【私と彼女のいまむかし】

 どうもこの頃、ぼんやりした時は千春ばかりを見ている。
 手元にある雑誌に向けていたはずの視線がいつの間にか彼女に移っていたのにようやく気付いて、歩は小さく首を傾げた。
 夕食も済んだし、お風呂にも入った。課題があるからと自室に戻った千春に、特にやることもないので付いてきた。よくあることだし、こちらに背中を向けて勉強している姿なんて珍しくもなんともないはずなのだけれど。
 ひょっとして今の私ってかなり暇してるのかな、と自覚しながら周りを見渡してみる。
 千春の部屋は歩の部屋と比べて随分と殺風景だ。昔から、目に見える場所に細かい物を置くのがあまり好きではない人だった。ローチェストの上にあるものと言えば実家から持ってきた古い型のCDコンポに、買ったばかりの文庫と本が数冊ずつ。漫画はあまり読まないから、代わりに辞書と参考書。独立したラックに結構な量があるCDも歩とは好みがまるで違うし、暇を潰せそうなアイテムは特にない。今読んでいるファッション誌だって、自分の部屋から持ち出してきただけだ。
 他には歩が寝転んでいるベッドと、千春が座っている机くらいのもので。
 そういえば建物が違うだけで、部屋の中は昔とあまり変わっていない。引っ越した時にある程度の家具は新調したけれど、全体の雰囲気は似たようなものだ。実家にいた頃から、千春の部屋で二人過ごすことの方が多かった。
(……いつだっけ。小学校くらいまでは、千春ちゃんがうちに来てたのかな)
 唇に、指で触れながら昔を思い出してみる。
 そうだ確か、まだ『あゆちゃん』と呼んでくれていた頃だ。いつも二人でいるのが当たり前で、お姉さんぶった千春が歩を甘やかしてばかりだった頃。
 中学に上がる少し前辺りから、だんだんとうちには来なくなって。ちーちゃんと呼ばれるのは恥ずかしいと嫌がるようになって。
 今になって考えてみると、先に意識し始めたのはたぶん彼女からだ。あれだけ仲の良かった相手に急にそっけない態度を取られる理由が歩にはまだ分からなくて、半ば強引に千春にくっついていた。――そのせいで彼女も余計悩んでいたのだろうから、正直、中学の頃の話はあまり思い出したくない。
(結構あからさまに避けられてたもんね。眼鏡も、いつからかけてたか覚えてないし)
 机に向かう彼女にちらりと目をやりながらため息をつく。同じ高校に進学すると知ったのは合格発表の時だったし、集中したい時だけ眼鏡をかけるようになったことも、入学してしばらく経ってから気付いた。いつもかけるのは邪魔だし、普段生活する分にはなくても困らないよと千春は言うけれど、目つきが悪いとよく言われるのは視力が少し悪いせいもあるんじゃないだろうか。
 思い出の中に知らない千春がいるというのは、寂しい。ただの友達なら違ったのかもしれないけれど、昔から千春は歩の特別だった。
 ずっとずっと、歩の一番だったのだ。
「……あの、何?」
「え?」
「いや、さっきからこっち見てるから」
 先程から視線を気にしていたらしい千春が振り向いて困ったように笑う。
 邪魔をするつもりはなかったので、慌てて歩も笑顔を返した。
「ごめんね、ちょっとぼーっとしてただけだから。気にしないで?」
「ん。……まあ、もう少しで終わるから。待ってて」
 ぽそりと呟きながら背中を向けた彼女の耳が、やけに赤く染まっている。見つめられて照れてたのかなと思うと、なんだか頬が緩んだ。用もないのに見つめているだけだなんて、邪魔だからあっちへ行けとよく怒られていたものなのに。このまま、そばにいてもいい許可までくれている。
――許可と、いうか。
 いつからか二人の間に出来ていた、境界線というのだろうか。また避けられるのが嫌で、仲の良い幼馴染みのままでいたくて、それ以上近付けなくなってしまった見えない距離感。どうしようもない刺々しさと、緊張感。あれを、この頃は感じなくなった。
 昔と変わらないのは二人を囲んでいる空間だけで、中心にあるものは随分変わっていたのだと思う。無意識に彼女を見てしまうのも、やっと近付けた距離が嬉しいからだ。
「終わった?」
「まだだけど、ちょっと休憩」
 背伸びをして立ち上がる千春に声をかけてみると、眼鏡を机に置きながら首を横に振る。瞼を軽く押さえながらこちらに近付いてきて、寝転んでいた歩をひょいと起こしてから自分がベッドに倒れこんだ。
「……もー、私が先に陣地取ってたのに」
「いいでしょ、私のベッドなんだし」
 無理やり正座をさせられて唇を尖らせると、横になった千春が鬱陶しそうに手のひらを払う。
 こういうところは、相変わらず可愛くない。
 なんだかんだ言っても、ちーちゃんを懐かしく思ったりはするのだ。宿題を手伝ってくれる、着替えを手伝ってくれる、おやつを分けてくれる、口の周りを汚せば拭いてくれる、母親に叱られれば優しく慰めてくれる、昼寝の時はすぐに毛布をかけてくれる。子供とはいえ、誰もが羨むお姫様扱いだった。
 今となっては、やれ行儀が悪いだの野菜を残すなだの身支度はもっと早くしろだの服を脱ぎっぱなしにするなだの布団を独り占めするなだの。母親じゃあるまいし、たまには昔みたいに甘やかして欲しい。
「ねぇ」
「なによぅ」
「……何で拗ねてるわけ?」
 呼びかける声にわざとそっぽを向いていると、別にいいけど、とため息混じりに言われて顔をしかめた。恋人が拗ねている理由くらい、きちんと確かめてほしい。
「千春ちゃん、ほんっと可愛くな――」
 立ち上がろうと重心を移した体を、ぎこちない仕草で元に戻す。
 くすぐったいような、心地良いような、熱をもった感触が衣服越しに伝わってくる。そろそろと様子を窺ってみると、可愛くないはずの恋人が膝枕に頭を乗せて固まっているのが見えた。
「え、あの、酔ってないよね?」
「……ないですよ」
「め、めずらしいね?」
「……休憩だってば」
 妙に気恥ずかしくなってうろたえる歩に、千春がぶっきらぼうに答えてから黙り込む。
 冷静なままの彼女が甘えてくるなんて滅多にないことで、お互い、真っ赤になりながら視線をそらした。呼吸のリズムも体温も、心臓の音まで、混じりあって溶けるような。
 昔からずっと歩の一番は千春だと思っていたけれど、どうやらこれも、いつの間にか変わっていたらしい。昔は、ここまで鼓動が速くなることなんてなかった。ここまで心をかき乱されることなんてなかった。
 二人の距離を確かめるように手のひらを伸ばして、彼女の髪に触れる。小さく届いた言葉が嬉しくて、くしゃくしゃと撫でた。
 毎日、毎日。
 好きな気持ちが、増えていく。


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