テレビの画面を流れているのは一体何だったかなぁと、ぼんやり思った。
 確か何年か前に流行った恋愛映画で、ヒロインが病気で死んでしまう話だ。それから作られたドラマのヒロインも大抵が不治の病に冒されていて、いくら流行といったって誰かが死ねば必ず感動出来てしまう話ばかりが続くと飽きられてしまうんじゃないだろうか。現に、その傾向は最近ぱったりと止んだ。
「郁、これ嫌い?」
「んん、別に。大丈夫だよ」
 クッションを抱いて胡座を組んでいた郁の隣りに寝転んでいたみなみが、くるりと体の向きを変えて尋ねてきたので首を横に振る。そんなにつまらなそうな顔をしていたかなと反省した。
 彼女は結構、人の心や表情の些細な動きに敏感な方なのだ。だから学校でも人気があるのだと思うけれど、郁にとってはその分他の友人達より調子を合わせ辛い。
「あたしもこの映画そんなに好きじゃないしさ、他の見ようよ」
 今だってこちらが何かを言う前にさっさとDVDを止めて、他のディスクをデッキに差し込んでいる。恋愛映画にあまり興味がなかったのは事実だけれど、いつだってこうだ。行動を先回りして相手が気に入りそうなものを用意してくる。嫌な事をされているわけではないから、逆らう事もなくみなみに従っている結果になる。
 マンションの一室にあるみなみの部屋には物が溢れているけれど、それらはどれも必要なものばかりだった。佐和子の部屋のように二度と使われる機会もなくひっそりと積まれているのではなくて、空いた時間を潰せる娯楽的な要素を持つものだ。そのうち飽きたら処分されて、新しく欲求を満たせるものがその場所に配属される。
 郁がみなみと出会う前には、別の誰かがクッションを抱いて座っていたのかもしれない。
「今日さ、郁うちに泊まってよ」
「え?」
 急な話に上手く反応が出来なかった。この家に泊まる事は過去に何度もあったけれど、今日の予定はみなみと買い物をして、家に寄っていくだけではなかったのだろうか。
「でも――」
 みなみのお母さんに悪いよと言おうとしたけれど、彼女と二人で暮らしている母親は今週も出張でいないのだという話を事前に聞いていたのを思い出した。着替えを用意していないという理由も、昼間買ったものは主に下着と洋服じゃないかとかき消される。これから佐和子に会いにいこうと思っていただなんて、彼女に言えるわけもない。
「ほら、決まり」
 まごついていると彼女は無邪気そうに笑って、そばに転がしていた郁の携帯電話をぽんと投げてくる。求められるままに家に連絡の電話をいれた。
 何だか、騙されたような気分だった。


「あーもー、また負けちゃったし。郁あれどうやるの? ぎゅーんってダッシュするやつ」
「みなみがちゃんと説明見てないからだよ。王様が最初に言ってなかった?」
「えー、あたし覚えてないよ。教えてってば」
 深く考える事もなく、軽快な音楽と共に笑いあってゲームをするのは単純に楽しかった。
 彼女の部屋には郁が所持していない最新のゲーム機やソフト、漫画や映画のDVDなんかも沢山揃っていて、あれに興味があるんだよと零した事があるものもいつの間にか用意されている。どちらかと言えば部屋に籠って遊ぶより外に出かけて街をぶらつく方が好きだと思っていたし、そういう趣味があるようには見えなかったので意外だったけれど、共通の話題が出来るというのは嬉しかった。
 よく財布の中身が保つなとはたまに思うけれど、母子家庭にしてはみなみの家の経済事情は悪いわけではないようだし、一人っ子というのはこんなものなのだろうかとあまり気にした事はない。
 服装や音楽の好みだって合うし、郁がどろどろと現実じみた恋愛や交遊関係についての大人びた会話が苦手なだけで、やはり普通に過ごすだけなら彼女は良い友達なのだ。
「なんかお腹空いたー。ご飯作ったげるから、好きな事してて」
「ん」
 立ち上がって部屋を出て行くみなみを頷きながら見送る。時計を見ると7時をまわっていたところだから、多分郁の母親も今頃夕飯を作り始めているんだろう。彼女の家に泊まる時はいつも自分の家にいる時と生活リズムが変わっていない。エアコンだってあるし、嫌いな野菜が山のように食卓に並ぶ事もなくて、むしろ待遇が良いくらいだ。
 ぼんやりとゲームを続けていると用意が出来たと呼ばれたので、痺れた足を伸ばしてからそちらに向かう。母親に代わって家事をする機会が郁の何倍も多いというみなみの料理の腕はなかなかのものだし、好物ばかり差し出されては文句のつけようもなかった。
「よかった」
 残さず食べ終えた食器を洗いながらみなみが呟いた。
「あたし最近、郁に避けられてんのかなと思ってたから」
「別に、そんな事……」
 ないと最後まで言い切れない自分が嫌だった。
 彼女の言う通り郁は佐和子にかかりきりで、みなみに会う時間が鬱陶しいとすら思う時があったのだ。ひょっとすると、束縛されていると感じるのも自分本位な考え方だったのかもしれない。好意を向けてくれているのに、それを内心踏み潰していたなんて最低だ。
 自己嫌悪に肩を落とすと、何しょげてんのとみなみはからからと笑った。
「良いってば。あたしら親友じゃん? 今日は前みたいに楽しそうだったしさ、もう気にしてないよ」
 テーブルの椅子に座ったままの郁の頭を慰めるように撫でて、先に風呂を済ませるように背中を押される。その手のひらに安堵しながら頷いた。
 服を脱いで、温かな湯船の中に深く浸って嫌な思考を真っ白にする。髪の毛を洗っている時に、このシャンプーは前に自分が彼女に勧めてみたものだと気がついた。ちゃんと使ってくれているのだ。
 今まで周囲に合わせて自分を偽ってきた事や、佐和子の事も少しだけ話してみようかと思った。付き合っている事まではさすがに無理だけれど、実は案外気が合うようだからあまり彼女についての悪口を郁に聞かせないで欲しいのだという事くらいなら。
 親友というのも今は悪くない言葉に思えた。器官を使わない素のままでいても、みなみに受け入れて欲しい。その為には、うん、きっと隠し事は無い方がいいに決まっている。
 頑張ろう、と自分に檄を飛ばすように勢いよく湯船からあがった。
「あ」
 そういえば寝間着とタオルはどれを使えば良いのか聞くのを忘れていた事に気が付いていきなり躓く。
 情けない声でみなみの名前を呼んで、助けを求めた。


 一度躓いてしまうといつ言い出せばいいのかと悩んでしまって、結局みなみが郁の後に風呂を終えても何一つ話せないままテレビを眺めてしまっている。彼女が欠かさず見ているらしいドラマやバラエティ番組が終わる頃には時計も11時をまわっていた。
 どうしようかと決心が折れそうになって、落ち着かないまま手持ち無沙汰に鞄の中身や携帯電話を弄ろうとしたけれど、これは確か底の方にしまっていたはずじゃなかったっけとか、携帯はこちら向きに置いていなかったっけとか、多分みなみか自分が気付かないうちにぶつかったかどうかして動いてしまったらしい物の位置すらも気にかかった。荷物を探りながら自分の指先を見て、そういえば爪が少し伸びてしまっているなと気付いたりもする。爪の白い部分が余っているとどうにも引っ掛かるような感触が気持ち悪くて、噛みたくなるのだ。
 落ち着くどころか、これではまるで挙動不信だ。
「ねぇ、郁ってエリとか加藤とよくメールすんの?」
 みなみからふいにクラスメイトの名前を出されて、どうだったかなと思いながら携帯電話のメールボックスを確かめた。友人のエリには彼氏についての愚痴や相談を受けて何かアドバイスでもしていたみたいだし、加藤という男子とは恋愛について深く突っ込まれた質問をはぐらかしながら他愛の無い話ばかり交わしている。
「そうかも。どうかしたの?」
「んー、別に。二人にそんな話聞いたの思い出しただけ」
「そうなんだ」
 話題にあがるほど変な事は話していないはずだけれど、返信済みのメールには本当に自分が打ち込んだのだろうかと疑ってしまうような的確な言葉ばかりが並んでいて、これでは誰とどんな内容でメールをしたのかいちいち確かめなければ分からないはずだと思った。色恋沙汰を無意識に処理するように働く郁の器官は、随分と高性能らしい。
「郁」
 後ろから覆い被さるように抱きすくめられて、彼女の顎がこつりと額に当たる。乾ききった髪の毛が頬に触れた。
 みなみの表情が見えないままぎゅっと腕に力がこめられるのは、子供がお気に入りのぬいぐるみを抱いているみたいだ。
「そろそろ寝ようよ。あのさ、狭いけど一緒のベッドでいい? 布団出すのちょっと面倒だから」
「あ、うん、いいよ」
「ありがと」
 うちの押し入れもいい加減整理しないと駄目なんだけどね、と彼女は笑いながら離れてベッドにかかったタオルケットを端に寄せる。まだ眠たくはないのだけれど、話をするには丁度良いのかもしれない。
「……落ちないかな、これ」
「もっと寄ればいいじゃん。あたし気にしないし、クーラー効いてたら暑くないでしょ」
 仰向けのまま寝返りを一度でも打てば床に這い蹲ってしまいそうで苦笑いすると、こちら側を向いていたみなみに腕を引かれて言われるままに体を寄せる。確かに暑くはないのだけれど、彼女にしがみつかれた右腕だけは体温が伝わって別だった。冬なら、まだ良かったかもしれない。
 電気の消された真っ暗な部屋で、どこから話せばいいのか少し悩みながら口を開く。
「あたしさ」
 先を越されて、また躓いた。
「郁が、何で急に遅刻しなくなったか知ってる」
「――え?」
 冷たい声に息が出来なくなる。彼女の長い爪が手首に食い込んだ。
 ああ、駄目だ、怒っているんだ。
「早く起きるの苦手な癖に、あたしじゃなくてあいつばっかり見てた。最初はまだ大丈夫だと思ってたけど隠れて図書室にも行くようになって、二人で会ってたでしょ。ねぇ、何考えてんの? あたしと郁って、親友じゃなかったの?」
 耳元で静かに紡がれる言葉に気分が悪くなった。いくら呼吸をしても酸素が足りない気がする。体温がどんどん下がっていって、凍えてしまいそうな程寒い。
 友達だとしても、やはり彼女が向けてくる好意は異常ではないのか?
「それ、は。みなみが、雨宮さんの事嫌いって言ってたからで……」
「郁があいつの事気にするから嫌いなんじゃない!」
 なんとか答えようとしても怒鳴られてすぐに萎縮する。片腕を掴まれていただけのはずがいつの間にか肩を押さえて組み敷かれていて、暗闇に慣れた目が微かにみなみの輪郭を捕えたけれど表情までは見えなかった。自分はきっと、怯えて泣きそうな顔をしているに違いない。
「あたしのどこが不満なわけ? ゲームだってアクセだって、郁の好きなものは何でもあげてるでしょ? まだ足りない?」
 本当はあんなつまらないもの見たくもないのにと吐き捨てられて頭がぐらぐらした。
 指輪のはめられた指が妙に重い。そういえば、彼女が所持するソフトにはどれもセーブデータが一つしかなかった。郁が家へ遊びに来る度に進めていた分だけだ。なんで気がつかなかったんだろう。
 笑顔の裏で隠し事をしていた数は、自分と彼女のどちらが多いのだろうか。
「学校で郁の事守ってあげてるの誰?」
 みなみ。
「郁の趣味も好みも、試験の点数だって全部知ってるのは? いつも一緒にいる親友は?」
 みなみ。
「郁に好かれて当然なのは、雨宮じゃなくて誰?」
 それはおかしいよ、みなみ。
 彼女の事は嫌いではなかった。人付き合いが上手くて、洒落ていて、周囲を束ねる力があって、大人びていて頼りになる、理想の高校生だった。
 そんな彼女が、真似事しか出来ない子供である自分のどこにそこまで執着する理由があるのか理解出来ない。玩具やペットのように金を払っても、自分だけの持ち物として隙間を埋められないから?
 気持ちが悪い。
 みなみを押し退けて、なんとか首だけをのぞかせてベッドの下に胃の中身を吐いた。
「も……帰る……」
 手の甲で口元を拭いながら弱々しく呻いた。体が小さく震えていて、上手く力が入らない。彼女が電気を付けてタオルを顔に押しつけてくるのを振り払う事も出来なかった。
「バスも無いのに、こんな時間に一人で歩いて帰れるわけ? 無理だと思うな、あたしは」
「家に、電話して、迎えに来てもらう……」
「してみたら?」
 せせら笑われて、脱力感に苛まれながら携帯電話のボタンを押した。
 数コール待つと眠たそうな父親の声が聞こえる。こんな時間にどうしたんだと怒られて、みなみと喧嘩をしたから迎えに来て欲しいと説明すると、お前の我儘で柴さんに迷惑をかけるなとまた怒られた。
 違う、自分は何も悪くない。
「ほら」
 携帯電話を取り上げられる。自分も悪かったのだからもう少し話をして落ち着くのを待ちますだなんて余所行きの声を出して、すいません郁をよろしくお願いしますと、そんな父親の声が機械越しに聞こえてから通話を切った。
「結局ね、郁は一人じゃ何も出来ないんだから。あたしがいないと駄目なんだよ」
 返事をする気力も無くなって部屋の隅に座り込む。投げ返された携帯電話を開くと、せめて写真でもいいから会いたいと思った佐和子の顔がどこにも見当たらなかった。多分、携帯電話の向きが変わっていたのはただぶつかって動いただけではなかったんだろう。
 郁の吐瀉物を片付けたのはみなみだった。
 郁をベッドまで引きずって寝かせたのもみなみだった。
 郁が目を覚ますと何食わぬ顔で笑ってみせたのもみなみだった。
 郁を着替えさせたのも家まで連れて帰ったのもみなみだった。
 一人では、何も出来なかった。


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