正直言うと、夏はあまり好きではない。
照りつける太陽が皮膚の表面をじわりじわりと溶かしていくようだし、日焼けをしないような対策だとか肌を露出するための準備だとかも面倒臭い。ましてや自転車を何十分も漕いで外を出歩くなんて正気の沙汰とは思えなくて、きっとこんな暑い日は家でだらだらと怠惰に寝そべっているに限るのだ。
そうは、思うのだけれど。
「あつ……」
首筋を垂れる汗の感触に顔をしかめながら郁は黙々と自転車のペダルを踏んで前へ進む。長い髪は郁には似合わないからとみなみに言われて肩の辺りで切り揃えておいたのを少しだけ感謝した。彼女や佐和子のように髪を伸ばしていたなら、きっと余計に熱が絡み付いて身動きも取れなくなってしまうに決まっているのだ。
ハンドルを片手だけで操作してみたり時には両手を離してみたりしながらすっかり覚えてしまった道を走っていく。よくよく考えてみると今の――家で昼食を食べてから少し経った午後2時という時間は一日で一番暑い時刻ではなかったっけ。
「佐和子さんは良いよね、楽でさ」
今頃あの冷房の効いた不健康な部屋で本でも読んでいるのだろうかと想像しながら独りごちる。この間なんてまだ夕方のうちからベッドで寝息をたてていたものだから、結局2時間ほどで目を覚ました寝ぼけ顔の佐和子と二言三言会話を交わしただけで夕食時だからと家に帰ったのだ。起こせば良かったのにと言われても勝手に部屋へ上がらせて貰っただけで気が引けていたし、眠る佐和子の側でぼんやりと過ごすしかなかった郁の身にもなって欲しい。
いや、そもそもあの時は眠っていると分かった時点で帰れば良かったのだし、時間にばらつきがあれどこうも毎日毎日佐和子の元に通う必要もないのだ。別に約束をしているわけではないのだから。
「……あつ」
それでも自転車を漕ぎ続ける自分は、ひょっとすると馬鹿なのかもしれないなぁと思った。
立派な門構えの玄関を通り過ぎていつもの様に裏口へまわる。側に自転車を止めてからポケットに突っ込んでいた鍵を取り出して、少し躊躇してから蝶番の錆び付いた扉を開けた。他人の家へこっそりと入り込むというのは、やはり慣れない。黒猫のキーチェーンが手のひらの中で揺れた。
早く一息つかせて貰おうと佐和子の部屋に足早に向かおうとして、
「――っ」
屋敷の中から聞こえる荒っぽい足音と怒鳴り声のようなものに気付いて背筋を伸ばして立ち止まる。随分近くから聞こえたようだけれど、何かあったのだろうか。
閉じられたカーテンのせいで中の様子を伺い見る事が出来なくて、郁は怖々と引き戸を開いた。そっと首だけを覗かせてみると、珍しく肩を上下させるほど息を荒くしたまま部屋のドアを背中で押さえている佐和子と目が合って、きょとんと瞬きする。
「佐和子さん? あの、一体どうし」
「早く入りなさい!」
「え、あ、ねぇ何かあっ」
「靴も!」
「う、うん」
何だ何だと思いながらも、酷く慌てている彼女の剣幕に押されて急いで部屋の中へ上がる。靴の裏についた砂を払おうとするとそんなものは気にしなくていいからと言われて、ひっくり返して隅に置いた。
「……参ったわね」
下唇を噛む佐和子に、自分は迷惑だったのだろうかと気分がしぼむ。
彼女にだって都合があるだろうし、いくら許可を得ているとはいえ家を訪れる頻度が高過ぎたのかもしれない。鬱陶しく思われてはいないかなと不安になっていると、ああ、と佐和子が郁の頭を撫でた。
「誤解しないで頂戴。来てくれたのはすごく嬉しいのよ? ただ、今はタイミングが悪くて――」
「佐和子!」
怒声と共に鍵を掛け忘れていた引き戸が乱暴に開いて、思わず佐和子にしがみつく。
彼女が深く息を吐き出しているのが伝わって、
「本当、参ったわ……」
憂鬱そうな佐和子も綺麗だなと場違いに考えてしまう自分は、やっぱり馬鹿なのだ。
落ち着かない、落ち着かない。全然、落ち着かない。
リビングというのは寛ぐための場所ではなかっただろうかと、郁は高級そうな革張りのソファーで身を強張らせながら思案する。それとも、単にだだっ広いだけの客間なのかもしれない。郁の家で一番広いリビングと同程度の広さを持つ客間というのが、一介のサラリーマンの娘としてはいまいちピンとこないのだけれど。
重厚な造りをしたテーブルを隔てた先、この息の詰まるような空間に座るはめになった原因をちらりと見やる。20代後半ほどの、縁のない細身の眼鏡をかけた神経質そうな女性がそこにいた。
幾分の乱れもなくアップに纏められた髪の毛やかっちりと着込んだスーツ、端整だけれど冷淡そうな顔立ちは、街中で見掛ける分にはあれがいわゆるキャリアウーマンなのだろうなと感心出来そうなのだけれど、今の状況ではとてもそうは思えない。どちらかといえば学校の生徒指導室で教師に説教でもされている気分だ。
先程乗り込んで来た怒声の主である彼女はこちらを値踏みするような目で眺めながらクリスタルの灰皿に次々と煙草の吸い殻を積み重ねている所で、鉄製の檻を頭から被せられたような威圧感にうんざりとさせられる。郁の隣りに座る佐和子も、苦虫を噛み潰したような顔で前を見据えていた。
佐和子はきっと、目の前の彼女と言い争いでもしていたのだと何となく想像がついた。それも多分、自分絡みの事で。
「『犬や猫じゃあるまいし、隠れて人を部屋に招き入れるなんてあるわけないでしょう』」
何の脈絡もなく呟く女に郁は首を傾げそうになるが、佐和子の眉間にある皺は一層深くなる。ああ、今のは佐和子に対する嫌味なんだろう。前に言った事をそっくりそのまま復唱するとか、そんな類いの。
「それじゃその子、犬や猫なわけ?」
自分で鍵や窓まで開けられるなんて随分お利口さんじゃないと馬鹿にするように笑われて、郁は露骨に顔をしかめる。佐和子の家にいるからには彼女の家族か何かなのだろうけれど、こうもあからさまな敵意を向けられては愛想笑いも浮かばなかった。
つい素のままで応対してしまった事を少し後悔する。学校でやるように上っ面だけでも作れていれば、まだ大人びた真似が出来たかもしれない。
不貞腐れた様子の佐和子が、だから、とテーブルを指で叩いた。
「人間だって見れば分かるでしょう? しつこいのよサエコは」
「お姉ちゃんは佐和子の事が心配で言ってるんじゃない。大体、呼び捨てはやめなさいって言ってるでしょ?」
「嫌よ、サエコ姉さんなんて呼ぶのは」
再び言い争いを始める二人に多少置いてけぼりにされながら、郁はサエコとやらについて考えてみる。
よくよく見れば佐和子と顔付きが似ていなくもないけれど、彼女に姉がいるなんて話は聞いた事がない。郁が妹の未来について話した時は、そう確か、自分は一人っ子だから兄弟姉妹がいるのは羨ましいと言っていた気がする。
たまたま遊びにきていた従姉というのも考えられるけれど、確か佐和子と一緒に住んでいるのは祖父と祖母と――
「……あ。叔母さん」
「おばさんですって?」
つい口に出してしまったのをサエコに聞き咎められて、違うんですか? と返す。
想像していたより随分若いけれど、きっと彼女が自分には会わせたくないという叔母なのだ。だから郁は裏口から佐和子の家に入る事になったのだし、実際こうして会ってみると、やはり会いたくはなかったかなと感じてしまう。
「あのね、あなた」
サエコから向けられる視線が余計厳しくピリピリとしたものになって、何かまずい事をしただろうかと思わず姿勢を正した。彼女は眼鏡のブリッジを指で押し上げてから深く紫煙を吸い込んで、また一つ灰皿に吸い殻を積み重ねる。
「私の、どこがおばさんなわけ?」
「どこって、あの、やっぱり顔が」
「顔っ……ふざけないで!」
「え?」
顔が佐和子に似てますよねと言いたかっただけなのにと狼狽えると、ぷっと佐和子が隣りで吹き出す。おかしくてたまらないといった様子で頭を撫でられて、人前なのにと少し恥ずかしかった。
「そう、そうよ。郁は賢いわね。サエコはおばさんよ」
「う、うん。叔母さんでいいんだよね?」
「違うわよ!」
くすくすと笑い続ける佐和子と、ヒステリックに怒鳴るサエコ。
――なんだか、いまいち会話が噛み合っていないような。
「あの」
「……何?」
「私は、親戚の叔母さんなのかって事を言いたかったんです。ええと……お姉さんの事を」
ぴたりとサエコが微動だにしなくなる。また、怒鳴られてしまうんだろうか。
「ねぇあなた」
「は、はぁ」
「お菓子食べる? クッキーは好きかしら。アイスクリームもあるわよ」
「は?」
飲み物は何が良いだとか、良かったら夕食も一緒にどうだとか、態度の急変するサエコに郁が戸惑っていると、それを見た佐和子はただただ溜め息をつく。
ああ、変な人なのだ。
やはり会わない方が良かったのかもしれないと、郁は深く後悔した。
つまりはこういう事らしい。
夏になってから毎日のように裏口に止められている自転車を冴子が――こういう字を書くらしい――不審に思い、祖父母がいない間に佐和子を問い詰めた。
男でも連れ込んでいるのではないかと年頃の姪を心配したつもりでも、郁を叔母に会わせる気のない佐和子はただの放置自転車だろうと取り合おうとしない。
そんなわけがない、ならあの自転車を捨ててもいいのか。それは困る、勝手な事をするな。やっぱり誰か隠しているんだろう。だからそんな事はない。とそんな内容の事で言い争っていたけれど佐和子が自分の部屋に逃げ込んでしまって、冴子は余計に訝しむ。
そこで間の悪い事に郁が訪れて、再度自転車がないか裏口へと回った冴子が怒鳴り込んできたのだ。
「大体、佐和子が紛らわしい事をするからいけないのよ。ただの友達なら初めからきちんと紹介して、玄関から入って貰えば良かったのに」
その方が椎名さんもいいわよね? と熱いコーヒーを啜る冴子に話を振られて郁は曖昧な笑みを返す。ただの友達なら、それはまあその方が良いのかもしれないけれど。
「だって冴子は昔から鬱陶しいんだもの。前は私が誰を連れてきても根掘り葉掘り聞こうとして、お菓子を持って来ただのなんだのって結局私の部屋にまで上がり込んできてたでしょう」
確かに、困る。
「それはせっかく遊びにきたお姉ちゃんを放って友達と遊ぶ佐和子が悪いの」
「……冴子が来る日だから人を呼んでたのよ」
佐和子が引っ越してくる前の家での話だろうか。
彼女は昔の話をあまり聞かせてくれないから、小さな頃を知っている冴子が何だか羨ましい。姉から預かった大切な娘なんだからと言っているのを聞いて、佐和子は親の仕事の都合か何かで実家に預けられているわけなのだろうかと考えてみた。
とにかくもう高校生なのだから人付き合いについてうるさく言う気はないけれど、たまには挨拶くらいしていきなさいと郁も注意された。
夕飯については丁重にお断りして、そろそろ帰るからと今度は玄関から外へ出る。
お菓子がもう少し余っているから気に入ったなら持って帰って貰いなさいと冴子に言われて佐和子が菓子を取りに戻っている間、彼女と少し話をした。
「でも椎名さんみたいな子が佐和子の友達っていうのは、少し意外ね」
「それは、まぁ、そうですね」
外見的にも性格的にも、趣味だってまるきり別のタイプのようだから、と郁も不思議に思う。自分が佐和子に惹かれているのはもっと深い部分かもしれないけれど、口には出さないでおいた。
「椎名さん」
何故か握手を求められて、首を傾げながらそれに応じる。
「もしあなたのせいで佐和子に何か起きたら、許さないから」
骨が軋むほど強く握られた手は、注意というより警告だった。
嫌な汗がどっと背中から溢れるのを感じながらなんとか頷いて、逃げるように冴子から距離を取る。先程までとはまるで違う人間を前にしているようで恐ろしかった。
丁度佐和子が戻ってきて、何か変な事でもされたの? と冗談めかして聞く。
「まさか。また来てね、椎名さん」
「……は、い」
それじゃとぎこちなく手を振り、裏口まで佐和子と自転車を取りにまわる。冴子はもう家の中に戻ったから、途中まで送ってくれると言う。
自転車を押しながら二人でゆっくりと並んで歩いた。
「今日はあまり一緒に居られなくて悪かったわね。家に来るのも、今まで通りでいいから」
「あ、いや、別に気にしてないよ。大丈夫」
何が大丈夫なのか自分でもよく分からないけれど、申し訳なさそうな顔をする佐和子というのはどうにも落ち着かない。彼女も自分と同じ、まだ高校生の少女なのだ。子供だけで自由に行き来出来る世界なんて、きっと存在しないんだろう。
大人に言われたなら仕方ないよと、たまにはこちらから佐和子に口付ける。
「ね、郁。好きよ」
「ん」
照れ臭くなって、笑った。
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