【真夏の、夜の】

 夏の暑さは往々にして人を駄目にする。
 日頃理性で抑えているはずの欲望や感情や、そういったものの輪郭を全部溶かしてしまって、判断力を鈍らせる。
 千春は昔からその傾向が顕著だ。いつも石橋を叩いて渡らなければ気が済まなくて、自分の弱い部分を他人に見られることをよしとしない。意地っ張りとも格好つけとも言えるけれど、あれで根は情熱的なところがあるから表に出すのが恥ずかしいんだろう。
 長く付き合っている歩にとって、そこが可愛らしくはある。
――が、そのせいで困ってしまうことも、あるわけで。
「……ちょっと千春ちゃん。重い」
「んー」
 その理性を暑さとアルコールでやられた彼女がへらへらとしまりのない笑顔で太腿の上に頭を乗せてくるのを見下ろしながら、やっぱりきちんと見張っておけばよかったかな、と息を零した。
 手頃な価格で騒ぎたい学生達でごった返した居酒屋の、座敷席。歩の恋人は先ほどからずっとこの調子で、だらしなく足を伸ばしながら酒に飲まれたままだ。
 共通の友人もいる飲み会とはいえ、あまり積極的に人付き合いをするタイプではない千春が誘いに乗るのは珍しい。酒に弱いのは知っていたから心配ではあったものの、暑いから私も行く、少しくらいなら大丈夫、という言葉を鵜呑みにしてしまったのが間違いだったかもしれない。
 初めのうちは確かに大丈夫だったのだ。隣でちびちびとグラスを傾けながら反対側に座っていた友人と他愛のない話に花を咲かせていたから、歩は歩で違う話題に興じていた。お互い、別の相手にしか出来ない話だって山ほどある。集団でいる時まで二人の世界を作るつもりはないし、家に帰ればいくらでも出来ることだ。
 熱中するうちに酔いもまわり、一息つこうと周りを見渡し、気付けばこうなる。
 つまみは食べない、休憩はしない、そのくせグラスばかり傾ける。酒に弱いなら弱いなりの飲み方があるだろうに、まだ平気、を口癖にするのは彼女の悪い癖だ。平気だったためしがないのに、酔うと歯止めが利かなくなる。
「もー、足しびれちゃうからどいて? 自分でお水飲める?」
「やだ」
「やだじゃないの」
 しがみついてくる千春を抱き起こして顔をしかめる。人前でべたべたしてくるなんて普段は絶対やらないくせに、酒の席だと甘えてくるのだ。その上本人はまるで覚えていないと言い張るからたちが悪い。なまじ酒に強い分、恥ずかしいのは歩ばかりだ。
 まあ、他人相手に甘えられるよりはよっぽどマシだけれど。
「あーちゃんはさぁ、ほんと千春にべったりだよねー」
 何とか元通り座らせた彼女に半ば無理やり水を飲ませて、濡れた口元を拭ってやっているところを友人にそうからかわれる。逆でしょ、と思わず唇を尖らせた。
「私だって大変なんだよ? 千春ちゃん連れて帰らなきゃだから安心して飲めないし! みんな助けてくれないし!」
「だって千春が酔うと面白いから?」
「面白いよねぇ」
「私は面白くないの!」
 頷きあう彼女達に頬を膨らませて唸る。大体、千春にはあまり飲ませないよう言ってあるのに、次から次へと酒を勧めようとする彼女達にも非はあるのだ。
 けらけらと笑いながらも、まあ、と一人が頷いた。
「いっそ二人で付き合えちゃえばいいけどさ、そんなんだと彼氏も作れないよね」
「……か、かれし?」
 ひきつった声でおうむ返しに答える。
 彼氏というか、彼女はすぐ隣にいるものの。さすがに公言はできないので、いつもはぐらかしてばかりいたのだ。
 大人しく世話を焼かれていた千春の眉がぴくりと動いて、まずいなぁと思いながらも曖昧に笑った。
「そうそう、歩こないださ、誰だっけ、あの人。名前忘れたけど。返事したの?」
「や……あれはまあ、その」
「えー、とりあえず付き合っちゃえばいいじゃん」
「あ、私もこないだあーちゃん紹介してほしいって言われた。メアド教えていい?」
「よくない、だめ、ぜったい」
 出来るかそんなの、と内心思いながら目の前で両腕をクロスさせる。事情を知らないのだからどうしようもないと分かってはいるものの、千春の前でこうもぺらぺらと男の話をされてはたまらない。
 実際、陽気な酒だった千春がどんどん黙り込んでいくのが気になって仕方ないのだ。幼馴染みとしてずっと付き合ってきた自分達にとって、幼い頃は気にもしていなかった同性同士という意識に成長するにつれて振り回されてきた節がある。二人きりの時は恋人でも、一歩外に出てしまえば仲の良い幼馴染みに逆戻りだ。
 笑って誤魔化してばかりいるのは、つらい。
 歩だって何も考えていないわけではないのだ。子供の頃はそうだったかもしれないけれど、千春を悩ませたくないから明るく振る舞っているだけで。本当は――酒の勢いなんか借りずに――普通の、恋人同士のように過ごしたい。遊びや買い物に出かけるわけじゃなくて、デートがしたい。冗談混じりではなく、千春が世界で一番好きだと誰かに叫びたい。幸せなばかりじゃなくて、胸が苦しくなることもたくさんある。
 友人達を信頼していないわけではないけれど、もう少し時間が必要だった。
 話題が変わるまでじっと待つ時間をあと何度繰り返せばいいかまでは、まだ分からないけれど。


「ん、千春寝てる? つぶれた?」
「みたい。千春ちゃん、そろそろお店出るよ?」
 ひとしきり話した後に、いつの間にか背中を丸めて横になっていた千春の肩を揺する。むくりと起き上がった彼女を支えながら次の店に行くのは断って、二人で先に別れることにした。
 なんとか歩いて帰れる距離ではあったものの自分も疲れていたし、あまり贅沢はしたくないけれどタクシーを呼んだ。黙ったまま赤く腫れた目元を擦る千春の手を引いて、アパートの古びた階段を一歩一歩上る。
 部屋に帰るなり灯りもつけずにソファーへと寝転んだ千春を追いかけて、冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターのボトルを頬に押し当てた。
「千春ちゃん、もうそこまで酔ってないでしょ」
「……酔ってるよ」
 ソファーは彼女に譲ることにして、床に膝をつきながら額に口付ける。拗ねたように視線を下げて、ぽそりと千春が呟いた。
「私、聞いてない」
「うん?」
「告られたとか、知らないし」
「教えてほしかったの?」
 彼女の髪の毛を指で梳いてやりながら尋ねると、ふるふると首を横に振る。千春がこういう姿を見せてくれるのが嬉しかった。他人には見せたがらない弱い部分も、歩の前では少しずつ少しずつ、素直に出してくれるから。
「ほんとは」
 歩の手を取って、指先を唇に当てながら続けてくる。
「ほんとは、途中で帰りたかったけど。それで何か言われるのも嫌だから、寝てた」
「そっか」
「……自分でもやめたいんだけどさ。酔ってたら、頭の中麻痺しちゃって。歩に触りたいの、我慢できなくなるし。最初は暑いから、飲んでただけなんだよ。困らせるつもりは、なくて」
 そう途切れ途切れに話してからじっと見つめてくる彼女に、今度はきちんと唇を重ねた。小さく何度もついばんでいるうちに、安堵したように漏れた吐息が触れてくすぐったい。
 手のひらを強く握りなおしながらソファーから降りた千春と、もつれるように倒れこんだ。舌にはまだうっすらとアルコールが残っていて、それから煙草と、千春の味が混じる。
 不安になりやすい人だから、自分が支えてあげないと駄目な気がするのだ。不器用な彼女の代わりに、自分は言葉でも伝えてあげないと。
「私、千春ちゃんが好きだよ」
「ん」
「大好き」
「うん」
 背中をまさぐる腕に身をよじって、首筋に埋められた頭を抱きしめながら何度も囁く。何度も、何度も囁く。言葉少なに頷く千春が、ただ愛しかった。
 誰かに叫ぶことはできなくとも、目の前のあなたにだけ。
 この気持ちを伝えられることは、しあわせだと思う。


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