中学生の頃一度だけ、人に向かって石を投げた。
 的になったのはクラスから孤立した一人の女生徒で、同じ小学校を卒業していたから昔は昼休みのグラウンドで一緒に遊んだ事も何度かあったと思う。その彼女がある時教室の隅で誰かに囲まれたまま泣いていたのが始まりで、気が付いた時には下駄箱の靴を隠されたり、机に汚らしい言葉を書き殴られたり、雨が降る通学路でわざと突き飛ばされるようになった。原因は、よく覚えていない。
 初めは無関係を装ってただ遠巻きに眺めていただけのつもりだったのだけれど、教室に渦巻く陰湿で重苦しい空気にいつの間にか郁も飲み込まれていたんだと思う。授業中に回されてきた嫌な単語の書かれた紙屑を、彼女の背中に向けてそっと投げ付けた。
 それは自分にとっては小さく軽いものでも彼女にとっては心が引き裂かれそうなほど痛々しいものであると分かっていたし、こんなくだらない事はやめようと紙屑をポケットに突っ込んでいれば良かったはずなのに、出来なかった。
 そのうち彼女は学校を休むようになって、教室ではまた別の生徒が石を投げられるようになって、そしてまた同じ事を繰り返す。
 自分は、あんな目に遭いたくはない。
 高校に入学してすぐ柴みなみという人間に出会って、彼女なら郁を守る盾になってくれるだろうなと感じたのは確かだった。校則すれすれの格好をして、いつも馬鹿騒ぎをしているグループに属して、そうしていれば安全な檻の中で平穏に暮らせるのだ。
 その代償がみなみの所有物になるだけだなんて、何と楽な取引だろうか。
 夏休みは残り一週間も無い。来週からはまた、何不自由ないはずの檻に戻るのだから。
「――はい、これ数学の答えね。どうせ先生もろくにチェックしないんだから適当に写しなよ。世界史のレポートは終わった?」
 問題に付属されていないはずの解答をみなみから受け取りながら、まだだと首を横に振る。すると彼女はまるで予定でもしていたかのように別の用紙を積み重ねて、これが郁の分だからと付け加えた。読みやすく丁寧な文字が並んでいて、手本にするには丁度良いんだろう。
 両親はいつものように仕事だし、未来は友達と映画を見に行くのだと朝早くから出かけている。
 壊れて風量が最大になったままの扇風機が生温い風を送り続ける部屋の中で他人の宿題をただ書き写していると、こうして使われない脳味噌が余計に劣化して馬鹿になっていくんだなと実感した。
 本来の機能を殆ど果たしていなかった勉強机には当然椅子が一つしかなくて、猫背気味に腰掛けている郁の隣りに立ったみなみはこちらの表情を覗き込みながら満足げに髪を撫でてくる。
「試験前はちゃんとポイント教えてあげるからね。郁は、何も心配しなくていいんだよ」
「……うん。ありがと」
 先週から毎日のように家に来ている彼女が優しい口調で言ってきたので、機嫌を損ねていない事への安堵に頬を緩ませた。だらしなく遊んでばかりの娘に勉強を教えてくれるのだと言う親友の存在に母親は喜んでいたし、インスタントしか触れない姉と違って手作りの昼食までこしらえてくれる親友の存在に妹は感心しきっている。
 どうせ一人では何も出来ないのだから、いっそどこまでも彼女に甘えて依存していればいい。諦めと退廃さえあれば、異常はどこまでも正常に近付いていく。
――ふいに、握っていたペンを落とした。
 喉の奥に覚えた引っ掛かりを誤魔化そうと下唇を噛んだけれど、一度認識した違和感は流される事なく膨れていって頭の中が破裂しそうになる。
 無理だ、無理だ、無理だ。自分は何を黙って受け入れているんだろう。結局あの頃と変わらず、ただ無力なだけじゃないか。
 紙屑のぶつかる感触に振り向いた女生徒の絶望に濁った瞳が脳裏に再生されて、死にたくなった。
「みなみは」
 目を合わせずに俯いたまま声を絞り出す。心臓が狂ったように脈打って内臓が軋んだ。
「みなみは、私のどこが好きなの?」
 飼い慣らされるための理由と、言い訳が欲しかった。自らが望んでこうしているのではなくて、求められているから仕方なく現状を受け入れているのだと錯覚したい。
 選択するだけの権利は、郁にだってあるはずだ。
「……何でそんな事聞くわけ?」
「答えてよ」
 流されそうになるのを必死に否定した。
 郁は佐和子を構成する全てが好きで、一緒に過ごす時間も唇に伝わる柔らかな感触も、たまらなく幸せで心地の良いものであったのに、その何もかもを諦めてまでみなみに束縛されるための言葉をただ欲してしまっている。
「弱いとこ、かなぁ」
 それほど大きな声でもないはずなのに、やけにはっきりと響いた。
 大体さ、と彼女は精一杯の虚勢で噛み付いてきた郁に笑いながら続ける。選択権を持とうとしたのが、まず間違いだったのかも知れない。
「あたしの事を必要としてるのは郁の方でしょ? だって郁が学校で一人でいるの見た事ないもん。いつも誰かと一緒じゃないと、不安で不安でしょうがないんだよね」
「……違うよ」
 逸らしていた視線を強制的に引き戻される。顎を掴んでくる指が冷たかった。
「違わない。あたしなら、郁に何でもしてあげられる。郁を守って、いつも一緒にいてあげられる。いくらでも隙間を埋めてあげられる」
――寂しいなら、恋人の真似ごとだってしてあげるよ。
 冗談めかしながら頬に唇を寄せられて、逃げるように立ち上がった。背丈はこちらの方が高いはずだし、力だって少しは強いはずなのに、みなみは驚いた様子を見せる事なく郁を静かに見据えてくる。
 今の反抗的な態度は発作か何かと同程度で、すぐにまたおとなしい飼い犬に成り下がるとでも思っているんだろうか。
「みなみが、いなくても。私には佐和子さんがいるから」
 呼び名を訂正するのも忘れていた。頬を手の甲で擦って、突き刺さる事のない牙を剥き出してみせる。
 追い詰められてヒステリックになった郁に、彼女はただ呆れて肩を竦めた。
「佐和子って、雨宮? あいつもそのうち郁のこと見捨てちゃうよ。郁に必要なのはあたしだけだって、何で分かんないかなぁ」
「そんな事ない!」
 鞄を引っ掴んで、声を荒らげながら部屋を飛び出した。
 転びそうになるほどの勢いで階段を駆け下りてから靴の踵を踏み潰して、焼け付きそうな日光に体を晒す。ガレージから乱暴に自転車を出して部屋の窓を見上げるとみなみがつまらなそうに顔を覗かせていて、振り切るようにペダルを漕いだ。
 蝉の声が鬱陶しい。まとわりつく汗も酸素を求めて痛む肺も、押し込められてどうにかなってしまいそうな心と比べれば大した事なかった。佐和子なら、この閉鎖された世界から助け出してくれる。
 息を切らせて、自転車を放り捨てた。
 目の前にある木製の扉をすぐにでも開けようと鞄の中身を掻き回す。それだけで、大好きだった穏やかでゆったりとした時間が手に入るはずだった。
「――何で?」
 鍵が、見つからない。
 半ばパニックに陥りながら何度も何度も鞄を探る。いつもは底の方にひっそりとしまってあったはずで、最近は取り出してもいなかったはずなのに。
 ぞっと、寒気がした。
 鍵が無くなる理由なんて、考えるまでもないのだ。郁が前まで持っていなかった物に、みなみが気が付かないはずないじゃないか。
「……郁? 何をしているの?」
 へたりこみそうになるのを堪えていたのに、涙が出た。
 本屋の包みを手にした佐和子が泣きじゃくる郁に駆け寄ってきて、あやすように背中をさすってくれる。暑いのは嫌いな癖に、体温の上がった体をぎゅっと抱き締めてくれた。
「鍵を無くしてしまったの? 困った子ね、そんな事で泣かないで頂戴」
 違う、違うけれど。
 やはり佐和子なら郁を助け出してくれると、涙が止まらなかった。


 冷たい麦茶が喉を通り過ぎて、がむしゃらにペダルを漕いだ足に疲労が蓄積される。
 裏口ではなく玄関から――こんな簡単な答えも思い浮かばなかった――招き入れられたので廊下の途中冴子と擦れ違ったけれど、彼女は何も言わずに通り過ぎてくれた。
「落ち着いた?」
 柔らかなベッドの縁に並んで腰掛けていた佐和子が尋ねてきたので、情けなくしゃくりあげながら頷く。何だか本当に久しぶりに彼女の声を聞いたような気がした。
 佐和子の部屋は前と変わらず寒すぎるくらいに冷房が効いていて、今はそれが心地良い。
「あの、ごめんね急に」
「別に気にしないで。最近あまり会っていなかったから、驚きはしたけれど」
「……ごめん」
「何度も謝らないの」
 まるで私が嫌味を言っているみたいじゃない、と苦笑しながら口付けられる。佐和子は軽く触れただけで離れようとしたのだけれど、それが嫌で肩に腕を回してしがみついた。一瞬彼女は目を丸くして、今度は深く口付けてくれる。
 浅い呼吸を繰り返して、貪るように佐和子と舌を絡ませた。服の布地に指が食い込んで、鼓膜にぬめった水音が響いてくる。細かな技巧なんてよく分からなくて、ただ頭の中が真っ白になった。
 これだけでは物足りない気がして、シーツの上に彼女を押し倒して体を捩らせながら覆い被さる。でも佐和子は慌てた様子で郁の額を手のひらで押さえて、引き剥がすように行為を中断させた。
「ちょっ、と。待ちなさい、どうしたのよ本当に」
「駄目なの? 佐和子さんも、私と恋人の真似ごとしてるだけ?」
 昂った神経がみなみの言葉を反芻させる。
 顔にかかる熱い吐息にもどかしさを覚えて口走ると、肘をついて起き上がった彼女はわけが分からないと体を離した。
「だから、私もってどういう事? 話してくれないと分からないでしょう」
 苛立ちながら佐和子が告げる。感情だけが先行してしまっていて、喉をぐっと詰まらせた。異物を飲み込んだような鈍い痛みが芯を通過していく。
「だって、みなみが」
「柴さんに、何かされたの?」
「されたっていうか、その」
 上手く言葉で説明する事が出来なくて、焦燥感で余計頭が回らなくなる。きっと、脳味噌が劣化してしまったせいだ。
 佐和子に会えばそれで全て終わると思っていたのに、何故分かってくれないのだろう。原因を順序立てて聞かせるなんてまどろっこしい真似をせずに、何も聞かず甘やかに守ってくれるとばかり思っていた。
 とにかくもうみなみに束縛されるのは嫌だから助けて欲しいと縋り付いたのに、彼女は首を横に振りながら溜め息をつく。
「確かに郁が辛そうにしてるのは分かるわよ? でも、それを私にどうしろって言うのよ。柴さんの襟元を掴んで、うちの郁と関わるのはもう止めて下さいとでもすごんで見せればいいの?」
「そ……そうしてよ、そしたらみなみも諦めてくれるかも――っ!」
 頬に弾かれたような痛みが走って、愕然とする。
 じくじくと熱を持つ頬を押さえながら背中を丸めると、佐和子はただ静かに息を吸った。
「いい加減にして頂戴。あなたは結局、私を柴さんの代わりにしてるだけじゃない。柴さんの相手をするのが面倒になったから、次は私に乗り換えるんでしょう。誰かに頼らないと何も出来ないの? 少しは、自分一人で考えなさい」
 彼女が何を言っているのか理解出来なかった。
 佐和子がみなみの代わりだなんて、二人はまるで別の人間ではないか。郁は佐和子しか見ていないはずだし、第一、困ったことがあれば恋人に相談するくらい当たり前ではないのか?
「ちが……一人で出来ないんじゃないよ、みなみが、やらせてくれないせいで」
「もう帰って。私だってまた郁を叩きたくはないもの」
 想定もしていなかった状況に狼狽えながら言い返すけれど、腕を掴まれて無理やりに立たされる。佐和子はうんざりと郁の手を引いて歩いて、追い出すように踵の潰れた靴を履かせた。
 雲一つ無く晴れた空の下で倒れた自転車を起こして、気怠い気分でサドルを跨ぐ。隣りに立つ佐和子に、そっと問い掛けてみた。
「佐和子さんは、私の事好きじゃないの? どうでもよくなった?」
「……どうでも良いわけじゃないのよ。大切にするのと、甘やかすのは違うでしょう」
「そっか」
 一つ目の質問には答えてくれないのかなと思いながら地面を蹴って走り出した。
 夏の始めとは種類の違ってきた蝉の鳴き声を聞きながら、口の中で小さく呟いてみる。
――あいつもそのうち、郁のこと見捨てちゃうよ。
 今から家に帰っても、彼女はまだ待ってくれているだろうか。
 ゆっくりと自転車を漕いでいると、何だかお腹が空いてきた気がする。冷蔵庫にはろくな食材がなかったはずだから、二人で近所のスーパーまで買い出しに行って、遅めの昼食を作って貰おう。
 今日の事だって素直に謝らなければいけない。間違っていたのは郁の方で、いつも傍にいてくれるのは彼女しかいないのだから。重かった足取りが自然と軽くなる。早く帰ろう。
 ただいまと言えば、みなみは喜んでくれると思うから。


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