【看病とは、相手に付き添いまごころをもって世話をする事である】

 引き際が分からなくなってしまう事が千春にはよくある。
 あと少しくらいなら大丈夫だろう、それを結局止まる事なく繰り返してしまって、気付いた時には死にたくなるほど後悔する。
 それは例えば歩と口喧嘩をしている時にどうしようもなく酷い事を言ってしまった時だとか、まだ平気だろうと酒を飲み続けたらつい限界を超えてしまった時だとか、課題を後回しにしていたらいつの間にか期限ぎりぎりになってしまった時だとか、我ながら呆れてしまうほど様々だ。
 ちなみに今回の原因は風邪だった。
 これくらいなら大丈夫だろうと放っておいたらいつの間にかどんどん悪化していた事に、今の今まで気付いていなかった。
「……しんどい。頭痛いし喉痛い」
「だから早く病院行った方がいいよって言ったのにー」
「すぐ治ると思ったんだってば……」
 ベッドの上で呻く千春を、歩が呆れたように覗き込む。せっかくの休みなのに今朝はやけに身体がだるいなと思っていたらなかなか起きあがる事ができなくて、そこを珍しく先に起きていた彼女に発見されたのだ。枕元にある目覚まし時計を見てみるともう昼前だった。
 千春の汗ばんだ額に冷たい手のひらを乗せて、歩は顔をしかめる。
「熱、結構あるよ。やっぱり病い」
「行かない」
「びょう」
「行かない」
 言い終える前に答えるものだから彼女は余計に眉根を寄せる。歩はすぐに千春を病院に行かせたがるから駄目だ。
 もう何度も話しているけれど、風邪で体の抵抗力が落ちている状態で病院まで出かけていくだなんてそんなの余計に他の病原菌を移されて悪化するに決まっている、と言い聞かせてやる。
「そんな事言って、ほんとは病院が怖いだけでしょ? 予防注射打たれただけでいっつもわんわん泣いてたじゃない」
「……」
 いつも通りの事を言い返されて黙り込む。
 そう言われても子供の頃の思い出というのは嫌なものほど明確に覚えているわけで、さすがにもう注射で泣いたりはしないけれどあの時の痛みは今だに誇張したまま覚えている。
 同じ理由で千春は歯医者も苦手で、あのドリルの音が堪らなく嫌いだ。「痛かったら手を上げてね」と言われたから素直に手を上げたのに、「我慢して」と告げられた時の絶望感といったらない。
 逆に歩は昔から神経が相当図太いのか、病院の注射にも歯医者のドリルにも臆する事なくへらへら笑っていたのを覚えている。
「今日は寝てないと駄目だよ。明日も熱下がってなかったら連れてくからね」
「んー……」
 曖昧に返事をしながら瞼を閉じた。自分の声が頭の中に響いて気持ちが悪い。
 いつものように壁際を向いて横になろうとしたけれど、内臓が歪んでしまうような錯覚を覚えて仕方なく仰向けに戻る。風呂にも入りたいし煙草だって吸いたいのに、こんな事ならもっと早く治しておけば良かった。
「何か食べたいものある? りんごとか桃缶とか」
「……マヨネーズご飯。醤油垂らして」
「もれなく吐くよそれ」
 千春ちゃんの味覚って時々理解出来なくなるよねと溜め息をつかれたけれど、ミロを粉のままサクサク食べるのが好きな女に言われたくはない。
 布団を柔らかく掛け直してから歩は台所の方に出ていって、残された千春は一人ぼんやりと天井を見つめた。
 そういえば、ずっと前にも似たような事があった気がする。実家で暮らしていた頃は千春か歩のどちらかが風邪を引くと相手に移してはいけないからと――自分の子供より相手の子供の心配をするような親達だった――治るまでお互いの家を出入り禁止にされていたのだけれど、それでも親の目を盗んでは会いに行っていたのを覚えている。子供のする事だからどうせすぐに見つかって連れ戻されてしまうに決まっていて、また一人になるのがたまらなく寂しいのだ。
 あの時の事を考えると、今の暮らしも悪くはないかなと思う。
「うわ、しょっぱくなっちゃった。マヨ入れたら誤魔化せるかなぁ。どうせ味分かんないよね」
「……」
 前言撤回。
 何を作っているかは知らないが、独り言ならもっと小さな声で喋れよと母親の味が恋しくなった。レシピ通りに作るなら歩は決して料理が下手な方ではないけれど、創作をさせるとなると常人離れしたセンスで迷走してしまうから困る。
 何で甘い匂いまでしてくるんだろうと思いながら、眠気に任せて再び瞼を閉じた。寝たら治る。何でも治る。病院になんて行かなくても治るはずだ。
「あれ? 千春ちゃんもう寝ちゃった?」
 ぱたぱたと戻ってきた歩の声が聞こえたけれど、返事をするのも億劫だ。既にまどろみも襲ってきていたし、このまま寝たふりを決め込んでいようと聴覚だけで彼女の姿を想像する。ベッドのわきに座り込んだようで、気配だけは伝わってきた。
「ねーんねーん、ころーりーよーおこーろーりーよー」
 子守歌を歌っているつもりらしいが、相変わらず音程が酷い。どこのお経だ。
「ちはるちゃんはーよいーこーだっ、ねーんねーしなー……続きなんだっけ。寝ろ!」
 いくらなんでもそれはない。思わず口元が引きつったけれど我慢する。
「……ほんとに寝てる?」
 頬を指でぷにぷにとつつかれた。寝かしつけたいのか起こしたいのか、どっちなんだろう。
 母親達の引き離し対策は賢明な判断だったんだなと今更になって実感した。一人で静かに寝ていても、二人になると途端にテンションが上がってしまって逆効果だったんだろう。
 額に冷たい何か――多分冷えぴただ。夏になると歩が涼を求めて大量に消費するから家には山程ある――を貼られて、ようやく諦めたのかとほっとした。
 心配してくれているらしいのは分かるけれど、彼女は生まれつき騒々しい性格なのだ。
 と、安心していたのも束の間。
「いっつも仏頂面のくせに寝顔だけは可愛いんだから。ちゅーしちゃえ、ちゅー」
「だー!」
「うわっ」
 頭の上にのしかかってこようとする重みにさすがに耐えきれなくなって勢いよく起き上がる。ぜーぜーと肩で息をする千春に、歩は「びっくりするなぁもう」とあっけらかんと言ってくるけれど、この手の冗談は本当に心臓に悪いからやめて欲しい。
「寝るから! 邪魔するな!」
 ずれた冷えぴたの位置を正しながら怒鳴る。顔が赤いのはきっと熱のせいだ。一刻も早く安静に寝ているべきだし、そのために彼女を追い出すだけで、決して胸の片隅にある妙な気持ちが原因ではない。
「でもこれ、由緒正しい治療法なんだよ? 誰かに移したら早く治るっていうから千春ちゃんが風邪で寝てる時は私がいつも愛情込めて――」
「いいから出てけ馬鹿!」
「はーい」
 渋々部屋から出て行く歩を無視して頭から布団を被り直した。なんだか余計に体がだるくなった気がする。
――前に風邪で寝込んだのは高校生の頃だったっけ、中学生の頃だったっけ、全部で何回だったっけ。
 覚えてないのが勿体ない、と感じてしまうのが悔しかった。


 翌朝。
「……治った」
 適当に寝て、変な味のご飯を食べて、また適当に寝ていただけなのに、デジタルの体温計が健康的な数値を叩き出している事に愕然とする。味もしっかりと分かるようで、煙草も美味しい。
 とりあえず念願だった朝風呂と洒落込もうかなと歩の部屋の前を通り掛かると、中からわざとらしい呻き声が聞こえて立ち止まる。扉をそっと開けると、氷嚢を頭に載せた幼馴染みがアナログの体温計を口に咥えてうんうん言っているのが見えた。
「あ、千春ちゃん。困ったなぁ、私も風邪引いちゃっ」
「病院行ってきなよ」
「熱が37度も! これはもうお粥をふーふーしながら食べさせたりケーキ屋さんの美味しいプリンを買ってきたり何故かやたらとぬるいポカリを飲ませたり服を脱がせて汗を濡れタオルで拭いたりして誠心誠意看病するしかな」
「病院行ってきなよ」
 彼女が風邪を引いた原因はあえて考えない事にしてぱたりと扉を閉め直す。
 うどんくらいは作ってやるべきか、口元を手の甲でごしごしとやりながら悩んだ。


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