つしかないのだ。携帯電話の番号を教えていなかった事を少し悔やんだけれど、あれほどこの機械を嫌う佐和子が電話をかけてくる事はまず無いだろう。
 ひょっとするとこのまま夏休みが終わるまで会う事は無いのではないのかと考えると、それはそれで寂しい気がした。普段はあまり意識しない癖に、こういう時自分は彼女の事が好きなのだなと再確認してしまう。
 溜め息をつきながらベッドから起きあがって、およそ本来の用途に使われる事のない勉強机の上に置いてあった指輪を適当にはめてから部屋を出る。二階建ての造りをした極めて一般的な一軒家の、二階の奥の部屋が郁の自室だ。
 階段を下りて洗面所で顔を洗っているとリビングからテレビの音が聞こえてきたので、共働きの両親は仕事でいないはずだから妹が起きているんだろうなと思った。2つ離れた妹の未来――ミクとイクでは、発音が似ていて聞き間違える事が多いではないかと両親から名前を呼ばれる度に思っている――は、自分と違って長期の休みで生活リズムが乱れる事もない。郁のように学校の成績で両親を悩ませる事もなければ、中高一貫校に通っているおかげで受験に追われる事もないようで、いわゆる良くできた妹なのである。
 自室と違って冷房が控えめに効いたリビングに行くと、案の定未来が食卓机に座って夏休みの宿題を片づけていた。休みが終わる目前になってからただ事務的に答えを写している郁には想像も出来ない事だ。
「まだ寝てたの? お姉ちゃん」
 机の上にあった麦茶をグラスに注ぎ始める郁に気が付いて、未来がこちらの顔を見もせずに聞いてくる。まあね、と軽く答えながら濃いめに作られた液体を喉に流し込んだ。ぬるいというほどでもないけれど、あまり冷たくはない。
「夏休みだからってあんまりだらけない方がいいよ。まだパジャマ着てるしさ」
「あとで着替えるよ」
「すぐ着替えないと駄目。服装の乱れは心の乱れなんだよ?」
 仕事であまり家にいない母親に代わって、未来はしょっちゅう郁に小言をぶつけてくる。これではどちらが姉なのか分かったもんじゃないと常日頃から不満に思っているのだけれど、彼女に言われる事は大抵間違っていないので反論も出来ない。
 渋々先程下りてきたばかりの階段を上って部屋に戻った。熱気の籠もった室内にくらくらとしながら寝間着として使っているスウェットを脱ぐ。箪笥から服をごそごそ取り出していると家の電話が鳴る音が聞こえて、未来が何やら丁寧な口調で返しているのが聞こえた。家庭教師の勧誘か何かかなと思っていると階段の下辺りで足音が聞こえて、未来が声を張り上げながら郁を呼ぶ。
「お姉ちゃん、電話」
「誰? みなみなら携帯にかけ直して――」
「雨宮さんって人から」
 ドアから頭だけを出して答えていたら予想外の名前を出されて、慌てて階段を駆け下りた。唖然とした表情の妹から受話器を奪い取って、もしもしと軽く息のあがった声で話し掛ける。
『郁?』
 返ってきたのは、透明感のある心地の良い声だった。たった数日聞いていなかっただけなのに、機械越しでも本当に懐かしいような気分になる。
『今日の予定は空いてる?』
「うん、特に何もないよ。それより佐和子さ」
『お昼を食べたら私の家に来なさい。裏口を開けておくから、そこから入るのよ』
 尻尾を振る犬のように様々な事を話そうとしたのに、彼女は本当に簡潔な用件だけを告げて電話を切ってしまう。回線の切断されるぶつりと言う音がやけに大きく聞こえた。
 つまり先程の電話は会う約束を取り付けてくれたのだと理解して嬉しくはあるけれど、あまりにも短い通話時間に呆然としてしまう。確かに自分達は世間一般の恋人同士とは多少違っているかもしれないけれど、好き合っている人間同士ならもう少し何か話してくれても良いんじゃないだろうか。
 受話器を置いて消沈しながら麦茶を喉に流し込む。冷蔵庫の中をあさりながら昼に何を食べようかと考えていると、未来が「ちょっと」と恥ずかしそうに声をかけてきた。
「……服くらい着てよ、お姉ちゃん」
 姉妹なのだから下着姿なんて気にしなくてもいいではないかと反論したけれど、服装の乱れは心の乱れだからともう一度怒られて、郁は渋々階段を上がり直した。


 郁と佐和子の家は方角的には同じだから、学校から佐和子の家までかかる時間を郁の通学時間から差し引けば、それがつまり郁の家から佐和子の家への距離という事になる。
 いくら袖のない服を着ているといっても真夏の昼間に自転車を漕ぐ労力は相当なもので、これはアイスコーヒーどころでは収まりがつかないなと考えていた。学校よりは近いと考えていたけれど、実際は佐和子の家までの直接の道のりが分からなくて一度学校まで行ってから来た道を引き返してきているのだ。
 いつも通り玄関を通りすぎてから裏口にまわって自転車を止める。一人で中に入るのは初めてなので、怖々と錆びた音のする扉を開いた。家人の案内も無しに日に照らされた庭に侵入していく自分は、まるで間抜けな泥棒のようだなと思ってむず痒い。
 側にあるカーテンに閉ざされたガラス戸をノックすると、涼しげな表情をした佐和子が顔を出す。靴を脱いであがらせてもらった室内は冷房によって程よく空気が冷やされていて、実に快適そうだった。
「お疲れさま。暑かったでしょう」
「……分かってるならいいよ」
 ベッドの上に腰掛けながらわざとらしく溜め息をつく。本当はもっと文句を言ってやろうと思っていたけれど、アイスコーヒーと一緒に手渡された小さなカップによって買収されてしまったのだ。郁の家では滅多に買わない、やたら高級なアイスクリームだった。
 バニラとチョコレートのどちらが好みだと聞かれたからバニラと答えたけれど、彼女もそちらの方が好きだからと結局チョコレートを選ぶ事になってしまう。なら最初から聞かなければいいのにとカップの中身をスプーンで掬って口に入れた。ほろ苦い大人向けの味がするような気がして、これはこれで美味しいと感じる。
「郁って、結構単純ね」
 よほど美味しそうにアイスクリームを食べているように見えたのか、佐和子がくすくすと笑う。もういい歳なんだからそんな事はないはずなのに、口の周りについているからもっと上手に食べなさいと唇についた溶けたアイスクリームを舌で舐め取られてしまった。彼女は、こういう事を平気な顔でしてくるから困る。
「休みの間の事だけれど」
「ああ、うん」
 動揺した顔を見られるとまたからかわれてしまいそうで、あれくらいでは特に気にする事なんてないのだといった風に答える。
 佐和子が手渡してきたのは随分真新しい鍵で、歩いている黒猫を象った小さなキーチェーンが取り付けられていた。これは何なのだと首を傾げると、佐和子はもう一つ同じ形をした少し古ぼけた鍵を取り出す。お座りをした白い犬のキーチェーンが取り付けられているそれは、この頃よく見かけているものだ。
「裏口の合い鍵。あげるわ、それ」
 部屋の窓はいつでも開けておくから、会いたくなれば好きな時に来なさい。
 そんな意味の言葉を聞かされてぽかんとする。普通は事前に連絡を取ってから行うものではないのかと尋ねると、面倒臭いじゃないと一言返された。
「佐和子さんがいなかったらどうするのさ」
「留守にする時はいつ頃帰るか置き手紙でも残しておくから、気が向けばそれまで部屋で勝手に待っていればいいわ。何かあると分かっている時は前もって教えておくし」
「家の人に見つかるかもしれないよ」
「見つからないように気を付けなさい」
 何を聞いても佐和子は飄々と答えてくる。郁は黒猫を指でつまみ上げながら、なにより、と顔をしかめて続けた。
「この暑い中を、いつも私が会いにくるの?」
「前にも言ったでしょう。私、暑いの駄目なのよ」
 だから代わりにあなたの都合に予定を合わせているんじゃないと言われてどうも釈然としない。こちらの都合に合わせると言われても、彼女がいつ家にいるかどうか郁には分からないのだ。それに忍んで通うだなんて、平安時代の貴族じゃあるまいし。
 複雑な顔をする郁を、佐和子はぐっとベッドの上に押し倒してしまう。馬乗りになりながら耳元に息を吹きかけた。
「……郁が私に会いたくないなら、別にいいのよ?」
 暑い中外に出るのが面倒なだけだろうという言葉を飲み込んでしまう。観念したように溜め息を吐くと、彼女は嬉しそうに何度も口付けてきた。薄手の服に包まれた背中に腕をまわす。
 ああ、やはりこういうのを誑かされていると言うのだ。


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