気がついた時には身体が半分無くなっていた。
 錆びて崩れた箇所からはぶよぶよとした半透明の組織が再構築されていて少し気味が悪い。今でも指先は××に触れていて、まるで伝わってきた熱で溶接されてしまったかのように離れなかった。
 ××と繋がっていると不思議と安心する。身体が全て崩れ落ちたとしても、ずっとこのまま離れずにいたいと思った。もしも世界が自分と××だけで出来ているとしたら、それはとても素敵な事だろうなと郁は考えるのだ。
 ふいに。
 ざらりとした感触が足に絡み付いてきて、そこから一気に体温が下がってしまう。目を見開いて足元に視線を落とすと、辺りには郁から崩れた錆の砂がいつの間にか赤く広がっていた。
 砂は凍り付きそうな冷気を放ちながら別の生き物のように蠢いて渦をまく。ぞろぞろと地面を這い回る様子は小さな蟻の集団のようだけれど、集まればこんなにも禍々しいものなのだろうか。
 砂の形が何かを形作っている事に気がついて目を凝らす。人の顔に似ていた。ただ、それが年老いた男性なのか若い女性なのかはたまた小さな子供なのか、まるで区別がつかない。
 ただひとつはっきりと分かるのは。
 何かとても嫌な感じのする笑みを、うっすらと浮かべている事だけだった。

   □ □ □

「郁?」
 跳ね起きた郁の腕を掴みながら、みなみが不思議そうな顔でこちらを覗き込んでくる。すっとした柑橘類の匂いがした。
 がたりごとりと揺れる電車の座席で居眠りをしてしまっていた事に気が付いて、周囲の視線にはにかみながら苦笑いをする。
 夏休みとはいえ平日の昼間だから車内はそれほど混雑しているというわけではないけれど、私服で遊びに出かける女子高生にいつまでも気を取られている人間などいない。すぐにまた新聞や文庫本を読んだり音楽を聴いたりと、乗客は各自好きなように過ごしていった。
 隣りに寄り添うように座っていたみなみはきょとんとした顔をしてはいるけれど、郁が居眠りをしていた事に対しては別段怒っているわけではないようなのでほっとする。彼女の顔色を窺いながら過ごす事に慣れてしまっている自分が、少し嫌だった。
「どしたの急に。びくんってなって起きる人、学校以外で久々に見たよ」
「その……変な夢見ただけだよ」
「ふぅん」
 それきり彼女は特に気にする様子もなく、明るい色をした長い髪の毛を指先で物憂げに弄ぶ。その姿が何となく佐和子と重なって見えて、隣りにいるのがみなみではなく佐和子だったらいいのにと思ってしまった。同時に、みなみに申し訳ない気分でいっぱいになって軽い自己嫌悪に陥る。
 別にみなみの事が嫌いだというわけではないはずだ。必要以上に束縛されて息苦しく感じる時もあるけれど、普通に過ごしている分には良い友人だとは思う。――そう感じられる時間が、段々と短くなってしまってはいるけれど。
 単に郁の中で比重の大半が佐和子に占められているだけの、それだけの話だった。
 電車は相変わらずがたりごとりと揺れていて、みなみに行こうと誘われた海に向かって走っている。泳ぎたいわけではなくて、ただ急に見たくなったのだと彼女は言っていた。
 唐突にみなみに電話で呼ばれて二人でどこかへ出かけるというのはよくある事なので、それを断る事も気にする事も滅多になかった。自分と彼女は親友であるらしいので、きっとこういうものなのだろう。
「ねぇ、どんな夢だった?」
 郁のぼろぼろの爪先を摘んで、指を色々な方向に曲げて遊びながら聞いてくる。自分のプレゼントした指輪がきちんとはめられているかどうか確かめるような、そんな仕草で。
 何となくだけれどあの夢の事は誰にも話したくはないと思った。特に、みなみには。
「――もう忘れちゃったよ」
 曖昧な笑みを浮かべてみせると、彼女はつまらなそうに息を吐いた。
 その音と重なるように、ぷしゅっと空気が抜けたような音がして電車が止まる。開いた扉の側に設置された機械に硬貨を放り込んで、足元に注意しながら電車を降りた。潮風と熱気に身体が包まれて、僅かに顔をしかめる。
「人、全然いないね」
「泳ぐようなとこじゃないしねー」
 郁の手を握ってからみなみは先に進む。腰の辺りまであるコンクリートの壁がずっと先まで続いていて、段差の下の向こう側では荒っぽい波が幅の狭い砂浜に打ち寄せていた。
 赤や黒のスプレー塗料で色々と猥褻な落書きがしてあって、彼女はそのざらざらとした表面を反対側の手のひらで触れながら歩く。
 下に降りられるような石段を見つけて、こっち、と腕を引かれた。
「……汚いね」
 幅の狭い石段を降りて、乾いた砂の感触を靴底に感じながらつい呟いてしまう。
 砂浜には海草や木片、ビニール袋や空き缶にペットボトルと様々なゴミが波で運ばれたままでろりと溜まっていた。確かに、綺麗でも遠浅でもないこんな場所でわざわざ海水浴を楽しむ人間なんていないだろう。
「ほら、このまま座ろうよ」
 そう言ってみなみが石段に腰を下ろしたので、郁もその隣りに座った。黒い船虫が素早く遠ざかっていくのが視界の端に映る。
 焼けるような陽射しに晒されながら汚れた海をぼんやりと眺めた。二人で腰掛けるにはお世辞にも十分なスペースがあるとは言えなくて、剥き出しの腕がお互いに触れる。体温が伝わってきて余計に熱が籠もった。
 出来れば別々に座りたいのだけれど、郁からそれを言い出す事はなかった。大抵いつも、みなみの判断にまかせて動く。
「そういえばさ」
 郁と指を絡ませながら彼女は顔をこちらに向ける。移動はしないと判断したようだった。
「前に、夏休みバイトするって言ってたじゃん。あれどうなった?」
 面倒だから何もしない事にしたよと答えると、みなみが見るからに上機嫌そうに顔を輝かせる。本当はバイト先についてもいちいち親友に相談しなければいけないのかと考えると気が滅入ってとてもする気になれなかっただけなのだけれど、郁が内心何を考えていようとそんな事は彼女にとってまるで関係がないのだ。
「それじゃ、あたしも暇だし休み中一緒に遊べるね」
「そうだね」
 そしてまた、何を話すでもなく海を眺めた。
 さらさらと風が砂の表面を撫でているのが見える。海辺には子供が遊んだまま忘れていったような小さな特撮番組の人形が随分痛んだまま転がっていて、マスクを被ったヒーローは少しずつ流れてきた砂にじわじわと埋まっていた。無力だ。
 あのすっとした柑橘類の香りと一緒に、わずかに肩に重みがかかる。見るとみなみが、まるで大型犬のペットを枕代わりにするのと似た仕草で郁の肩に頭を乗せてきていた。
「ねぇ郁。最近――」


「――なんだか、いつもと違う匂いがするわ」
 石段に座った服でベッドに腰掛けるのは気が引けるからと、フローリングの上でだらしなく胡座をかいて爪を噛んでいた郁の手をとりながら、佐和子が後ろから抱きついてくる。洋菓子のように甘い匂いがした。
 みなみの気が済むまで海を見た後に二人で遅めの昼食をとってから適当に買い物をして、夕方には彼女と駅で別れたのだけれど、駅から学校の近くまでバスが通っているのを見つけてついそのまま佐和子の家まで来てしまっていた。
 なんだかんだで、結局合い鍵を使っている自分が情けない。それでも大抵いつも佐和子は冷房の効いた部屋にいて、別に日光になんて当たらなくても生きていけるわとでも言いたげだった。
「え、ごめん、汗くさい?」
 ちょっと知り合いと海まで出かけててと続けると、佐和子はああ柴さんねと特に気にした風もなく言ってみせる。別にそういうわけじゃないのよと頭を撫でた。
「実際にどうこうじゃなくて、私がそう感じただけの感覚的な問題なの。そうね、ただの勘よ」
「んん」
 どうにも複雑な気分になる。あまりよく理解はできないが、どうも今日の郁には嗅覚というよりも第六感に働きかけるものがあると彼女も言いたいのだろう。そう、佐和子もだ。
 彼女は、自分といる時とは別の匂いが混じっているようでどことなく嫌だと言っていた。
「まあ、あまり良い気分ではないわね」
 猫背気味に丸まっていた背中を後ろに引き倒されて視点が90度切り替わる。天井を仰ぐ前に佐和子の顔が見えて、後頭部は当然後ろにいた彼女の太腿の上に落ちた。組んでいた足がほどけたけれど、部屋に積まれた荷物のせいで伸ばすスペースが見つからないので膝を折り曲げて軽く立てる。
「……何?」
「このままキスしてやろうとしたけれど、間抜けっぽいから考え直しているところよ」
「あ、そう」
 じっと自分を見つめている佐和子が真面目な顔で答えてきたのでおかしくなる。この体勢のまま佐和子が背中を精一杯に丸めている姿を想像してみると、確かに少し滑稽に思えた。
 のそのそと向きを変えながら体を起こして、佐和子と向き合うように座りなおす。彼女のひんやりとした指を自分の指と絡ませて、これでいい? とくすぐったい気持ちで首を傾げた。こうして戯れるのが結構好きな自分がいて、ごちゃごちゃと色々な事を考えるよりも楽な道をつい選んでしまう。佐和子といる時くらい他の事を忘れたかった。
「……ちょっと。今度はどうしたのさ?」
 繋がった指と郁の顔を交互に見ながら黙り込む佐和子に口を尖らせる。何か少しくらいリアクションを返して貰わないと、恥ずかしくて間がもたないではないか。
 その、と彼女は困ったような顔をする。
「郁から迫ってくるのは予想外で、調子が狂いそうなの」
「……そういうつもりは無いんだけど」
「駄目よ、せっかく可愛かったのに」
 何を言ってるんだと嫌そうな顔をして離れようとすると、強引に抱き寄せられて前屈みの妙な恰好のまま腕の中に包まれる。息苦しさに顔をあげると唇を舐められて、耳朶に熱が集まった。
 そのまま佐和子に下唇をはまれて目を白黒させる。何か不思議な、慣れない感触を覚えた。
「む」
 くぐもった妙な声が出た。声がこもるという事は、つまり唇を強く塞がれているという事だ。
 彼女とは毎日のように口付けを繰り返していたけれど、実を言えばそれらはただ触れるだけの至ってソフトなものばかりだった。つまり今のように舌が潜り込んでくるだなんて郁には想像もつかない出来事なのだけれど、佐和子は硬直する郁の頭を平然と押さえ続ける。
「……な、なに、なん」
 暫くしてからやっと解放されて口を開くけれど、言葉がどうにもうまくまとまらない。ぱくぱくと空気だけを吐き出していると、佐和子がまた首筋に腕を絡ませてきた。
「誘われたと思ったのだけれど。嫌?」
「だからそういうつもりは、ん、嫌とかじゃないんだけど、その、とにかくまだ駄目だよ」
 赤い顔を懸命に横へ振ると彼女はつまらなそうに鼻を鳴らす。案外うぶなのねなんて言われても、誰かと付き合うだなんて今までした事もなかったのだから当たり前じゃないかと思った。友人達から聞かされた知識だって、いつも器官で会話しているせいでろくに覚えてもいない。
「これでも私は、結構我慢しているつもりだわ」
 佐和子の口から我慢なんて言葉が出てくるとは思いもしなかった。
「それが全てじゃないとは思うし。郁が嫌がるなら、何もしない忍耐力はあるつもりよ」
 嫌がるなら、の部分をやたら強調されて閉口する。結局のところ彼女は郁が自分に惚れ込んでいると絶対の自信を持っているのだ。
 でもまあ、と佐和子は付け加える。
「やっぱり、もっと色々としてみたくはあるわよね」
 どこか遠い目で虚空を見つめる彼女から慌てて離れて、近付かないようにと牽制する。酷いわね、まだ何もしないわよ、そう不服げに呟くけれど、女王様の我慢なんておよそ信じられる要素が無いのではないかと思った。
 彼女は案外、進んでいる。


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