【私の彼女はおあずけが出来ない】

 ほんのちょっと、目を離しただけのつもりだった。
 最近は学校とバイトの往復ばかりで千春も疲れ果ててしまっていたし、せっかく早く帰れるのだから久しぶりに歩と二人でゆっくりしようと珍しくお土産を買ってみたりして、靴を脱いでテーブルに荷物を置いてすぐ顔を洗って、部屋着に着替えるために自室へ戻った、その、たった数分間。
「――おいこら」
「ふぁう」
 それすらも我慢できずに買ってきたショートケーキを手づかみで頬張り始めていた歩を見つけて低く唸る。千春の声に動揺したのか、ぎくりと歩がこちらを振り向いた拍子に上にのっていた苺がぽとりとテーブルに落ちて、
「あ」
 すぐさま空いた左手で苺を摘んで口に入れた。
 口の周りをクリームでべたべたにした彼女に大股で歩み寄って、気まずそうに顔を背ける歩の顎を掴みながらあくまで優しく微笑んでやる。
「美味しい?」
「お、おいしいよ。苺もおっきかったし。さすが千春ちゃんの選んだお店だよね!」
「そっかぁ、美味しいかぁ」
 引きつった声で答えてくる歩の右手の先を見やる。残り半分、といったところだろうか。二口は食べたのだと思う。苺も含めると三口か。
「……一口、15分くらいかな」
「え、え、何が? 2秒くらいだったよ?」
 思わず呟いた言葉の意味が分からず聞き返してくる歩を無視して、心を落ち着かせようとゆっくり息を吐く。
 千春にしては、珍しく奮発した買い物だったのだ。
 コンビニで買うのも芸がないなと、少し先の駅まで足を運んで。テレビでも評判の人気店まで行って。きゃあきゃあと楽しそうにはしゃいでいる行列の中を一人寂しく並んで。
 並んで、並んで。
「それ。買うまで、1時間以上並んだんだよね」
 たった6秒で半分になってしまったケーキを指差してぽつりと告げる。
 本来なら皿の上にフォークと共に上品に置かれていたはずの、喜ぶ彼女の顔を眺めながら会話と共に少しずつ食べようと思っていたはずの、生クリームとスポンジの残骸を。
「……」
「美味しいだろうね。そんな豪快に食べたら」
「……」
「私、いつから猿と暮らしてたんだっけ。人間は食器使えるよね」
「……」
「この口か? あ? 行儀悪いのはこの口か?」
 言っているうちに腹が立ってきて、掴んだままの歩の顎をがくがくと左右に振る。そこらで買ってきたケーキなら千春もまあ、ここまで怒らなかったのだ。形だけ叱りはすれど、可愛い悪戯みたいなものだとすぐ許せたと思う。
 何故よりにもよって、これを手掴みで食う。6秒で食う。
「――いひゃいってば! 何よぅ、千春ちゃんのけち!」
「あー!?」
 千春の腕を途中で引き剥がした歩が勢いよく残りのケーキも口の中に詰め込んでしまって、思わず声をあげる。
 リスのように頬を膨らませた彼女を呆然と眺めていると、指についたクリームまで綺麗に舐め取った歩は喉を大きく鳴らしてから満足そうに息をついた。
「ごちそーさま」
「ええー……」
 両手を合わせられて力無く肩を落とす。なんとまあ、あっけない食べ方をするものだ。
 怒る気力も無くなってしまって、どかりと床に座り込んで灰皿を寄せた。ケーキはまだ1つ残っているけれど、とてもじゃないが今は食べる気になれない。千春自身はそこまで甘いものが好きというわけでもないのだし。
 拗ねた顔で煙草を咥えようとすると、横から伸びてきた腕にそれをひょいと取り上げられて眉根を寄せる。文句を言おうと開いた口に、煙草の代わりに甘い塊が詰め込まれてきた。
「……ふぁにふんの」
「千春ちゃんも手で食べてるから、これでおあいこでしょ?」
「ひあう」
 何すんの、違う、と呟きながら歩が食べさせてくるケーキを咀嚼する。行列が出来るだけあってスポンジはしっとりと、クリームは甘すぎずなめらかで、確かに美味しかった。
「ほら、あーん」
「……あー」
――苺も、大きいし。
 過程はどうあれ二人でゆっくりしたいという当初の目的は叶ったのだから、これはこれでいいのかなぁと大人しくされるがままにしているものの、
「あいた。ちょっと、今わざと噛んだでしょ」
 誤魔化されたような気がしなくもないので、仕返しはしたけれど。


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