【掃除とは、己と向き合う機会が出来てしまうものである】

 大抵の週末は歩と二人で暇を持て余しているけれど、ふと思い立ってお互いの部屋の片付けをする事にした。
 常日頃のちょっとした掃除をサボっているわけではないが、家具の配置変えをしたりクローゼットの中身を整理するといった時間のかかるものはそう滅多にするわけでもないので、たまにはいい時間潰しになるだろうという寸法だ。
 壁際にあるベッドを部屋の中央に鎮座させてみたものの異様に落ち着かなくて結局元の位置に戻してみたり、金属製のラックにばらばらに突っ込んであったCDをアーティスト順に並べ直してみたり、クローゼットの奥で実家から持ってきたきり封も開けていない段ボール箱を見つけてみたりと、初めのうちはなかなかに楽しかったのだが。
「……うっわ」
 千春私物とだけ書かれた段ボールを開いて中身を探っているうちに、一番底の隅に隠れていた小箱を手に取りながら顔をしかめて呻く。
 確か実家に置き去りにして母親に見られては困る物を片っ端から詰め込んだ覚えはあるのだけれど――昔書いた日記帳だとか後輩から貰った手紙だとか、捨てるのもしのびない物が大半だ――まさか、これまで持ってきてしまっていたとは思わなかった。
 小箱といっても金属や木片で出来たきちんとした造りのものではなく、単に古ぼけたチョコレート菓子の空き箱で一見するとただのゴミのようだけれど、文庫本より少し大きいサイズのそれはお菓子とはまた違う重量をもってその存在を主張している。
 早い話が、小さな頃の宝物入れなのだ。
 スライド式の箱をそろそろと引き出すと、何でこんなものを後生大事にしまっていたのか首を傾げてしまうガラクタも多い。公園で拾った石英混じりの石に、ラムネに入っていたビー玉。U字磁石に、なにかのネジ。人生で最初の最後だった銀のエンゼル。他にも他にも、別に母親に見られたってどうでもよさそうなものばかり。
(……ていうか、母さんよりも歩に見せたくないんだよね)
 溜め息をつきながら指先で『宝物』をいじる。
 一つ一つのエピソードを改めて思い出してみたが、確か殆どが歩と一緒に拾ったか、歩から貰ったものなのだ、これ。昔の自分がどれだけ歩が大好きだったかを――そしてその感情をどれだけ素直に相手に表していたかを――まざまざと見せつけられているようで頭が痛い。
 子供だから出来たわけだ。仮に今の自分が歩から貰ったものを片っ端から収集していたなら、一歩間違えるとストーカーである。
「これとかなぁ……あ、さすがにもう入んないか」
 思い出の中でも一際恥ずかしい品を手にとって、独りごちながら眺める。
 銀色の輪も、飾りについたピンク色の花も、どちらも安っぽい金属とプラスチックで出来たおもちゃの指輪だ。お菓子のおまけだったのか祭りの夜店で見つけたのかは忘れたが、幼稚園くらいの頃に歩とお揃いで母親達に買ってもらった気がする。
 で、それをお互いに交換したのだ。エンゲージリングよろしく。
「……あー」
 思い出す度に溜め息が増える。本気で、結婚できると思っていた。大好きな人と死ぬまでずっと一緒にいること、という漠然とした認識で、あゆちゃん以外考えられなかった。昔の、ちーちゃんとしては。
 千春としてはもう、好きにも色々種類があるしなぁ、という認識しかないが。
「どうしよっかな、これ」
 また奥にしまいこんでしまうのも気が引けるが、見られてからかわれても困る。しかし、あの歩の事だ。見られたところで覚えていない可能性も高い。むしろ綺麗さっぱり忘れられていて、千春の方が泣きをみるはめになるかもしれない。
「歩、アホだからなぁ……」
「呼んだ?」
「うぉぉ!?」
 ふいにドアから顔を覗かせた歩に、思わずのけ反りながら硬直する。
 掃除をしていたはずなのに何故かパーティーグッズでよくあるゴリラのマスクを被った幼馴染を、ときめきとは正反対の意味で高鳴る心臓を押えながら見上げて眉根を寄せた。
「な、何してんの」
「いや、さっきこれ見つけちゃったから見せにきたんだよね。がおー」
 両手を上に掲げて襲い掛かるしぐさをしながら異様な生き物が雄叫びをあげる。小柄で巨乳な顔だけゴリラというのも、気持ち悪いという点では怖いと思うが。
 しばらく無言で見つめていると、やっぱゴム臭い、と呟きながらすぐに飽きて仮面を脱ぎ捨てた。
「大掃除ってなんでこんなに進まないのかなぁ。なんか、懐かしいマンガとかつい読み返しちゃって苦手だよ。千春ちゃんはど」
「すっ、進んでる進んでる! 今も整理してた所だし!」
 どう? と尋ねられる前に慌てて手の中にあった小箱を背後に隠す。いつもならマイペースでどんくさいくせに、怪訝そうな顔で歩が腰をかがめた。
「……今、なんか隠したでしょ」
「隠してない」
「えー、うそだぁ。ねぇねぇ、何? 私にも見せてよー」
「ちょっと、隠して、ないって、ば」
 恥じらいの欠片もなくのし掛かってくる彼女から逃れようと体をよじるが、床にあぐらをかいていた千春とでは高低差もあってなかなか横に抜け出せない。倒れ込んで小箱を潰してしまう訳にもいかず、背中を浮かせて踏ん張るのが精一杯だ。
 何よりあれだ、歩が密着することによって彼女の胸がなんというか、勘弁して欲しいわけで。
「……分かった。見せるから離れて」
「ついに私の権力が千春ちゃんを上回る日が!」
「永遠にこねぇよ」
 鬱陶しいから折れただけでしょと付け加えて、さも何でも無さそうな顔でひょいと小箱を手渡してやる。
 変に意識するよりは、素直に見せた方がマシだろう。
「わぁ、なんか色々入ってるねぇ」
「子供ってよく分かんないもん集めたがるからね。さっきはゴリラにビビって隠したけど、よく考えるとガラクタばっかりなんだから別に隠す必要ないし」
 興味津々に中を覗き込む歩に、千春は無感動に言った。
 嘘をつくコツは、まず自分自身に言い聞かせることなのだと思う。何故集めていたのか覚えていないし、執着する気もない。必要ないものばかりなのだと。
 きょとんと、彼女がまばたきをする。
「千春ちゃん、これいらないの?」
「え」
 動揺しては駄目だ。再度、自分に言い聞かせよう。
――これは宝物だろうか?
 いいや、必要のないただのガラクタだ、と。
「うん、あー、いらない、かな」
「捨てちゃうの?」
「……欲しいならあげるけど」
 思わずそう答えてしまったものの、取り消したい衝動に駆られて冷や汗が出る。歩に興味を持たれたくない一心で嘘をついたのに、あげては元も子もないではないか。
 えー、私もいらないなー、なんて言ってくれますようにと願ってみたが、歩はじっと小箱を見つめて何やら考え込んでいる風だ。んー、と小さく呟いた。
「じゃあ、貰っとこうかな。掃除の続きやってくるねー」
「あ、うん」
 ぱたぱたとのんきに部屋を出て行く歩を見送って、しばし待つ。
 耳を澄ませた。廊下を通り過ぎる音。彼女の部屋に戻っていく音。そのドアが閉じられる音を、ひたすら待つ。
「……あああああ」
 もう歩には気付かれないだろうと判断するなり、千春はその場で頭を抱えてごろごろと床に転がった。いや、あげてしまったのは確かにショックだ。なんだかんだで小さな頃からずっと大切にしてきた宝物を手放してしまったのは惜しい。
 だが、それ以上に――
(あのボケ、絶対覚えてない……)
 それ以上に、彼女の口から懐かしいのなの字も出てこなかった事の方がずっとショックだ。なんか色々入ってるねって、だからなんかって何だ。一番重要な部分ではないか。これが温度差ってやつか。過去の思い出にいつまでも浸っている千春がおかしいのか。
 正直な心境としては、思い出す素振りも見せてこないよりもからかわれた方が何百倍もマシである。かといって、自分から「これは昔、歩がこんな時にくれて云々」と教えてやるのも癪だ。
 どんよりとした溜め息をつきながら膝をついて、箱を漁る作業を再開する。なんだか少し、泣きたくなってしまった。やはり好きにも色々種類があるのだと自覚すると、辛い。
「……ん」
 どこで人生の選択を間違ってしまったんだろうと考えながら片付けを続けていたが、そばに転がったゴリラに気付いて手を止める。見せるだけ見せて、忘れて帰ったようだ。
 こんなものを収集する趣味は千春にないし、今のうちに返しておくのが賢明だろうとゴム臭いマスクを拾いあげてから歩の元へ向かう。立ち上がったついでに、夕飯の買出しにも行っておこう。
「歩、ゴリラ」
「んー、今ちょっとむりー。机に置いといてー」
「片付けるのか散らかすのか、どっちかにしなよ」
 足の踏み場もないような状態の中でクローゼットに頭を突っ込んでいる歩の尻に話しかけながら、言われた通り机の上にマスクを投げる。そのまま部屋を出て行こうと踵を返したものの、ふと気になってもう一度机を見やった。
 さぁっと、背筋を冷たいものが過ぎる。
「私、ちょっとあれ、丸福行ってくるから。ご飯できたら呼ぶわ」
「はぁい。あ、プリン買ってきてね」
「わ、わかった」
 ぎくしゃくとした足取りで台所にある共用の財布をひっつかんでから、逃げるように靴を履く。アパートの駐輪場に停めてあった自転車を漕いでいる最中もひっきりなしに汗が吹き出てきた。
 机の上に、指輪が置いてあったのだ。――それも、同じものが二つ。
 千春が持っていたのは一つきりだ。文房具や本ならともかく、あんなチャチなおもちゃをそう何年も製造し続けているとは思えない。なら、あとの一つを歩はどうして今も持っているのか。
 答えは実に単純である。彼女も、忘れずにずっとしまっていたからだ。
「……」
 自転車から降りて買い物カゴをカートに乗せながら息を飲む。
 歩の立場になって考えてみよう。忘れていたなんて千春のただの決めつけであって、彼女が実際そうだと言ったわけでもない。覚えていたとするならば。
――思い出の品を何故集めていたのかも分からないガラクタだとのたまい、必要もないからいらないと投げ渡し、こんなものくれてやるよと惜しげもなく振舞う、そんな自分はひょっとしなくても最悪の行動を取ってしまったのではないだろうか。多少の誇張が入っているとしても、まず失望してしまうレベルの行動を。
「……」
 フィリピン産の一番安いバナナを取ろうとした腕を引っ込めて、隣りで個別包装されている1本100円のバナナをカゴに入れる。タマネギとジャガイモとレタス以外の野菜を無視して、精肉コーナーで国産の合いびき肉を吟味する。魚は骨が刺さるから駄目だ。エビとイカとアサリを選ぶ。グラタン用のマカロニと、ココアと牛乳とコーンスープとスライスチーズを買った。一番高いプリンも買った。
 機嫌を取ろう。
 声を聞いた限り怒っている調子でもなかったが、顔は見ていない。今更、本当は覚えてるんだけど恥ずかしくて嘘ついてましたとも言い出せない。とにかく、歩の好物で機嫌をとるのだ。自腹を切ってでも普段滅多に作らないようなものを並べ立てるのだ。それしかない。
 決意を秘めた顔でレジをかいくぐってから自転車へ跨る。全力で帰路を走り、腕まくりをして台所に立った。
 自分でも少し、対応を間違えている気がしなくもなかった。


「……ち、千春ちゃん! ハンバーグが豆腐じゃなくてお肉だよ!? しかもチーズが乗ってるよ!?」
「たまには、いいかなぁと思って」
「なんで付け合せにフライドポテトがあるの!? サラダにレタスしかないよ!? コーンスープあるよ!? ていうか主食が玄米じゃなくてグラタンだよ!? いいの!?」
「あとでお風呂入ったら、あったかいココア飲んでプリン食べるといいよ」
「ミロじゃなくて!?」
 栄養バランスもカロリーもコレステロール値も何もかもが無視された献立を前に騒ぎ立てる歩に、千春は爽やかな微笑を浮かべながら椅子を引いた。歩が当番の日にはちゃめちゃなものを作る分、千春が当番の日はなるべく節制するようにはしてたのだけれど今日はもう仕方がない。
 本当は酒でも飲ませて忘れてもらいたいところだが、ただでさえザルの彼女がこの状況で酔いつぶれるまで飲むのは、さすがに後で後悔しそうなのでやめておいた。
「テレビ見る? 今、何か面白いのやってるかな」
「え、いいよ。ご飯の時は見ちゃ駄目っていっつも怒るじゃない」
「だからまあ、たまにはいいかなぁって」
 不審そうに向けられた視線をかわして、胃もたれしそうな食事を続ける。にこにこと嬉しそうな顔で料理をつついている歩に、エビもあげた。
「千春ちゃん、なんだか今日すごい優しいねぇ」
「歩が喜ぶ顔が見たくてね」
「それはうそ臭くて気持ち悪いよ」
「……」
 一瞬殴ってやろうかと思ったけれど我慢した。この調子なら、後は先に風呂に入浴剤を入れる権利さえ渡しておけば楽勝だろう。常備してある温泉の素ではなくて、炭酸系発泡剤までわざわざ買ってきたのだし。
 千春が食卓の下でガッツポーズを決めているとも知らず、表向きはなごやかに食事は進んだ。綺麗に平らげられた皿の後片付けを買ってでてからなんて事のない雑談を交わし、風呂を勧める。鼻歌交じりの水音を聞きながら勝利を確信した。
 いや、素直に謝ればもっと話は早かったのだろうが、それが簡単に出来るなら千春も苦労はしないのだ。謝らなければと思えば思うほど、変に意固地になってしまう。
 ともかく、これで問題は解決だろう。
「――あ、そうそう千春ちゃん。今日そっちの部屋で寝ていいよね?」
「え、何で」
 歩と交代に入った風呂からあがるなりそう言われて、すっかり気の抜けていた顔が引きつる。なんでって、と彼女は自室のドアを開きながら中を指差して続けた。
「今からこれ片付けて寝る元気ないもん。明日頑張るからいいでしょ?」
 買い物へ出る前に見たきりだったが、あれより更に混沌とした室内を眺めて頭を抱える。布団をあげたベッドの上にまで物が散乱していて、なるほど確かにこれでは座るのもままならないだろう。
「……もう好きにしてよ。私も疲れた」
「わーい。千春ちゃん大好き!」
 やけっぱちになってベッドに潜り込む千春に続いて、歩が遠慮なく壁際に陣取る。自分の腕枕で横になりながら薄目で彼女を眺めていると、歩はのんびりと長い息をついて首まで布団をかぶった。
「なんか今日さぁ、千春ちゃんベタ甘だしご飯豪勢だし一緒に寝てくれるし、まるで新婚さんみた」
「いや、それはない」
「なんでよぅ。そっちからプロポーズしてきたくせに」
「さ、寝よ寝よ」
 途中で遮られたせいか唇を尖らせる歩を無視して、乱暴に寝返りを打つ。
 あれだけサービスしても無理なら、いっそ嘘を突き通そう。千春ちゃんだってほんとは覚えてるくせに、なんて背中でぶつぶつと文句を言われたって気にしたら負けである。どうせ、結婚できないのだし。
「……ていうか、いくら幼馴染だからってさ。歩もそんな冗談ばっか言うなっての」
「なによ、冗談って」
 溜め息混じりに説教を始めると、拗ねた歩がしがみついてくる。何故うちの幼馴染は、やる事なす事がこうも幼いのだろう。
「だからほら、好きとかふざけてキスしようとしてきたりさ、よくやるじゃん。もう子供じゃないんだからその辺もうちょっと気をつけ――」
「私、冗談のつもりじゃないよ?」
「……は?」
 今度はこちらが遮られて硬直する。
 じょうだんのつもりじゃないよ。頭の中でリフレインする言葉の意味が理解できなくて戸惑った。冗談のつもりじゃないって事は、つまり、本気でやっているという事だろうか。それともそれも冗談で、冗談じゃないのが冗談という事かもしれないし、冗談じゃないのが冗談っていうのが冗談かもしれないし、要するになんだ。
 ぐるぐると悩み始めた千春をよそに、歩がわざとらしく欠伸をする。しがみついていた体を離して、壁際に寝返りを打つ気配が伝わってきた。
「まあ、千春ちゃんが冗談だって思ってるならしょーがないけど。もう眠いから先に寝るね。おやすみー」
「……」
「そういえば婚約指輪って、一人が二つ持ってたら婚約解消ってことなのかな。忘れてるなら関係ないけど」
「……」
 言うだけ言って普段の寝つきの良さを存分に発揮した彼女の寝息を、混乱したままの頭で受け止める。やっぱり、怒っていたではないか。それも、過去に例がないほどに。
 考えてみると四六時中顔を突き合わせなければならない距離にずっと住んでいた分、次の日まで残るような喧嘩は滅多にした覚えがなかった。喧嘩とは違うのかもしれないが、後々気まずくなるような行動はお互い起こさないようにしてきたのだ。
――歩は明日、自分にどんな顔をさせたいのだろう。
 一つだけ分かるのは、きっと寝不足だろうなという事だけで。
 いつもの壁紙とは違う妙に広い空間を睨みつけて、千春はただただ顔をしかめた。


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